賑やかな喧騒と香ばしい料理の匂いが漂う晩餐会――。
十数個のシャンデリアが煌めく大広間には、国王をはじめ有力貴族たちが一堂に会していた。今宵は年に数回だけ開催される宮廷主催の夜会。この国でもっとも格式が高い社交の場とされ、多くの貴族が華やかな衣装を競い合い、あちこちで優雅に言葉を交わしている。
そんな賑わいの渦中で、マーゴット・ロビアンは所在なげに壁際に立っていた。
背中まで伸びた栗色の髪はきちんとまとめられ、淡いピンク色のドレスに身を包んでいる。だが、彼女の佇まいはどこか控えめで、“華やか”とはかけ離れていた。
身長はそれほど高くなく、体型も細身だが――世間では「痩せぎすで地味」「目立たない令嬢」と揶揄されることが多い。彼女自身、昔から「華やかさのない子」と言われて育ったため、人前で積極的に振る舞うことに苦手意識を抱いていた。
「……ロビアン公爵家の三女? ああ、あの地味な子ね」
「婚約が決まったらしいけど、相手も大変じゃないかしら」
そんな会話を耳にするのは、一度や二度ではない。マーゴットは自嘲するように唇を結び、せめて今夜のパーティーを無難にこなそうと心を落ち着けていた。
本来ならば、この夜会は彼女にとって“華々しいデビュー”となるはずだった。というのも、ここで正式に発表されるのが――侯爵家嫡男、レイナルド・グラハムとの婚約である。
ロビアン公爵家とグラハム侯爵家。どちらもこの国では名門の家柄だが、格としては「公爵家の方が上」。とはいえ、近年のロビアン家の内情は芳しくないという噂が絶えず、財力もかつての勢いを失っている。そこへ、有望な若手貴族として政界や軍関係にも顔が利くグラハム侯爵家が手を差し伸べる形で、この縁組が進められたのだ。
しかし――いざ婚約が決まってみても、マーゴットの胸に広がるのはただただ「不安」だった。
会えば挨拶程度は交わしてきたものの、レイナルドは彼女に愛想を見せることが少なく、周囲の者が「形だけでも夫婦らしく振る舞ってはどうか」と提案しても、どこか面倒そうに取り合わない。むしろ「あんな地味な娘を妻にするなんて気が進まない」と、本人が陰口を叩いているという噂もある。
マーゴットは当主である父に逆らえず、「家のために結婚する」という立場を受け入れるしかなかった。それでも、婚約者として少しは好意的な関係を築けると信じていたのに――その気配は一向に感じられない。
(私、今夜はうまくやれるかしら……? 堂々と婚約者として紹介されたところで、失敗したらどうなるんだろう……)
そんな思考に囚われながらも、マーゴットは大広間を見回す。煌びやかなドレスをまとった貴婦人たちが舞踏に興じ、若い貴族の令嬢たちがあちこちで談笑している。その輪の中にマーゴットは混ざることができない。声をかけようにも、相手からは気づかれない。
――ふと、遠くにレイナルドの姿を見つけた。黒いタキシードを着こなし、長身と端整な顔立ちがひときわ目立っている。しかし、彼の隣には社交界で評判の美しい令嬢や、華やかな貴族たちが集っており、笑い声が絶えない。
マーゴットは小さく溜息をついた。婚約者である自分があそこへ行けば、少なくとも紹介くらいはしてくれる……かもしれない。だが、向こうの輪に自分が入るイメージがまったく浮かばない。むしろ“あの地味娘が来たぞ”と嫌な視線を向けられるのがオチだろう、と怯んでしまう。
そのとき、大広間の扉付近が急にざわめき出した。
人々がざわめく先に目をやると、近衛騎士団の団長らしき人物とともに現れたのは――異国の騎士。
真っ白な軍服にも似た礼装に、金色の徽章が光る。鋭い目つきと堂々たる振る舞いが印象的で、長身で体格もがっしりしている。あとで聞けば、隣国の王太子ゼイン・アレクサンドルが、特使としてこの夜会に招かれたのだという。
華やかだが形式ばかりの場において、その人物だけがまるで“実戦”を潜り抜けてきたオーラを放っている。それを一目見てマーゴットは思った――「この人、ただ者じゃない」。あのレイナルドとはまるで違う“本物の騎士”という雰囲気があるのだ。
