雨音がしとしとと響き、跳ねたしぶきが開け閉めされるガラス扉に霞をかけている。
佐藤美咲(さとう 美咲)は、雨の中を車で去っていく男の後ろ姿を見つめ、呆然としてどうすればいいのかわからなかった。
店内でウエディングドレスの試着を手伝っていた店員がおそるおそる尋ねた。
「佐藤様、あと三着ございますが……お試しになりますか?」
美咲は我に返り、「結構です。」と答えた。
鏡に映った真っ白なウエディングドレス姿の自分を見つめ、目尻が熱くなり、今にも涙がこぼれそうだった。
さっき慌てて飛び出していったのは彼女の婚約者──田中俊彦(たなか としひこ)だ。
数分前、最初のドレスに着替え終わった瞬間、彼の携帯が鳴った。
雨音が響く中でも、美咲には相手の声がはっきり聞こえた。
女が焦った口調で叫んでいた。
「俊彦さん!雨なのに傘持ってなくてタクシーも捕まらない!どうしよう!?」
俊彦は即座に答えた。
「彩乃(あやの)、慌てるな。今迎えに行くから!」
電話を切り、美咲に言い放った。
「ドレスは君が決めてくれ。俺は用事があるから」
彼は美咲を一瞥もせず、足早に店の外へ駆け出した。
彼女が状況を理解した頃には、車の排気ガスさえ見えなくなっていた。
まばたきすると、ついさっきまで幸福に満ちていた笑顔が、一瞬で自嘲気味の笑みへと変わった。
彼女はとっくに小野寺彩乃(おのでら あやの)の存在を知っていた。
俊彦の心に住む「特別な存在」だと。
それでもなお、俊彦と結婚しようと執着した。
幼い頃からの幼なじみの絆は、突然現れた女ごときには負けないと思っていたのだ。
何度もねだって、ようやく俊彦を試着に同行させた。
だが小野寺彩乃の一本の電話──たかが傘を忘れただけの些事で、俊彦は呼び出されてしまった。
思い知らされた、そうだろう?
長年の想いなど、「特別な存在」には敵わないのだ。
佐藤美咲が生まれて間もなく、彼女は田中俊彦の許嫁になった。
二人は共に成長し、十六歳で正式に交際を始めた。
少年時代、彼女も俊彦の「特別な存在」だった。
十八歳の時、俊彦は留学のため海外へ旅立った。
出発前に「待っていてくれ、帰国したらすぐ結婚しよう」と固く誓った。
六年の歳月を経て俊彦は帰国したが、全ては変わっていた。
約束通り彼女と結婚するが、心に宿す人物はもはや彼女ではなかった。
冷え切った心は、美咲がどれほど努力しても温められなかった。
彼女は無表情で重々しいドレスを脱ぎ、鏡の自分が道化師に見えた。
傍らにいた店員は慰めの言葉を探したが、何と言えばいいかわからず、結局ため息をつくだけだった。
心の奥で呟いた。こんなに美しい女性を……婚約者は本当に見る目がない!
