第五章 5-1:婚約の誓いと、フェアリエルの決断
フェアリエル・フジョ子爵令嬢は、今日、辺境伯ラルク・シュトラールとの正式な婚約を結ぶ。
それは、社交界にとっても王宮にとっても大きな出来事だった。というのも、フェアリエルは今や貴族令嬢にして人気作家。しかも、第一作目は王子と実兄の恋愛模様を描いた“実録BL”だったのだ。
その衝撃的な内容が瞬く間に噂となり、社交界は「まさか実名!?」「いや、本人の許可を得たらしいぞ」「むしろ当人たちが監修しているとか」などと大騒ぎになった。
――にもかかわらず、彼女は辺境伯からの婚約申し入れを受けた。
しかも、相手は男気と誠実さで知られる若き名将。裏表のない彼の評判は貴族の中でも群を抜いており、「あの令嬢とあの辺境伯が? 意外だが…納得」と、世間の評価は次第に“奇抜”から“祝福”へと変化していった。
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「辺境伯ラルク・シュトラール様。あなたは、このフェアリエル・フジョ嬢を伴侶として迎え、ともに生涯を歩むことを誓いますか?」
王宮の一室で執り行われた簡素ながらも格式ある婚約式。
神官の問いかけに、ラルクは迷いなく答えた。
「誓います。何があろうとも、彼女を守り、信じ抜きます」
その声は静かであったが、堂々とした響きがあった。
「フェアリエル・フジョ子爵令嬢。あなたは、ラルク・シュトラール辺境伯の伴侶となることを望みますか?」
静かな空気の中、フェアリエルは一瞬、瞳を閉じて、深く息を吸った。
(いまだけは、妄想も執筆も、ちょっとだけ脇に置いておきましょう)
「……はい。わたくしも、誓いますわ」
にこやかに微笑むフェアリエルの姿に、ラルクはわずかに目を見開いた。
(……ああ、またやられた)
どれだけ不思議な発言をしても、どれだけ突拍子もない行動をしても。時折、こうして真っすぐに言葉を届けてくるのだ。彼女は――自分が思っていた以上に、ずっと強くて、まっすぐな人だった。
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式が終わったあとの控室で、フェアリエルはラルクに向き直った。
「辺境伯様……いえ、ラルク様。ひとつ、伺ってもよろしいですか?」
「なんでも聞いてくれ」
「婚約破棄のご予定は、ございませんか?」
「……何?」
まるで凍りつくような沈黙が落ちた。
ラルクはまばたきを数度繰り返した後、困惑したように肩をすくめた。
「……いや、ないが。どうしてそんなことを聞く?」
「では、弟をご紹介いたしますが?」
「待て、どういう展開だそれは……」
「何でもございませんの。ただの確認ですわ」
「いや、ただじゃない確認に聞こえるが……」
フェアリエルの言葉に、ラルクは真剣に答えた。
「断言しておく。私は君を選んだんだ。ほかの誰でもない、君を、だ。……だから婚約破棄など、考えたこともない」
「……そうですか」
(それなら、もうちょっと変なこと言っても大丈夫かしら)
フェアリエルの口元がわずかに緩んだ。
「では、わたくしからも最後に一つ。もし浮気なさるときは、相手は男性でお願いしますね」
「またそれか!」
「そうすれば、わたくしの想像が広がりますので。小説にする気はありませんが」
「いや、もうすでに第一弾も第二弾も出てるじゃないか……!」
「でも第三弾は、ラルク様と副官様が主役ですわよ? 架空の登場人物ですが」
「フェアリエル……君は本当に……」
ラルクは額を押さえた。だが、次の瞬間、柔らかな笑みを浮かべて彼女を見つめた。
「君がどんな妄想を抱こうと、小説を書こうと、君は君だ。それを知った上で、私は君に惹かれたんだ」
「……っ」
「だから、この婚約も、必ず成功させる。誓ってもいい」
その真摯なまなざしに、フェアリエルは胸の奥を突かれる思いがした。
(この人となら、現実も物語になるかもしれませんわね)
ふわりと、彼女は微笑んだ。
「……ご期待に添えるよう、努力いたしますわ。いえ、努力する気はありませんけれども、結果的にうまくいく気はしておりますの」
「それは期待していいのか悪いのか分からんな……」
笑い合う二人の婚約者。その未来は、決して平坦ではないかもしれない。
だが――
妄想も、現実も、どちらも手にして生きていくことを、フェアリエルは選んだのだった。
5-2:とどめの一撃と、妄想の終着点
婚約から数週間が経ち、辺境伯邸にてフェアリエルは新生活を始めていた。
