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第2話 憶測が流れる社交界

2-1 波紋のはじまりと社交界のざわめき




 ヴァリエント王国の社交界に、一石が投じられた。


 第一王子シリル・ヴァリエント殿下と、名門フジョ子爵家の令嬢フェアリエルとの婚約が「双方合意の上」で解消されたと、宮廷広報部から発表されたのだ。




 表向きには礼節ある文章で締めくくられていた。だが、それはつまり――




「王子が婚約破棄なさったですって!?」


「しかも、“合意”って……あのフェアリエル嬢が? あんなに王子に一途だったのに?」




 社交界は騒然となった。若き貴婦人たちは一様に色めき立ち、その中には驚愕の中にほのかな期待をにじませる者もいた。




「もしかして……これは、私たちにチャンスが巡ってきたのでは?」


「ええ、ええ、殿下の“次の婚約者”の座が空いたのよ!」


「わたくし、ちょうど先週、新調したドレスがございますの♡」




 フェアリエルを気の毒がる声はどこか上の空。代わりに、王子に近づこうと画策する動きが急速に活発化していった。




***




 一方、その渦中の本人――フェアリエル・フジョはといえば、いたって冷静だった。




(ふふっ……無駄ですわ。何人たりとも、王子と兄様の間には入り込めませんもの)




 薄く笑みを浮かべながら、ティーカップを持ち上げる。上品に紅茶をすするその姿に、彼女の友人たちは気遣わしげな目を向けていた。




「フェアリエル……その、今回のこと、本当に大丈夫なの?」


「ご無理なさらずに……私たち、話くらいなら、いつでも聞きますから」




 フェアリエルは小さく頷き、目を伏せた。




「ありがとう……でも、今は、まだ何も……言えませんの」




 その声音には、確かに哀しみの影があった。だが、それは失恋の痛みではない。彼女の心を支配していたのは――




(あのふたりの愛を知ってしまったがゆえの、どうしようもない尊さ……!)




 王子と兄の絆。それは血のつながりを超えて魂で結びついている。そんな彼らに恋慕など入り込む余地はない。だからこそ、誰よりも理解者である自分が、彼らの愛の“記録者”であり続けることが、この命の使命だと思えた。




「本当のことが世間に知られたら、どうなると思います?」


「何が……?」




 不意に別の友人が尋ねた。




「もし……本当は王子の方に非があったとして、それが明るみに出たら……」


「いいえ、それは……あり得ませんわ」




 フェアリエルはきっぱりと首を振った。




「王子は、罪など犯していません。……むしろ、愛に正直だっただけ。ですから、責めることなど、わたくしには……できませんの」




 その言葉の意味を正しく理解した者は、ひとりもいなかった。


 だが、聞いた者たちは一様に胸を打たれたような顔で、彼女の美しい横顔を見つめていた。




「なんて……強いお方なの、フェアリエル様って……」


「まるで慈母のような心……!」


「いいえ、女神ですわ!」




 何やら思っていたのと違う方向に褒められつつも、フェアリエルは静かに笑った。




(ええ、そうですの。わたくし、慈愛の記録者。尊き恋の観察者。……もはや腐女子ではなく、腐神ですわ)




***




 その夜。




「……殿下、あの書き物の件でございますが……」




 宰相補佐官が王子の執務室に入るなり、何やら書きつけられた冊子を差し出した。




「……? これは……」




 王子が表紙を見て、目を細めた。


 そこには金の箔押しで、こう題されていた。




『銀の王冠と黒髪の騎士 ―記録者の証言―』




 王子は、わずかに表情を曇らせた。




「“銀の王冠”……俺のことか?」


「……恐らく。問題はその内容です」




 数ページめくっただけで、王子は絶句した。




 そこに描かれていたのは、自分と――




「……フジョ子爵家の、エドアルド殿……?」




 文中では名前こそ伏せられていたが、明らかに自分とエドアルドの関係性をモデルにしていた。




 しかも、異常なまでに情熱的で、明らかに恋愛関係を匂わせる描写が――。




「……まさか、あの令嬢が……?」




 王子の手が震えた。




「この記録……内容が“フィクション”とは、誰も思わないでしょうな。筆致があまりにも……臨場感に溢れておる」




 そう、フェアリエルの描写は、まさしく“目撃者”そのものだった。




 王子は額を押さえ、ぐらりと体を揺らした。




「……尊いなどと……何を考えているんだ、あの女は……!」




 だが、その手は次のページをめくることを、止められなかった。




 ――フェアリエルの言葉が、彼の耳の奥で囁いているようだった。




(尊いは、正義ですわ)




