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第7話 何を求めていたのか?


伊藤家を出た美咲は、不動産屋へ向かった。

伊藤家の人たちで自分を苦しめるのはやめよう。美咲は田中俊彦と別れる決意と同時に、ゆっくりと伊藤家とも縁を切ろうと考えたのだ。

全ては前を向いて進まなければ。


まずは住む場所を確保するのが急務だ。ホテル暮らしも限界だ。

彼女の休みは一週間だけ。デザインの仕事がスタジオに山積みで、早く住居を確保しなければならない。


仲介と物件を見て回っていると、茉莉から電話がかかってきた。

「銀座のクラブ、前回は盛り上がり切れなかったから、今夜また遊びに行かない?もっと面白い場所知ってるんだけど」


美咲はため息をついた。

「今回は本当に無理なの。部屋探しで忙しくて」


その言葉を聞くと、茉莉はまた苛立った様子で言った。

「田中俊彦ったらクソ野郎!あんなに金持ちのくせにケチで、美咲にマンション一軒買ってやることもできないなんて!別れ際に慰謝料くらい請求すべきよ。何年も付き合って、あの男がからのプレゼントなんて指一本数えるほどしかないじゃない。一体何を求めていたの、あんたは?」


美咲の息が詰まった。またしても、息苦しさを感じていた。

そうだ…私は一体何を求めていたのだろう?

彼女は俊彦への贈り物を選ぶとき、いつも心を込めて選んだ。数ヶ月分の給料を使っても惜しくはなかった。

しかしここ数年、俊彦の彼女への気持ちはすっかり冷めていた。今年の誕生日プレゼントは、ありきたりなブレスレット一本だった。

茉莉が調べると、そのブレスレットは一万円にも満たないものだと分かった。


美咲は自分に言い聞かせた。俊彦はここ数年留学で帰国もままならず、帰国後は実家の会社で忙しいから、贈り物を選ぶ時間がなかったのだと。

ところがその彼が、多忙を縫って海外まで出向き、小野寺彩乃のために世界にたった一つの、数百万円ものルビーのネックレスをオークションで落としていた。


美咲が初めて人前で感情を露わにしたのは、小野寺彩乃がそのルビーのネックレスをわざとらしく着けて彼女の前に現れ、挑発してきたときだった。

その時、美咲は思わず彩乃の頬を平手打ちにしてしまった。

すると彩乃はすぐに涙を流し、俊彦の胸にすがりついて泣きじゃくり、うっかり美咲の機嫌を損ねてしまったと訴えたのだった。

俊彦は彩乃を傷つけることを許さず、何も尋ねもせずに人前で美咲に彩乃への謝罪を強要し、その上「お返しの一発」を要求した。

茉莉が美咲の手を引いてその場を離れなければ、どうなっていたか分からなかった……。


今思い返すと、自分は本当に愚かだったと美咲は思う。

俊彦が留学中に小野寺彩乃と同棲していたことを知った時点で、別れるべきだった。


「もういい、その話はやめよう。どうせ別れたんだし。今は部屋探しが大事だから、また後で」

茉莉の電話を切り、美咲の気分は沈んだ。

仲介に案内された後の物件はどれも気に入らなかった。

今の貯金なら、現金で購入することも不可能ではない。しかし内見や内装の時間はなく、不動産価格も不安定だ。まずは賃貸で済ますのが賢明だろう。


不動産屋を出ると、宿泊しているホテルが近いことに気づき、美咲は歩いて戻ることにした。

街角から一台の黒いベントレーがゆっくりと近づいてきた。

後部座席にはスーツ姿の男が座り、冷たい表情でスマートフォンのニュースを見ている。

佐々木健太は眉間を揉みながら顔を上げた。ふと窓の外を見やると、細身の人影が歩いているのが目に入った。


夕暮れ時で、昏い夕陽がその影を金色に染めていた。

佐藤美咲は白いスカートに、アプリコットイエローのカーディガンを羽織っていた。肩にかかった艶やかな黒髪が柔らかな印象を与えている。

風が吹き、スカートの裾が軽く揺れた。白いソックスが細い足首を覆い、その上に白いローファーを履いていた。

靴下の上に覗くふくらはぎは、とても白かった。


薄暗い中、車窓越しにも健太にはっきりと見て取れた。

昨夜、銀座のクラブで美咲と出会った時も、ついその脚元に視線が釘付けになったことを思い出した。

ろくに話もせずに彼女は友人に呼ばれ、去っていった。あれ以来、佐々木の心にはかすかな未練が残っていた。


街路の少女を見つけると、佐々木は即座に運転手に命じた。

「速度を落とせ」

運転手は状況が飲み込めないが、佐々木の命令に逆らうことはできない。

幸い交通量の少ない道だったので、後続車のクラクションを浴びることはなかった。

助手席の秘書・高橋が美咲の姿を捉えた。

夜風が徐々に強まり、カーディガンをしっかりと押さえながら足早に歩く彼女の姿が寒そうだった。

高橋は慎重に口を開いた。


「社長、外は風が強くなってまいりました。あの娘さんは薄着ですし、お送りしてさしあげては?」

しばらく沈黙が続いた。

高橋が発言を誤ったかと不安になった時、後部座席から低い声が響いた。

「構わん」


高橋には社長の真意が読めなかった。ふとさっき通り過ぎた不動産屋を思い出し、再び慎重に口を開いた。

「あの方は先ほどあの店から出てこられました。ひょっとしたらお部屋をお探しかと……」


佐々木も既に美咲が出てきた場所に気づいていた。

「止めてくれ」


佐々木の重々しい声に、運転手がブレーキを踏むとベントレーは路肩に停まった。

高橋は、街路の娘が社長の知り合いで、挨拶に行かれるか、あるいは風に吹かれる少女を不憫に思い、上着を届けに降りられるのだろうと想像した。

一体どこの令嬢が、この御方の関心を引いたのか……


しかし次の瞬間、佐々木は高橋を見据えた。

「高橋秘書、お前が降りろ」


「はい?」

高橋は一瞬呆気にとられたが、プロとして即座に表情を引き締め、姿勢を正してドアを開けた。

社長の指示なら、従うに越したことはない。


「あの不動産屋に、彼女が賃貸を希望しているのか購入なのか、確かめてこい」

「承知いたしました」

高橋は肌寒い夜風の中に取り残された。


しかし不平一つ言わず、小走りで不動産屋へと向かった。

ベントレーは再び動き出し、相変わらずゆっくりと美咲の後を追う。

美咲が街角を曲がり、同じ方向ではなくなるまで。

佐々木はゆっくりと視線を戻すと、催促のメッセージが届いているスマートフォンを見た。今夜もパーティーあるようだ。


「行くぞ」と運転手に告げた。

間もなく高橋から電話がかかってきた。

「佐々木社長、お調べしてまいりました」

「先程の女性は賃貸物件をお探しでした。しかし何件かご覧になってもご満足いただけなかったようで、明日もまた来られるとのこと。お急ぎのご様子です」


「賃貸か?」佐々木は微かに眉をひそめた。「一人暮らしのようだな?」


「はい、ご覧になった物件は全て一人用の間取りでした」

佐々木の眉間の皺はさらに深まった。

佐藤美咲と田中俊彦は来月結婚予定だ。間もなく田中家の奥様になる身分で、なぜ一人で賃貸物件を探している?


ある可能性が佐々木の脳裏をかすめた。それは密かな興奮を伴う推測だった。

佐々木は口元を引き締めて命じた。

「適切な物件を探し、明日彼女に紹介しろ」


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