もっとも、隣国の王太子である彼は、初めての社交界デビューにしては注目を集めすぎたらしく、すぐに大勢の貴族が彼を囲み始める。マーゴットは遠目にその様子を見つつ、“縁のない人”だと判断し、再び壁際にそっと身を置いた。
1. 婚約の決定と冷遇の日々
やがて王家からの司会役が呼びかけ、夜会のメインイベントである「新たに婚約が結ばれた貴族の二人を紹介する時間」が始まった。
壇上に立つ司会者が堂々と読み上げる。
「皆さま、本日は我が国に大きな縁組が成立しましたことを、ここにご報告いたします。ロビアン公爵家の三女、マーゴット・ロビアン様と、グラハム侯爵家の嫡男、レイナルド・グラハム様――」
名指しされた二人は、前へ出るよう促される。マーゴットはとにかく俯きがちで、ドレスの裾を絡ませないよう気をつけながら壇上へ歩く。レイナルドは涼しい顔で彼女の隣に並ぶと、にこやかな微笑みを作った――それは周囲向けの笑顔であって、マーゴットに向けられたものではない。
周囲から一斉に拍手が起こり、「まぁ、侯爵家もついに婚約か」「公爵家の三女ってどんな方なのかしら」と、少なからず興味を示される。マーゴットは居心地の悪さに背筋をこわばらせながら、何とかお辞儀を返す。
「――このたび、グラハム侯爵家を継ぐ身として、ロビアン公爵家のご令嬢・マーゴットを妻に迎えることになりました。どうか皆さま、我々を見守っていただければ幸いです」
レイナルドの言葉は、一見すると礼儀正しく、優美なプロポーズにも聞こえる。しかし、すぐ隣に立つマーゴットには、そこにまったく“熱”が感じられなかった。むしろ「形だけ整えておけばいいだろう」という冷たい響きさえある。
壇下では、マーゴットの父・ロビアン公爵が険しい表情を浮かべつつも拍手をしている。家同士の利害が一致した結果の婚約……それだけのこと。周囲の貴族たちも似たような思いなのか、興味というより“観察”の眼差しを向けていた。
(やっぱり、私は誰からも期待されていないのね……)
喧噪の中、マーゴットはそんな孤独を噛みしめていた。
このとき、ふと視線を上げると、隣国の王太子だという騎士――ゼイン・アレクサンドルがこちらを見ていた気がした。遠目にも、その眼差しは静かで鋭い。だが、それが一瞬だったのか、すぐに人垣に隠れて見えなくなる。
マーゴットはそのことを深く考える余裕もなく、ただ今回の夜会が“無難に終わる”よう祈っていた。
冷遇の日々:婚約者と令嬢たち
夜会の翌日、マーゴットは疲れを抱えながらも公爵家の館で目覚めた。父や姉兄は昨晩の式典について何か言うわけでもなく、ただ事務的に「レイナルドとの婚約は国王にも承諾していただけた。少しでも家のために尽くせ」と言い渡すのみ。
マーゴットの姉たちはどちらも既に嫁ぎ先が決まっており、豪華な結婚式を挙げていた。姉たちは美しく社交界でも人気が高かったため、彼女たちの婚礼は華々しかったと聞く。しかし、三女であるマーゴットは“目立たず地味”という評価が定着しているせいか、姉からも「大変ね、頑張ってね」と同情気味な言葉をかけられる始末。
彼女自身、華やかさよりも書物を読んだり馬術を習ったりするほうが好きで、幼少期から地味な努力を続けてきた。しかし、それが評価されることはない。屋敷の使用人たちでさえ彼女に対しては「公爵家の恥扱いされないように大人しくしてほしい」とでも言いたげだった。
(でも、これが私の人生……家が決めた結婚なんだから仕方ない)
そう自分に言い聞かせていた矢先、レイナルドの取り巻き令嬢たちから、マーゴットを軽んじる噂が聞こえてくる。
ある日の午後、マーゴットが町中の菓子店に立ち寄った帰り道、偶然耳にしたのはこんな会話だった。
「知ってる? グラハム侯爵家のレイナルド様、あの地味なマーゴット・ロビアンと婚約したって言うけど、本当は気乗りしないらしいの。もっと上品で華やかな娘を妻にしたかったんですって」