2-2 辺境伯との出会いと禁断の想像


「フジョ子爵令嬢、辺境伯閣下が謁見を求めております」


 執事の声が屋敷の応接間に響いたとき、フェアリエルは紅茶を口に含んだまま固まった。


「……は?」


「ですので、辺境伯閣下が――」


「ええ、ええ、聞こえておりますわ」


 聞こえているからこそ、混乱しているのだ。


 辺境伯といえば、帝国国境を守る重鎮。容姿端麗で武勇に秀で、礼節を重んじる寡黙な男。その名は――ラルク・フォン・ドラヴァル。


 貴族の婚活ランキング“親に紹介したい男性貴族編”で不動の一位を誇る人物であり、その実直さから「地味すぎて嫁が来ない」という噂まで立っている。


「それで、そのような御方がなぜ私の元に……?」


「先日の王子殿下との婚約破棄を受けて……正式に、結婚を前提としたお付き合いを望まれているとのことです」


「……は?」


 フェアリエルの返答は、再び短かった。


***


「はじめまして。ラルク・ドラヴァルと申します」


 立ち姿は軍人らしく背筋が伸び、重みのある声と落ち着いた口調が印象的だった。


 年齢は王子より数歳上、だがその眼差しには年齢を感じさせない厳しさと包容力があった。黒銀の髪、端正な顔立ち、そして、どこか寂しげな瞳――。


 彼の後ろには副官らしき青年が控えていた。彼もまた麗しく、まるで軍服姿の双璧。戦場の華などと呼ばれていても不思議ではない。


 フェアリエルは深く息を吸い込む。


(……待ってください、これは、想像以上に危険な布陣では?)


 自制を試みたが、目の前の光景はあまりに眼福だった。


(どうしてこう……絵になるのかしら、このお二人。並んだだけで画集の表紙になりますわよ)


 しかも、どう見ても副官のほうが若干身長が高く、辺境伯は少し見上げる形になる。その微妙な視線の交差に――


(あれ? どっちが攻めでどっちが受けですの……?)


 再び妄想の嵐がフェアリエルを襲う。


***


 応接の席に着くと、辺境伯は率直に切り出した。


「失礼を承知の上で申しますが、私は閣下のことを以前より尊敬しておりました。宮廷での所作、学識、王子殿下を支える聡明さ……すべて、記録として目を通しております」


「わたくしの、記録を……?」


「妃候補としての報告書類は、すべて軍の資料に保管されています。情報戦略上も重要ですから。何度も読み返すうちに、次第に関心が……」


(なにそれ、恋に堕ちたきっかけが報告書!?)


 戸惑いつつも、辺境伯の視線は真っ直ぐで、そこに一点の曇りもなかった。


「政略でも名門の維持でもなく、私は――あなたに個人的な好意を持っています」


「わ、わたくしなどに……?」


「はい。婚約破棄の一件で傷つかれていることも承知の上で、それでも、あなたと真摯に向き合いたいと思ったのです」


(ちょ、ちょっと待ってください。これはまさかの――正統派アプローチ!?)


 正面からの誠意。誠実な言葉。


 それは、かつて王子に向けたまなざしに似ていた。


(でも、あの時とは違う……今のわたくしは、知っている……)


(兄×王子×辺境伯という可能性を!!)


 フェアリエルの脳内には、妄想という名のミュージカルが開幕していた。


 舞台:軍の野営地。

 登場人物:寡黙な辺境伯、熱血副官、そして謎多き王子。

 役割:トライアングル。ポジション争奪戦。副官は忠義からくる執着、王子は過去の戦場での因縁からくる情熱。


(いけませんわ!!これは理性が崩壊しますわ!!)


 思わずフェアリエルは目元を抑えた。


 辺境伯はそんな彼女の様子を心配そうに見つめた。


「……ご気分がすぐれませんか?」


「い、いえ……その……あまりに突然の申し出に、動揺してしまっただけですの……」


「無理もありません。今日お返事いただくつもりはありません。私は何度でも参上いたします」


(律儀……まじめ……誠実……はああああ、推せますわこの人……!)


 フェアリエルの心は、大きく揺れていた。


***


 その夜。


「……婚約、か……」


 ベッドに寝転びながらフェアリエルは空を見つめる。


 辺境伯のことは好印象だった。王子への想いはすでに見届けた。そして、いずれは自分にも――新しい人生が必要なのかもしれない。


(でも……まだ、あの二人の愛の続きが……)


 妄想ノートのページをめくると、そこには新しいタイトルが書き込まれていた。


『王子と兄と辺境伯 ~鉄と銀の三角関係~』


 フェアリエルの物語は、まだ終わらない。




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