4-1:実録と妄想の境界線
フェアリエル・フジョは静かに筆を置いた。インクの香りがまだ机の上に漂っている。原稿の最終ページに描かれたのは、かつての自分の婚約者であるアルファス王子と、実の兄キーリング・フジョの、情熱と混乱と赦しに満ちた夜の記録であった。
――事実に基づく実名BL小説『真実の夜、ふたりの誓い』。
出版後、社交界では一種の爆発が起きた。内容の過激さよりも、その赤裸々すぎる実録っぷりと、王子の名を堂々と記した潔さに、多くの貴婦人たちは瞳を輝かせ、使用人たちは本をこっそり回し読みし、青年貴族たちは動揺した。
そして、なにより一番揺れたのは――当の本人たちだった。
「……フェア、これは……おまえ、どこまで見ていたのだ?」
キーリングが書斎に現れたのは、出版から三日後のことだった。いつもの飄々とした態度を捨て、ほんのり頬を染め、まるで一度沸騰しかけた紅茶のような熱をたたえていた。
「全部、とは申しませんが……あれは、書かずにはいられませんでしたの。私の目から見た、真実の愛の記録ですもの」
「いや、待て。あの……"束の間の約束の口づけ"って……」
「ええ、素敵な表現だと思いますの。あそこで王子の目が潤んだ様子など、私、思わず鳥肌が立ちましたわ。兄様、まさかあの場面、覚えておいででないの?」
「……忘れたくても忘れられるか」
キーリングは苦笑するように額を押さえた。だが、その隣でフェアリエルはまるで誇らしげだった。なにせ、あの小説は初版即日完売、重版も決定、ネオページではBL部門ランキング1位という異例の売れ行きを記録していたのだ。
だが、彼女の情熱はそこでは収まらなかった。
「さて……次の作品は、完全妄想にいたしましょうか」
「え……?」
「もちろん、インスピレーションは得ていますの。辺境伯ラルク様と、その忠実なる副官、アレイン様……あのふたりの関係、どう見ても……ね?」
「フェア、やめておけ。今度は本当に怒られるぞ」
「ええ、わかってますとも。だから今回は……仮名でいきますわ!」
そして始まった第二作――完全妄想BL小説『雪に埋もれた戦地で』。
モデルはもちろん、辺境伯ラルク・バレンティアと副官アレイン・グレイ。
演習地視察を口実に、フェアリエルはさっそく辺境伯の領地に足を運んだ。
大地にうっすら雪が残る春先。演習場の端で双眼鏡を構えながら、彼女は語る。
「ふふ……まさに、攻めと受け……完璧な配置ですわね」
「フェアリエル様、我々の視察目的は演習の視察であり、BL的構図の観察では……」
護衛の騎士が言いかけるが、彼女は軽やかに手を振った。
「同じですわよ、観察は観察。彼らの信頼と絆は、国の未来と文学の礎になりますの」
演習後――フェアリエルは意を決してラルクに尋ねた。
「辺境伯様……ひとつお聞きしても?」
「ああ、どうぞ」
「演習を拝見していて思ったのですが……ラルク様と副官様、どちらが"攻め"で、どちらが"受け"でいらっしゃるのですか?」
「攻め……受け……?」
「つまり、戦術的な……主導権のことでして」
少し間をおいて、ラルクは真面目な表情で答えた。
「私が攻撃の指揮を取ることが多いが、防御面ではアレインに任せている。そういう意味では、状況次第……臨機応変だな」
(臨機応変なリバってことですわね……)
口には出さず、フェアリエルはそっと胸元のノートに「リバ可」と書き込んだ。
こうして、フェアリエルの創作意欲は再び燃え上がった。実録から始まり、次は妄想。
愛の形がどうであれ、それを見つめ、書き綴ることこそ、彼女の生きる道。
そして、次第に彼女自身にも変化が訪れる――新たな婚約話の再燃と、辺境伯のまさかの告白。その時、彼女はどんな答えを出すのか。
運命の物語は、まだまだ終わらない。
4-2:理想と現実の狭間で
「では副官様が“受け”なのですわね?」
そう尋ねたあの日の私の目は、たぶん輝いていた。
辺境伯ラルクは、一拍置いて、「まあ、そう言えなくもない…のか?」と困惑気味に返してきたが、それも無理はない。私の問いは、軍事用語の文脈では説明できない妄想領域に足を踏み入れていたのだから。
――でも、だって!だって!