「それで? ロビアン公爵家の三女は暗くてつまらないし、結婚しても一緒にいて退屈するだけじゃない? お気の毒に……」
それはあまりにも失礼な言い草だったが、実際そう思われているのだろうとマーゴットは感じる。彼女は足早にその場を立ち去り、行き交う人々に邪魔にならぬよう視線を落とした。
2. 理不尽な婚約破棄
そんな日々が続いてから数週間後。
マーゴットは、ある令嬢の社交パーティーに招かれた。これまで彼女自身が“招待される側”になることは少なかったが、婚約の報せが広まってからは、貴族たちも形だけは声をかけてくる。
ただし、マーゴットが期待に胸をふくらませていたわけではない。どうせパーティーでも「グラハム侯爵家の婚約者」という冷ややかな視線を向けられるだけだろう。だが、少しでも社交の場に慣れるため、彼女は出席を決意した。
パーティー会場は広大な庭園の中に設えられた屋外テラスで、花々の香りが漂う心地良い空間。しかし、そこに集う令嬢や貴族たちはどこか浮ついており、マーゴットがいてもいなくても同じだと言わんばかりの態度をとる。
ゆっくり歩き回り、花壇を眺めながら、マーゴットは一人で時間を潰していた。そんなとき――。
「おや、マーゴットじゃないか。こんなところで何をしている?」
声をかけたのはレイナルド本人だった。いつも複数の取り巻きを引き連れている彼だが、今日も令嬢数名と一緒にいたらしく、彼女たちがくすくす笑いながら後ろに控えている。
マーゴットは咄嗟に会釈をしたものの、レイナルドがこんな場所で声をかけてくるのは珍しいと訝しむ。そして、次の瞬間、彼の口調が一変した。
「……お前、あまりにも地味すぎないか? せっかく人前に出るなら、もう少し派手なドレスでも着てこいよ。こっちが気まずいんだが」
その言葉に、彼の取り巻きの令嬢たちがくすりと笑う。心ない嘲笑がマーゴットの耳を刺す。彼女は思わず下を向き、きっぱりと反論することができない。
それを見て、レイナルドはさらに口を極める。
「お前と一緒に歩いているところを見られたら、俺の評価が下がるだろう? それに、最近社交界で“地味令嬢と結婚するのか”って同情されるんだよ。……いい加減、もう少し自覚してほしいんだが」
嫌味しか感じられない言葉に、マーゴットは唇を噛んだ。たしかに、彼女が華やかではないのは事実だが、だからといってそこまで言われる筋合いはない。「あなたが選んだわけじゃないでしょう」と叫びたい気持ちをこらえていると、レイナルドの取り巻きの一人が口を挟む。
「まあまあ、レイナルド様。そんな娘に何を言っても無駄なんじゃなくて? 結局、お父上や公爵家の思惑で結婚が決まっただけでしょう? 本人に輝くものがないなら、お飾り程度の役割でもいいじゃない」
その場にいる人々が一様に笑い声を上げる。マーゴットは全身が熱くなり、目の奥がじんと痛む。恥ずかしさと怒り、それから悲しみが入り交じって身体が震えそうだ。
――しかし。ここで何を言っても聞いてもらえない。レイナルドは彼女を対等な存在として扱っていないのだから。婚約者であるはずの自分を、まるで他人事のように嘲笑し、見下している。
「ねえ、マーゴット。お前は本当に俺の妻にふさわしいと思ってるのか? ……正直、もう嫌になってきたんだが」
鋭い眼差しでそう告げられ、マーゴットは言葉を失う。嫌になってきた、とはどういうことか――もしかして婚約を白紙に戻すとでも言うのだろうか。だが、この結婚は両家の取り決めであり、マーゴット個人の感情では左右できないはず……。
そんな迷いをよそに、レイナルドは言い放つ。
「やっぱり無理だ。こんな地味で面白みのない娘と一生過ごすなんて考えられない。ここではっきり宣言してやる。……この婚約、破棄させてもらう」
