1-1 告げられた婚約破棄
「……婚約を解消したい」
その一言が放たれた瞬間、あまりに空気が静かになったせいで、窓の外で鳥が鳴いた音すら鮮明に聞こえた。
ここは、フジョ子爵邸の南棟応接室。婚約者同士としては最後となるであろう正式な顔合わせの場。
テーブルを挟み、向かいに座っているのは、ヴァリエント王国第一王子、アルファス・ルジェール殿下。
美しく整った金髪に、澄んだ瑠璃色の瞳。誰が見ても王子らしい王子である。これまで何人もの貴族令嬢が彼に心を奪われてきたし、そして私も、その“選ばれた一人”――であるはずだった。
そう、だったのである。
「……あら。そうですの?」
私――フェアリエル・フジョは、優雅にティーカップを口元に運びながらそう返した。紅茶は香り高いダージリン。味は、まあまあ。
内心は嵐である。
(え? なに、今、婚約破棄って言った? 王子が? え、マジ?)
頭のなかで何度もリピートされたその言葉を、確認せずにはいられない。
「差し支えなければ、理由を伺っても?」
私の問いに、アルファス殿下は躊躇なく答える。
「真実の愛を、見つけたのだ」
ド定番きたーーーー!
(いや待って、マジで!? テンプレすぎて逆に笑うしかないのだけど!?)
私は眉ひとつ動かさず、静かに問いを続けた。
「それは、それは……。で、その“真実の愛”のお相手は、どなた?」
殿下は一瞬、言葉に詰まる。視線がちらりと私の背後を向いた。
私はその視線の先を辿って――
心臓が、一瞬止まりかけた。
「私だよ、フェアリエル」
その声は、あまりに聞き慣れていた。けれど、こんな場で聞くなど想像だにしていなかった。
振り返る。そこに立っていたのは、私の実兄――キーリング・フジョ。
黒髪に灰銀の瞳。王国騎士団副団長にして、殿下の親衛隊長。寡黙で無表情、いかにも職務に忠実で感情の起伏が読めない男。だが、近衛の間では「黙っていれば美形」「喋っても黙ってても美形」と評判の男である。
(は?)
思考が一瞬でショートした。
(兄? 兄が? 兄が“真実の愛”? 私の、婚約者の? え?)
「つまり……私は、実の兄に婚約者を寝取られた……ということですか?」
自分の口から出た言葉に、私自身が驚いていた。
王子は居心地悪そうに目を逸らし、兄は静かに頷いた。
「すまない、フェアリエル。だが……自分にはもう、嘘はつけない」
もう、なんなのこの状況。少女漫画も乙女ゲームもびっくりの展開。
私はカップを置き、そっと目を伏せた。
そして、ふるふると肩を震わせながら、ゆっくりと顔を上げる。
「……王子×兄……なんて、なんて……尊い……!」
場が、凍りついた。
王子は「は?」と呆けた声を出し、兄も「……え?」と眉をわずかに動かす。
「婚約破棄、承知いたしました。おめでとうございます、お二人の真実の愛が結ばれて!」
私は席を立ち、両手を胸に当て、感極まった表情で二人を見つめた。
「ただ一つ、お願いがございます」
――そして、深々と頭を下げた。
「その愛の行方を、どうか最後まで私に見届けさせてくださいませ。それが条件ですわ」
もう、あらゆる意味で“条件”でも“交渉”でもなかった。もはやただの個人的な腐女子的願望である。
「……フェアリエル、本当に……大丈夫なのか?」と王子。
「フェアリエル……」と兄。
私は静かに微笑む。
「大丈夫ではありません。ですが、これは……尊い義務ですの」
その日の夜。私は机に向かい、一冊のノートを開いた。
表紙には、金文字でこう記された。
『銀の王冠と黒髪の騎士 第一章:禁じられた忠誠』
そして私は、ペンを取る。
「この愛は記録されねばならない……。尊いとは、こういうことですわ……!」
この瞬間、“王子の元婚約者”フェアリエル・フジョは、
“記録者”として、そして腐女子作家として、新たな人生を歩み始めたのだった。
1-2 腐女子宣言と記録者の誕生
「どうかしら……この描写、兄様の“無表情だけど感情が滲む”感じ、ちゃんと出てるかしら……」
自室の机に向かい、私は真剣なまなざしで魔導筆を走らせていた。
手元の写本用紙には、こう記されている。
――王子は、騎士の手に触れた瞬間、己の立場を忘れた。
彼が国の盾であることも、王としての矜持も、この人の前では意味をなさない――。
「よし、尊い。実に尊い……っ!」
頬が自然と緩む。たった一枚の紙に宿る、兄と王子の愛の記録。
私はそれを“ノンフィクション”として、真実を余すことなく綴っていた。
(人には使命がある。王には王の、騎士には騎士の、そして――腐女子には腐女子の)
「記録者として、わたくし、書き続けてみせますわ……!」
あの日、婚約破棄の場で目撃した、兄と王子の“目線の交錯”。
それはあまりにもドラマティックで、情熱的で、そして──背徳的だった。
私は、それを“尊い”と呼んだ。そう、これは正義であり、美学であり、愛だった。
兄と王子の恋路を記録する。それは復讐ではない。恨みでもない。
ただ、この愛を歴史に残す義務だと、私の中の何かが叫んでいた。
***
「フェアリエル様……最近、少しお顔が青ざめておいででは?」
翌朝、侍女のローザが私を心配そうに見つめてきた。
「ええ、そう? 心配には及びませんわ。少し、執筆が捗っていて……夜更かし続きなだけですの」
「……執筆……? やはり、日記を……?」
「ええ、日記のようなもの、ですわ♡」
(正確には“ノンフィクションBL実録文学”ですが)
昨夜、私はほぼ一晩中、兄と王子の想像と記憶を頼りに書き綴っていた。
王子の麗しい微笑、兄の氷のような無表情。だがその眼差しに宿る、炎のような忠誠心――いや、愛情。
ただの婚約破棄では終わらせない。
あのふたりの“関係”を、この世界で誰よりも理解しているのは、私、フェアリエル・フジョなのだから。
***
「フェアリエル様、またお手紙が届いております」
父の秘書が持ってきたのは、社交界の令嬢たちからの慰めの手紙だった。
“婚約破棄された不憫な令嬢”として同情されているらしい。
「ご心配、ありがたく受け取っておきますわ」
にっこり微笑みつつ、心の中ではこう思っていた。
(何もご心配には及びません。だって私は──現実より、もっと尊いものを手に入れましたのよ)
社交界の誰もが知らない、真実。
王子と兄の愛は、すでに私の原稿の中で始まり、燃え上がっていた。
***
数日後。
私はついに『銀の王冠と黒髪の騎士』第一稿を完成させた。
実名、実録、恋愛描写はやや創作(だが本人たちの目線から得た空気感はリアルそのもの)。
手が震える。こんなにも心を揺さぶる創作は、私の人生で初めてだった。
その夜、私は書斎の片隅で、完成した写本を抱きしめながら、ひとりつぶやいた。
「この世界の誰が反対しても……私は、この物語を伝え続けますわ。
だって、“尊い”は正義ですもの……!」
月明かりに照らされたその姿は、まさに“創作に取り憑かれた乙女”そのものだった。
しかし、彼女の筆が記す物語は、いずれ王国中を巻き込む騒動となるのだった――。
それはまだ、誰も知らない。
──この瞬間、ヴァリエント王国に“BL文学”が誕生したのである。