演習場で背中を預け合う二人のあの距離感、無言の信頼、互いの動きを完全に理解し合っているあの呼吸。あれを尊いと言わずして何と言えばよいの!?この目に焼き付いた、男と男の絆!
私は、カップを口に運びながら、内心では大爆発する妄想劇場の幕を開けていた。
(たとえば…王子様と兄上が、緊急会議で辺境伯と副官様を召喚して、何やら深刻な話し合いを……そこで、何かの拍子に――)
想像が過激になりすぎて、紅茶が気管に入ってむせてしまった。
「大丈夫か?」
咄嗟にハンカチを差し出してくれる辺境伯ラルク。彼の指先が、わたくしの指先にふと触れた瞬間。
(はっ……やはり、辺境伯様はノンケなのかしら……?)
そんな思考が頭の中で瞬時に駆け巡る。いや、失礼ですわね、フェアリエル。
「フェアリエル様?」
「い、いえ、大丈夫ですの」
無理やり微笑む私に、ラルクは少し眉を下げて、それ以上は何も言わなかった。ただ、じっと見守るような眼差しで。
その夜、私は執筆机の前で、原稿用紙にペンを走らせていた。
第二作目のBL小説『秘められた誓い ~副官と辺境の主~』はすでに初稿を終えたばかり。今回は完全なるフィクション。でも、読者の感想は上々で、編集部からは「続編をぜひ」と熱いオファーが届いていた。
……それでも、私の気持ちは、なぜだか晴れなかった。
(私は本当に、このまま妄想の中に籠もっていて良いのかしら?)
兄と王子の件は、あくまでも現実だった。そのショックと感動と、どうしようもない複雑さを昇華させたくて、私は筆を取った。
だが、辺境伯ラルクとの婚約話は、現実として私の人生を変えようとしている。
そして、彼は――妄想の中の登場人物などではなく、真正面から私を見つめている。
「男性との浮気は黙認いたしますの。だから、もし浮気されるなら、必ず男性とだけになさってくださいね」
ある日、唐突にそんなことを言ってみた。今思えば、自分でも何を言っているのか分からない。ただ、確認したかったのだ。
ラルクは、明らかに目を見開いて、そしてすぐに吹き出した。
「……本気で言っているのか?」
「もちろん本気ですわ!」
「それならば、その覚悟も問おう。私が浮気しようとも、君は黙って許すのか?」
「許すのではなく、喜びますわ」
「……君の思考回路は理解不能だな」
ラルクはそう言って頭をかいたが、口元には笑みが浮かんでいた。なんだかんだで、彼は私の“面倒くささ”にも慣れてきているらしい。
そして彼は、真顔でこう言った。
「だがな、フェアリエル。私は浮気などしない。君一人で十分だ。むしろ、君にこそ、他の男の影が見えたら我慢できる気がしない」
「……!」
心臓が跳ねた。
(ああ……やはりこの方は、現実の“攻め”ですわ)
尊い妄想も好きだけれど――現実に、こうして真っすぐに向き合ってくれる人がいる幸せも、否定できない。
私は、改めて思う。
今度の婚約は、たぶん――いや、きっと幸せになるだろう。
妄想の海を泳ぎながら、現実にしっかりと足をつけて。
それが、フェアリエル・フジョ子爵令嬢の、今の在り方なのだから。
流される愛と観察者のまなざし