空が赤く燃えていた。
爆ぜる火の粉が黒煙の中を舞い、焦げた木材の臭いが鼻を刺す。
瓦が崩れ落ちる音が鳴り響く。
崩れ落ちた家々の瓦礫の隙間から、助けを求めるか細い声が響き、それすらも、剣の交錯音と怒号にかき消されていった。
少女は走った。
地面には転がる影。見慣れたはずの通りに、血だまりが広がっている。
幼い頃に遊んだ市場の角には、人の姿があった。
だが、誰も動かない。
誰も声を発さない。
胸が焼けつくように痛む。
膝が震えても、足を止めることは許されなかった。
(間に合って、間に合って……お願いっ!)
荒れた呼吸が喉を焼き、肺の奥が悲鳴を上げる。
だが、止まるわけにはいかない。
もう、これ以上、失いたくない。
――家へ戻らなければ。
瓦礫を飛び越え、転がる壊れた屋根瓦を踏みつける。
焦げた鉄と血の匂いが混じり、喉の奥が焼けるような感覚に襲われた。
「父さま!母さま!」
誰か、返事をして。
誰か、生きていると言って。
しかし、応えたのは風に舞う灰だけだった。
「兄さまっ!姉さまっ!」
家の門は崩れ、庭の白砂は赤黒く染まっていた。
見開いた目の端に、倒れ伏した屋敷の侍女の姿が映る。
その手は何かを掴もうとするように宙を彷徨ったまま、もう動かない。
喉が詰まる。叫びたいのに、声が出ない。
震える足で、屋敷の中へ駆け込む。
そして――。
奥の部屋に辿り着いた少女は、そこに横たわる彼を見つけた。
「りょ、凌……?」
――そんなはずはない。
近づけば、嘘だとわかる。
凌は、笑って「大げさだよ」と言うに違いない。
少女は駆け寄った。
だが、鼻を刺したのは血の臭いだった。
服は深紅に染まり、畳の上には広がる黒い影。
その中心で、凌は穏やかに横たわっていた。
「イヤだっ!待って、しっかりして!今、血を止めるから!」
震える手で布を押し当てる。けれど、指の間から溢れる赤は、止まることなく広がっていく。
「……逃げ、て」
薄く微笑んで、凌は少女の手を掴む。
「何言ってるの! 凌を置いて行けるわけないでしょう!」
「……ダメだ」
声はかすれているのに、その言葉だけは鋭く響いた。
睨む瞳は、これまで見たことのないほど真剣だった。
「お前は、生き、るんだ」
(なんで、なんで、なんでっ!!!こんなことに……!!)
布を押し当てた手は、すでに真っ赤に染まっていた。
震える指が、凌の手を強く握る。けれど、その温もりは少しずつ消えていく。
少女の喉から、嗚咽が零れた。
◆ ◆ ◆
屋敷は夜の静寂に包まれ、障子の向こうで竹林を揺らす風の音と虫の鳴き声がかすかに聞こえた。
廊下を歩く足音が、板張りの床にそっと吸い込まれていく。
昼間の喧騒は消え去り、唯一、書斎の灯籠の淡い光だけが、夜の闇に浮かび上がっていた。
少女は足音を忍ばせながら、その部屋へ向かう。
そっと障子に手をかけ、音を立てぬようにわずかに開けると、微かな墨の香りが鼻をくすぐった。
部屋には書物の山が積まれ、乱雑に置かれた紙束が無造作に散らばっている。
部屋の奥、机に向かっている少年の姿が目に入る。
背筋を伸ばし、筆を手にした彼は、書物をめくる手を止めることなく、机に広げられた紙の上に流れるような筆跡を刻んでいた。
筆が紙を滑る微かな音が、部屋に心地よく響く。
障子の向こうから、庭の竹林を揺らす風の音が重なり、まるで静謐な調べのようだった。
少女は小さくため息をついた。
「……また夜更かししてる」
ぽつりと呟くと、少年は本から目を離し、微笑を浮かべる。
「夜更かしじゃないよ。これを読んでいたら、つい夢中になっちゃって」
柔らかく夜気を含んだ声が、静かな部屋に響く。
彼の細い指先が書物の端を軽やかにめくると、紙の擦れる音が静かに室内に広がる。
少女は部屋へと足を踏み入れ、机の上の紙束に目をやる。
そこに書かれていたのは、美しく綴られた詩だった。
「そんなこと言って、また詩を書いていたんじゃない?」
少女は片眉を吊り上げながら紙束を指差した。
少年は微笑みながらも、少しだけ苦笑するように肩をすくめる。
「音楽も詩も、僕にとっては大切なものだからね」
「父さまに見つかったら、また叱られるよ?」
「大丈夫、大丈夫。父さまはもう寝てる時間だから」
少年はくすりと笑うと、筆を机の隅へと片付けた。
「玲華こそ、こんな時間まで何をしていたの?」
「……べ、別に!」
「何か困ったことでもあった?」
「うっ……」
玲華と呼ばれた少女は思わず視線を逸らした。
昼間、兄たちの剣の稽古を見ていたせいで、明日までに仕上げなければならない刺繍の宿題をすっかり忘れていたのだ。
慌ててやろうとしたものの、どうしても上手くいかず、仕方なく兄の部屋に助けを求めにきたのだった。
「……その、ちょっと、刺繍が……」
小声でぼそぼそと呟くと、少年は興味深そうに玲華を見つめ、くすりと笑った。
「なるほど、今日は兄上たちの稽古を見ていて、宿題が手つかずだったんだね?」
「違う! ちゃんとやろうと思ってたの! でも、上手くできなかっただけ!」
「ふふ、言い訳しても同じことだよ。で、僕に頼りに来たんでしょう?」
「……別に、そういうわけじゃ……」
玲華がごにょごにょと言葉を濁していると、少年は手を差し出した。
「見せてごらん」
「……わかった」
玲華はしぶしぶ懐から布を取り出し、少年に差し出した。
少年はそれを手に取ると、ゆっくりと眺める。
針目は揃っておらず、糸もゆるく、形も不格好だった。
「……確かに、ちょっと荒いね」
「わかってる!」
玲華は頬を膨らませるが、少年は落ち着いた表情で微笑む。
「でも、ここは頑張ってる。最初はみんなこんなものだよ。僕も最初は失敗ばかりだったしね」
「凌は、男なのに刺繍が上手すぎるんだよ……」
「手先が器用なだけだよ」
凌は筆を置き、手際よく針を手に取ると、するすると美しい刺繍を縫い始めた。
糸の通し方、針の動かし方、どれも迷いがなく、まるで絹を紡ぐように滑らかだった。
玲華は、針を動かす凌の指先をじっと見つめた。糸が滑らかに布を縫い進む様子に、思わず息を飲む
「……すごい」
玲華は思わず見惚れた。
「玲華も何度も練習すれば、すぐに上手くなるよ」
「ほんとに?」
「うん。ちょっとしたコツさ。ほら、こうやって……」
凌は少女の手を取り、そっと針の動きを教える。
細く、柔らかい指が少女の手を包み込む。
玲華は思わず見惚れながら、布越しに伝わる凌の温もりを感じていた。
「僕がいる限り、玲華は自由でいていいんだからね」
彼の掌の温もりが心地よくて、少女は小さく頷いた。