新生活――とはいえ、変わったのは住所くらいのもので、彼女は変わらず午前中は執筆、午後は妄想、夜はラルクとの時間……と、いたって自由気ままな生活を送っていた。
「ラルク様、今日は演習ですの?」
「そうだ。副官と演習場で模擬戦を行う予定だ」
「……見学しても?」
「もちろんだとも。最近ずっと妄想ばかりしていたようだが、現場を見れば、きっと現実に戻って来られるだろう」
「……そうですわね」
(戻るとは言ってませんけれど)
フェアリエルはにっこり微笑んだ。
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そして午後。
彼女は演習場の見晴らし台から、戦場のような熱気に満ちた模擬戦を眺めていた。
ラルクが副官と剣を交えている。防御、攻撃、機動、連携。すべてがスムーズで、意思の疎通が完璧だ。まるで言葉ではなく感覚でつながっているような――そんな気すらする。
(……この空気……まさに愛ですね)
フェアリエルは無意識にノートを取り出し、ペンを走らせ始めていた。
> 「貴様……また俺を守ったな」 「当然だ。貴殿の背を預かるのが、私の役目だ」 「だが、それは命を投げ出していい理由にはならない」 「……だったら、貴殿も私を守れ。互いに、命を懸け合うのだ」
「……完璧ですわ……!」
鼻息を荒くするフェアリエルに、側にいた侍女が小さく息を呑んだ。
「……お嬢様、それはまた妄想……」
「違いますわ。これは現実を基にしたドキュメンタリーですの。やがて世界文学遺産になる予定の一冊です」
侍女は、それ以上何も言えなかった。
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演習終了後。
汗をぬぐったラルクが戻ってくると、フェアリエルはすかさず近づき、真顔で尋ねた。
「ラルク様。辺境伯様と副官様、どちらが攻めで、どちらが受けですの?」
「……はい?」
「戦術的な意味で、ですわ」
「そうか。攻撃指揮は私が取ることが多いな。だが防御の布陣は副官が担当する。状況によっては臨機応変に――」
「……つまり、お互いに切り替え可能、と?」
「まあ、そうなるな。……なぜそんなに真剣な顔をして聞いてくる?」
「……いえ、戦術の参考になりましたわ」
その夜、フェアリエルは原稿に「リバ可」と追記した。
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そしてある日。
ラルクと二人きりの書斎で、フェアリエルはお茶を飲みながら、ふと切り出した。
「……ラルク様。浮気はなさらないと仰っておられましたが、もし仮になさるとしたら――」
「しない。何度でも言うが、私はお前だけだ」
「それでも、万が一、浮気をなさるのなら……」
「……なら?」
「相手は、男性でお願いいたしますわ」
「……」
「女性だと傷つきますけれど、男性なら、インスピレーションとして受け入れられます」
ラルクはしばし沈黙し、深くため息をついた。
「……理解が追いつかん。なぜそんなことを?」
「だって……ラルク様と誰かの男同士の関係を妄想するのが、わたくしのライフワークですのよ?」
「……何度聞いてもよくわからん。が、お前がそれで満足なら……」
「いえ、浮気はしないと仰いましたわね?」
「当然だ」
「では、誓ってください」
フェアリエルは、指を立てた。
「“男相手でも浮気はしない”と」
ラルクはひとつ息を吸い、大真面目な顔で言った。
「誓う。男でも、女でも、お前以外にはなびかん」
「…………♡」
フェアリエルは思わず赤面した。
(これほど甘い告白が、同時にBL封印宣言になるとは……この矛盾がたまらない!)
(けれど、この人は本気でわたくしを想ってくれている。だから、わたくしも応えなければなりませんわね)
「……本当にもう。ラルク様ってば、まったく妄想の余地がありませんの」
「それは誉め言葉か?」
「……ええ、最高級の誉め言葉ですわ」
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フェアリエルの新作BL小説『辺境伯と副官 ~禁断の雪原~』は、後に大ヒットを記録し、王国の“文化庁推薦作品”に選ばれる。
だが、それでも彼女は変わらず、傍らにラルクを置き、時に妄想を暴走させながら、優雅な日常を送っていた。
そして彼女は今日も、机に向かいながら静かに笑う。
「現実の愛がいちばん破壊力ありますわね……」
辺境伯ラルクは、今日も頭を抱えていた。
(……だが、これが私の日常か)
そして心の中で、こう呟く。
(……悪くない)