美咲の荷物は少なく、スーツケース二つにすべてが収まった。
大学入学後、彼女は叔父の家を出て寮生活を送り、その後は一人でアパートを借りて住んでいた。
そして俊彦が帰国し、小さなマンションを買って彼女に住まわせてくれた。
当時の美咲は小野寺彩乃の存在を知らず、すぐにでも俊彦と結婚して同棲できるものだと思っていた。
だが俊彦は、結婚するまで美咲には手を出さないと言った。
あの時は彼の純愛と自分を大切にする気持ちに感動したが、後になって彼のそばにはとっくに別の女性がいたことに気づいたのだ。
彼が自分に触れなかったのは、小野寺彩乃のためだった。
……
別れると決めた以上、美咲は後戻りしない。
荷物をまとめ、部屋をきれいに掃除し、生活の痕跡は一切残さなかった。
ホテルに数日泊まり、できるだけ早く新しい部屋を借りるつもりだった。
ホテルに着いたばかりの時、親友の鈴木茉莉から電話がかかってきた。
「美咲、おととい俊彦さんとウェディングドレスを見に行ったんだって?どうだった?」
「もし決まってなかったら、友達のアトリエを紹介するよ。海外から帰ってきたデザイナーを採用したばかりで、元は有名ブランドでオートクチュールを手がけてたんだって……」
茉莉がべらべらとまくしたててから、ようやく電話の向こうの美咲が一言も発していないことに気づいた。
「どうしたの?また俊彦が怒らせたの?」
「俊彦とは別れた。結婚しないから、ウェディングドレスも選ばなくていい」
茉莉は数秒間呆然とした。
「だってあと一ヶ月もしたら結婚式なのに、招待状も送ったじゃない。冗談でしょ?」
美咲は淡々とした声で「冗談じゃない」
向こうの茉莉は呆れ返ったように言った。
「また小野寺彩乃のあのゲスが何かやらかしたんだろう?」
美咲「彼女はあまり関係ない。ただ私が疲れたの」
「全部田中俊彦のあのクソ男が悪いんだから、あなたが怒るのも当然よ。今度こそ絶対に折れないで、彼が謝りに来るまで待つの」
美咲は突然自嘲気味に笑い声をあげた。
おとといの深夜、彼女は田中俊彦に別れのメッセージを送り、その後連絡先を削除したが、今に至るまで彼からは何の音沙汰もなかった。
別れの言葉は以前も言ったことがある。だがどんなに騒いでも、俊彦はいつも無視で通した。
そのたびに、数日も持たずに美咲のほうから彼に連絡するのが常だったのだ。
彼女は八歳で両親を亡くし、お姫様のような生活から一転して他人の家に寄宿する孤児となった。幼い頃のトラウマを癒してくれたのは俊彦だった。
長年、彼なしでは生きられなかった。
周りは皆知っている。彼女がどれほど俊彦を愛しているか、彼がいなければ生きていけないと。
だからたとえ俊彦が彼女を愛さなくなり、小野寺彩乃が何度もわざと彼女を怒らせても、彼女は耐えてきた。
誰も彼女が本当に別れるとは信じていなかった。
親友の鈴木茉莉でさえ、彼女がわがままを言っているだけだと思っていた。
今になって佐美咲は初めて理解した
自分が俊彦の前で尊厳を失っていたのは、すべて自分が招いたことだと。
「茉莉、今度は本当なの。もうバカな真似はしない」
茉莉はまた数秒間沈黙した後、突然明るい笑い声をあげた。
「それでこそ私の親友よ!」
「やっと目が覚めたんだね!世界中でお前ほど美しい女がどこにいるってんだ、田中俊彦みたいなクソ男にいつまでもすがる必要なんてないだろうが!」
「今まではお前の気持ちを考えて、田中俊彦を罵るのも控えめにしてきたけど、よくぞ目を覚ましてくれた。次に会ったらあの野郎を散々に罵ってやるからな!」
茉莉は笑い終わってから、美咲の落ち込んだ様子に気づいた。
急いで慰めた。
「ただの男のことで悲しむなんて価値ないわ。家にいる?今から遊びに行くよ」
「家にはいない」美咲はスーツケースを開けながら言った。
「あの家は俊彦のものだから、もう住みたくないの。今はホテルにいる」
俊彦の家から出てこれたということは、彼女が本気だと茉莉は心から喜んだ。
「どうして私に言わないの?」
「ホテルなんかに泊まらず、直接ウチに来なよ。ちょうど別荘を改装したばかりだから、すぐにでも入れるよ」
茉莉が親友とはいえ、美咲は突然他人の家に上がり込むのは無礼だと思った。
「数日休みを取ったから、その間にアパートを探すわ」
「わかったよ」
茉莉は美咲が人に迷惑をかけるのが嫌いな性格だと知っていたので、それ以上は勧めなかった。
向こうでベッドに寝転んだのか、体をひっくり返す音がした。
「銀座に新しいバーがオープンしたんだって、ホストが皆一流だって聞いたよ」
「俊彦なんて蹴っ飛ばしたんだから、今こそ人生を楽しもう!外の広い世界を見せてあげる!」
美咲は即座に断った。
だが茉莉に負け、どこのホテルにいるかを聞き出すと、すぐに迎えに来た。
無理やり美咲を連れ出し、バーに引っ張っていった。
……
夜が更ける銀座の高級クラブ、個室。
室内にはスーツ姿の男たちが数名座り、指先から煙が漂っていた。
不満そうな声がした。
「今日は健太の帰国を祝って集まったんだろう?こんな賑やかな場所を選ぶなんて」
場所を選んだ渡辺淳史が言った。
「ここの店は新しくオープンしたばかりで、若者がよく遊びに来るらしい」
「その言い方、まるで俺たちが老人みたいじゃないか。健太はまだ三十だ、この部屋で一番年上でも三十三だぞ」
淳史は笑った。
「もうおっさんだろ?若者の楽しみに触れてこそ、若々しくいられるんだ」
「それに健太は長く海外にいたんだ。外国はオープンだから、外のダンスフロアが盛り上がってるみたいだし、俺たちも出てみないか」
他の数名はすぐに手を振った。
「やめとけ、行ったら翌日確実にニュースになる」
この部屋の面子は皆、顔が知られている人物ばかり。表のダンスフロアに姿を見せることなど恐ろしくてできない。
冗談を言い合った後、皆の視線は中央に座っている男に向けられた。
その男だけが、スーツを着ていなかった。
黒いジャケットを着ており、他の者たちのようなフォーマルさはなく、服装はかなりラフだった。
しかしその顔は見逃せないほどの冷ややかで整った美貌だった。
個室の男たちは皆器量が良いが、中央の彼と比べると見劣りした。
男の右手には煙草が挟まれており、暗い室内で火がきらきらと揺れている。
煙草は口に運ばれず、燃え尽きるに任せていた。
煙草がほとんど燃え尽きかけた時、ようやく灰皿に消し入れられた。
続いて彼はゆっくりとソファに寄りかかり、表情は淡々としていたが、真っ黒な瞳には少しだらけた色が浮かんでいた。
それでもなお、彼から漂う重みのあるオーラは隠せなかった。
渡辺淳史はニコニコしながら男に尋ねた。
「健太、そんなに急いで帰国したのは、お前んじいさんが死にかけてるからか、それとも佐々木家の会社が倒産しそうだからか?」
中央に座り、ずっと黙っていた佐々木健太は軽く笑った。親友の悪態など気にも留めていないようだった。
「どちらでもない」
その声は低く響く磁性を帯び、瞳の奥には容易には見抜けない深い影を宿していた。