その瞬間、周囲がざわつき、取り巻き令嬢たちも目を丸くする。マーゴットは頭が真っ白になった。婚約破棄、今ここで? あまりに唐突で、しかも一方的すぎる。
だが、レイナルドは周囲の視線に怯むことなく、さらなる言葉を重ねる。
「理由は簡単だ。俺には彼女を支える義務も意思もない。地味なだけならまだしも、“公爵家の三女”という肩書きが欲しかったわけでもないしな。実際、ロビアン家の力も大したことがないと分かったし……。今さらこんな娘にしがみつく必要なんてどこにもないさ」
呆然とするマーゴットを前に、周囲の声が飛び交う。
「ちょっと、あまりに可哀想じゃない?」と言う人もいれば、「でも、レイナルド様の気持ちも分からなくはない」とか、「本当に破棄しちゃうの?」と興味本位で盛り上がる者もいる。
マーゴットは必死に言い返そうとするが、喉が強張って声が出ない。唇を震わせながら、何とか絞り出した言葉は――。
「……ど、どういう、ことなの……? 私……私は、あなたとの婚約を破棄なんて聞いてないわ……そんな、いきなり……」
「じゃあ、聞かせてやろう。俺が望んでいるのは、もっと華やかで刺激的な妻だ。お前とじゃ話が合わないだろうし、周囲の令嬢たちもそう言ってる。だからもう終わりだ。俺はお前と結婚なんてしない」
マーゴットは息が詰まる。結婚自体が家同士の取り決めなのに、彼がここまで堂々と破棄を宣言するのは相当なスキャンダルだ。だが、レイナルドは構わないらしい。取り巻きの女性たちが「あら、良かったわね、これで解放されるのかもよ?」と嘲り混じりに笑う。
彼はマーゴットの反応を楽しむかのように、その場の注目を一身に集めている。こんな形で婚約解消をするなど聞いたこともない。あまりに非常識だが、それを咎める者は、ここにはいない――なぜならレイナルドは“若き侯爵家の次期当主”として力を持っており、彼に逆らう者は少ないからだ。
「それでは、みなさん――ここにいる証人の前で、俺とマーゴット・ロビアンの婚約は解消されたことにする。いいな?」
そう言ってレイナルドはマーゴットを見下ろす。マーゴットはどうしようもない衝動に駆られ、涙をこらえるように瞬きを繰り返す。認めたくない、でもどうしようもない。ここで何を言っても取り合ってもらえず、この場でさらに嘲笑われるだけだ。
彼女は悔しさと屈辱に耐えきれず、逃げるようにその場を後にした。ドレスの裾が砂利道に引っかかり、転びそうになるのも構わず、ただただ走る。心臓が痛い。胸がきしむ。
婚約破棄――たしかに、自分を毛嫌いしていたレイナルドがそう宣言するのは時間の問題だったのかもしれない。だが、こんな公衆の面前で、一方的に、あまりにも酷い仕打ちだ。
マーゴットは屋敷の庭を抜け、人気のない中庭へとたどり着く。そこにある噴水の縁に力なく腰を下ろすと、途端に視界が滲み、一筋の涙が頬を伝った。
婚約破棄後の孤立
その日のうちに、マーゴットは早々にパーティー会場から自宅へ戻った。帰宅すると、母や姉兄からは一切の同情もなく、むしろ「どうしてレイナルド様を怒らせたの?」と責められる始末。
次期侯爵になる人物と結婚できる機会を逃したことで、ロビアン家は有利な政治的地位を失った――というのが家人たちの見方だ。そこにマーゴット本人の感情など介在しない。
父である公爵も「これでは我が家の面目が潰れた。すぐにでもレイナルド家に詫びを入れて、破棄を撤回してもらえ」と強要する。マーゴットがどれほど涙を流して「私も婚約を解消された側です」と言っても、まともに取り合ってくれない。結局、その夜は部屋に引きこもり、枕を濡らした。
翌朝、公爵家の使者がレイナルドの館を訪れたものの、彼は「破棄の意思は変わらない」と言い張り、「今後は一切ロビアン家と関わりたくない」と突っぱねたという。
こうしてマーゴットの婚約は、事実上の解消となった。もはや覆す術はない。数日後には社交界中にそのニュースが知れ渡り、マーゴットは「破棄された地味令嬢」として噂の的になった。