店員がドレスを片付け終わらないうちに、美咲はドアを押して外へ出た。
「佐藤様!雨が強いです!おやめになってください!」
傘を持って追いかけた店員も雨脚に阻まれ、美咲の背中が遠ざかるのを見送るしかなかった。
東京に秋の訪れを告げる、最初の雨だった。
雨の日のタクシーは捕まりにくく、美咲はよろめきながら家路につき、全身ずぶ濡れになった。
ささっとシャワーを浴び、ベッドに倒れ込むように眠った。
どれほど眠っただろうか。美咲は朦朧(もうろう)とした意識で目覚め、激しい頭痛に襲われた。
携帯を見ると、時刻は深夜十一時を回っていた。
朦朧とした意識のまま、本能で俊彦の番号を押した。
「俊彦……熱があるみたい」
俊彦は苛立った口調で言った。
「薬を飲め。接待で忙しいんだ。邪魔するな!」
電話が切れる直前、小野寺彩乃の声がかすかに聞こえた。
「俊彦さん、お風呂空きましたよ。よければどうぞ。」
美咲の曇った頭が一瞬で覚醒した。
じわりと暗くなる画面を呆然と見つめ、胸を掴まれるような窒息感に襲われた。
美咲は一人で病院へ向かい、すぐに点滴を受けた。
点滴の針が刺さる痛みで、うつらうつらしていた病床からはっと目が覚めた。
ナースコールを押すと、駆けつけた看護師が謝罪を重ねた。
「申し訳ございません!点滴漏れに気づかず……急患が入りまして、夜勤人手が足りなくて」
「……大丈夫です」
美咲の声は驚くほど枯れていた。
看護師が尋ねた。
「お一人ですか?真夜中なのに付添いの方もいらっしゃらないなんて……」
美咲ははっとし、顔を撫でて初めて涙の跡に気づいた。
乾いた唇を舐め、手の甲を指さして言った。
「……痛すぎたんです」
「本当に申し訳ありません」
看護師は重ねて謝り、丁寧に布団の裾を整えてから去っていった。
看護師の去った後、美咲は天井をぼんやりと見つめた。
実際には、手の甲の痛みで泣くほどではなかった。ではなぜ涙が?
おそらく、あの瞬間、必死に繕っていた強さが、粉々に砕け散ったからだ。
このようなことは初めてではない。
最も必要としている時、俊彦は繰り返し彼女を置き去りにし、小野寺彩乃のもとへ駆けつけた。
美咲はとっくに限界だった。
彼女は二十四歳。人生の最初の十六年を俊彦と共に過ごし、その後八年を俊彦と愛し合ってきた。
骨の髄まで俊彦を愛していた。
しかしあの熱い想いも、少年のときめきも、今や全てが笑い話に過ぎなかった。
点滴管から一滴ずつ落ちる薬。その滴は軽いのに、一つ一つの重さで、美咲の胸に叩きつけられた。
彼女の心臓を砕くように。
失望は十分に溜まった。
美咲は覚悟を決めて携帯を取り出し、俊彦とのチャット画面を開いた。
「別れよう」
この言葉を送った時、自分が悲しみに打ちひしがれ、声を上げて泣くと想像していた。
だが予想に反し、彼女は驚くほど平静だった。
言い表せない解放感さえ漂っていた。
美咲は安心して目を閉じ、眠りに落ちた。
病院に一泊しただけで退院手続きを済ませた。
入院棟を出る前に、伊藤智子(いとう ともこ)からの着信が入った。
智子は美咲の叔母だった。八歳の時、美咲の両親が事故で亡くなり、以来彼女は叔父の家族に引き取られた。
「叔母さん、何か用ですか?」
「あんたの従兄が仕事で失敗してさ、昨日上司と大ゲンカしてクビになったのよ。田中グループに拾ってほしいんだけど」
「そんな高い役職じゃなくていいの、課長クラスで十分。あんたたち来月結婚するんだから、あんたが一言……」
智子の騒がしい声が続く前に、美咲は遮った。
「私、田中俊彦と分かれた。結婚もなしってこと」
受話器の向こうが数秒沈黙し、やがて智子の甲高い声が炸裂した。
「佐藤美咲!熱でも出たの!?何たる戯言!」
「助けたくないからって、でたらめ言って誤魔化すつもり!?」
美咲が握る携帯の指先に力が入った。
「本当に分かれたので」
「切るね。」
智子の怒号をよそに、美咲はきっぱりと電話を切った。
カラッポの家に戻ると、目に入るもの全てが彼女を窒息させた。
ここは俊彦の所有する家だ。彼女は一秒たりとも居られなかった。
吸う空気の一つ一つが、焼けた刃のように喉を灼いた。
美咲はスーツケースを閉めると、迷いなくその場を後にした。