「じゃあ何でだ?」誰かが食い下がった。
健太はうつむき加減に目を伏せ、感情を隠した。
「日本で働きたいからだ」
それ以上話す気がない様子を見て、相手も詮索しなかった。
「帰国はええなあ。」と相槌を打つだけだった。
ちょうどその時、ウェイターがノックして酒を運んできた。
ドアが開くと、轟音の音楽が流れ込んだ。
セクシーで激しいダンスミュックに人々の歓声が混ざり、室内の面々は一様に顔をしかめた。
「淳史が選んだ店、うるさすぎだ。何年もこんな場所来てなかったのに」
「お前若い頃はもっと派手に遊んでたじゃねえか。この程度で騒がしいとはな?」
「でも部屋の防音は悪くないな。さっきまで静かだったし」
ごちゃ混ぜの騒音の中、健太は女性の甲高い声を聞き取った。
「美咲、楽しもうよ!すぐに18人のホストを呼んで、選び放題にさせてあげるから!」
外の音楽が大きすぎて、声はかき消されそうだった。
だが個室にいる健太の表情が、かすかに変化した。
伏せていた目を上げ、さりげなくウェイターの肩越しにドア外を見やる。
すぐにドアが閉まり、喧騒は遮断された。
何も見えなかった。
室内と廊下は別世界のように、再び静寂に包まれた。
ウェイターが去っても、健太の視線はドアに留まったままだった。
隣の淳史が彼を軽く突いた。
「何ぼんやりしてんだ?飲めよ、最高級の酒なんだから」
健太は杯を一瞥すると、突然立ち上がった。
淳史は驚いて声をあげた。
「どこ行くんだ?」
「トイレ」
そう言い終わらないうちに、彼はドアへ向かって歩き出していた。
淳史が後ろから叫ぶ。
「部屋にトイレあるだろ!」
応えたのは、健太の揺るがない背中だけだった。
彼は瞬く間に姿を消し、残された面々は顔を見合わせた。
「どうかしちゃったのか?なんで外に行くんだ?」
「東京の社交界はもう佐々木家の御曹司が帰国したって知ってる。見つかったら、すぐに取り入ろうとする連中が来るぜ」
「今日の店は人も多いし。絶対誰かに気づかれる」
「でも健太は表に出たことないから、顔を知ってる奴はいないだろ」
「まあいい、まずは飲もう。すぐ戻ってくるさ」
……
佐々木健太は外を一巡したが、探している人物は見つからなかった。
さっき聞いたあの名前も、幻聴だったのかもしれない。
それか、ただの偶然の同名か。
席を回りながら、彼のイライラは募っていく。
爆音が鼓膜をじりじりと痛め、周囲の客がわざとぶつかってくる。
濃いメイクの女性が袖を引っ張り、ダンスフロアへ誘おうとした。
「ねえ、ダンスしない?」
健太は手を払いのけ、一瞥しただけで女性は縮み上がった。
微かに汗ばんできたので、革ジャンを脱いで手に持ち、黒のシャツのボタンを二つほどイライラしながら外した。
理由もなく焦りが湧いてくる。
トイレに行くと言って出てきたのだから、彼は洗面所の方へ足を向けた。
洗面所の入り口に差し掛かった時、一人の少女が中から出てきたところだった。
危うく彼の胸に飛び込むところを、
健太はさっと少女の腰を支え、すぐに手を離して道を譲った。
その瞬間、少女の顔を見て彼の目がかすかに輝いた。
「佐藤さん」
抑えた低い声に、佐藤美咲は顔を上げて男性を見つめ、二秒ほど呆然としてから口を開いた。
「ヤニス?」
澄んだ声に焦燥が和らぎ、健太はわずかにうなずいた。
目の前の美咲は肌が白いのに頬がほんのり赤く、酒を飲んだようだ。
さっき顔を洗ったのか、右目の下の泣きぼくろに水滴がひと粒乗っている。
それが彼女を一層透き通るように明るく見せていた。
今日の美咲は白いウエストシェイプのワンピースを着て、清楚で上品だった。
裾はふくらはぎを隠し、細く長い足首だけが見えている。
健太の視線がその脚に留まり、まぶしいほど白いと思った。
彼はさりげなく視線を美咲の足首から逸らした。
「佐藤さん、お久しぶりです」
「本当に偶然ですね」
美咲は口元を緩めて言った。
「ここで会うなんて。帰国されたんですか?またイギリスに戻られるんですか?」
「しばらくは戻らないつもりです」
「そうですか」
健太がまた何か言おうとした時、横から別の少女が駆け寄ってきた。
「遅いよ!トイレで迷子になったかと思ったよ!」
茉莉が美咲の脇に立つと、健太をじろりと見て口をとがらせた。
「この人は?」
「知り合い」
再び健太に向き直ると「では失礼します」
礼儀正しくも距離を置いた態度で、ほほえむと茉莉と共に去っていった。
健太はその場にしばらく立ち尽くし、服を提げた手がむなしく感じられた。
カウンター席に戻ると、茉莉が美咲の耳元に寄って尋ねた。
「さっきの人誰?知らない友達なんているの?あんなイケメンを紹介してくれないなんて!」
美咲は肩をすくめた。「イギリスに俊彦に会いに行った時、ホテルで知り合った日本人よ」
俊彦が留学していた六年間、美咲は何度か彼を訪ねていた。
ヤニスはホテルで出会った。
その時彼は顔を赤らめ、服も乱れて、まるで薬を盛られたように美咲の前に突っ込んできた。
美咲は彼を病院に運んだ。
「意識が戻ったら私は帰ったの。その後イギリスに行った時も、俊彦が同じホテルに泊めてくれて、また何度か会ったわ」
「東京出身って聞いたから、異国で親近感を覚えたの」
「へえ」
茉莉が洗面所の方を振り返る。
「それでも数回も会ってるのに、ただの知り合いなの?」
「本当にそうなの」
美咲は苦笑した。
「名前すら知らないの。英語でヤニスって呼ぶことしか。今日会わなかったら、まだイギリスにいると思ってたわ」
茉莉は舌打ちしながら首を振った。
「東京であんなハンサムな男、見たことないよ。何の仕事してるの?」
「わからない。でも服がどこかで見たことある気がして…」
茉莉は一瞬考え込み、突然合点がいったように声をあげた。
腿を叩きながら言う。
「そうだ!黒いシャツに黒いズボン、黒い革靴。さっきのホストたちと全く同じ格好じゃない!」
「え?」
美咲はきょとんとした。
「美咲は俊彦に会いにホテルに泊まったけど、彼は現地に住んでるのにホテルにいる。それって何を意味すると思う?」
「何?」
茉莉は笑いながら続けた。
「薬を盛られたって話も、多分あの手の仕事してたんだよ。海外の商売が厳しくなって帰国したんじゃない?」
「あのルックスなら芸能界でもトップクラスだもんね。このクラブはさすがだわ!」