ある者は「まあ仕方ないよね、地味な子だし……」と同情ともつかない言葉を投げかけ、またある者は「ロビアン家が没落してる噂もあるし、レイナルド様の方から切ったんだろう」と好き勝手に言う。マーゴットにとっては屈辱の日々でしかない。
3. 小さな光
婚約破棄から一週間後。
マーゴットはなるべく外出を控えて自室にこもっていたが、あまりにも塞ぎ込んでいては心がおかしくなると思い立ち、久しぶりに街へ足を向けた。
人通りの多い市場を歩いていると、商人の掛け声や人々の笑い声が耳に入る。賑わいはいつもと変わらず、まるで自分の苦しみなど世間には関係ないかのように、平和な日常が広がっていた。
マーゴットは野菜や果物の露店を眺めながら、ほんの少しでいいから気晴らしになればと思っていた。だが、周囲の人々がちらりと彼女を見て、「あれが破棄されたロビアン公爵家の娘か」と囁くのが聞こえてくる。心がチクリと痛む。
「……あれ、マーゴット嬢じゃない?」
「ほら、レイナルド様に捨てられたとかいう……」
マーゴットは急ぎ足でその場を離れた。結局どこへ行っても同じなのだ――自分は“破棄された女”として後ろ指を指されるだけ。
遠くに立ち並ぶ建物の向こうには、王宮の塔がそびえている。この街は国の中心地であり、宮廷や貴族が集う華やかな場がある一方、噂話もめぐりやすい。そんな息苦しさを感じながら、マーゴットは足早に人通りの少ない裏通りへ向かう。
裏通りは商店街の喧騒を離れ、ひっそりとした静寂が漂う。石畳の路地を曲がると、古い教会や倉庫が並んでおり、人の姿はまばらだ。マーゴットはほっと息をついて、小さな噴水のそばに腰掛ける。少しでも一人の時間を過ごしたかった。
その時、視界の隅に鎧を身につけた騎士が映った。こちらに向かって静かに歩いてくる。白い外套と簡素な胸当て――何となく見覚えがある気がするが、まさか、あの……と思った瞬間、その騎士――ゼイン・アレクサンドルが声をかけてきた。
「こんばんは、淑女(レディ)。……ここで一人というのは、あまり安全ではないですよ」
落ち着いた低い声。隣国の王太子と噂される人物が、こんな裏通りにいるなんて想像もしなかった。マーゴットは戸惑いながらも、とっさに立ち上がる。
「す、すみません……私、別に変なことをしているわけでは……」
慌てて弁解する彼女に、ゼインは静かに首を振って苦笑した。
「変なことをしているなんて思っていません。……ただ、ここは衛兵の巡回が少ない。貴族の娘さんがこんな場所にいるのは心配になるでしょう?」
そう言いながら、彼はマーゴットをまじまじと見つめる。まるで何かを悟るように、その瞳が優しく和らいだ。
「先日の夜会でお見かけしましたね。壇上に上がっていた――たしか、ロビアン公爵家の三女、マーゴット・ロビアン嬢でしたか」
思わぬ形で名前を呼ばれ、マーゴットは驚く。あの日、会場の隅から遠巻きに見ていただけなのに、覚えていたとは……。動揺しつつも、彼の丁寧な物言いに少しだけ胸を撫でおろす。
「は、はい。私は……あのときは婚約発表のために……」
そこで言葉が詰まる。もう婚約は破棄されてしまったのだから、あの発表は何だったのか……と苦い記憶が甦る。言葉に詰まる彼女の様子に気づいてか、ゼインは少し声を落として言う。
「すみません、気を遣わせてしまいましたね。……実は私、あなたが婚約破棄されたという噂を耳にしました。あれは本当なのでしょうか?」
このように率直に尋ねられたのは初めてだ。彼の目には悪意や興味本位ではなく、純粋な心配の色が見て取れる。マーゴットはその瞳に吸い込まれるように、胸の痛みを吐き出したくなる。
「ええ、そうです。……急に、一方的に“地味でつまらないから嫌だ”と……言われて……」
声が震える。涙を見せたくはないが、どうしても感情が込み上げてくる。それでも何とかこらえて、「ごめんなさい、変な話をしましたね」と俯く。
するとゼインは「そんなことはない」ときっぱりとした口調で返してきた。
「理不尽だ。あなたは自分の良さを、きっとまだ周囲に示せていないだけなのでは? ……少なくとも、私はあの日の夜会であなたが礼儀正しく落ち着いていた姿を見ていました。周りは派手な人ばかりだったが、あなたはむしろ……品位を感じた」
まさかの言葉にマーゴットは目を見開く。“品位を感じた”――そんな風に評価されたことなど、生まれて初めてだ。自分は地味で華やかさに欠けると思っていただけに、信じられない気持ちがする。
「で、でも……私は社交界でも目立たなくて……ドレスも簡素で、話も面白くないし……。そんな私を品位があるだなんて、何かの勘違いでは……?」
「いいえ、勘違いではありません。あなたにはあなたなりの落ち着きや誠実さがある。……もったいないと思いますよ、何も知らずに“地味”と切り捨てるなんて」
ゼインの言葉は真っ直ぐだった。軽率なお世辞ではなく、本心から言っているように見える。マーゴットの胸にほんの少し温かいものが生まれ、まるで闇の中に光が差したような心地がした。
この人は、私を見てくれている――そんな思いが、ささやかながら心を救ってくれる。
「……ありがとうございます。誰かにそんな風に言ってもらえたのは初めてで……なんだか、心が軽くなりました」
小さく微笑むマーゴットに、ゼインも穏やかな笑みを返す。裏通りの薄暗い通りではあるが、そこだけが優しい光に包まれているような、不思議な空間ができあがっていた。
そんなとき、少し離れた場所で物音がした。甲高い声が響く――何事かとゼインが振り返る。
「ここはあまり治安が良くない。申し訳ありませんが、私があなたを安全な場所までお送りしましょう」
そう言って差し伸べられた手を、マーゴットは一瞬ためらいながらも取った。彼がただ者ではないと知りつつも、どこか安心感を与えてくれるのだ。
こうしてマーゴットは隣国の王太子・ゼインと短い時間を共有し、その優しさに触れる。ほんのささやかな出来事ではあるが、彼女にとっては婚約破棄という暗闇の中で見つけた“小さな光”だった。
孤独を抱えながらも
その翌日以降、マーゴットは再び引きこもりがちになっていたが、不思議と前よりは少しだけ前向きになれている気がした。レイナルドからの一方的な破棄に傷ついているのは事実だが、あのゼインという人物との会話を思い出すだけで、心の奥が温かくなる。
もちろん、彼は「隣国の王太子」という遠い存在。再び会う機会などないのかもしれない。だが、誰かから肯定されたという体験は大きかった。自分が完全に無価値ではないと、少しだけ自信を取り戻したのだ。
そんな折、父である公爵から冷たい声で呼び出しを食らう。
「マーゴット。お前がレイナルドとの縁談を台無しにしたことは、我が家にとって大きな痛手だ。……いまさらだが、お前の挽回の手段はないのか?」
問われたところで、どうしろというのだろう。婚約を破棄したのはレイナルド側であり、マーゴットにはどうにもできない。それをわざわざ責め立てる父に、彼女は何も言えず項垂れる。
結局、いつものように「お前のせいでロビアン家の面目が立たない」と罵られ、部屋を追い出される形となる。家族の中で居場所もなく、世間にも“破棄された地味娘”として見られ――マーゴットにとっては、まさに孤立状態だ。
(でも……あの騎士の言葉を思い出せば、まだ頑張れる。私だって、何もできないわけじゃない)
彼女は自分の部屋に戻ると、本棚から分厚い古書を取り出した。内容は地理や戦史に関する専門書。幼い頃からコツコツと読み込んできたもので、家族は誰も興味を示さないが、マーゴットはこれらの知識を学ぶことが好きだった。
馬術や兵法、国同士の歴史――地味かもしれないが、それはいつか自分の力になると信じている。誰にどう評価されようとも、せめて“私の中の大切なもの”は失いたくない。そんな思いでページを開き、夜更けまで黙々と読みふけるのが、今の彼女にできる唯一の道だった。