山道を抜けた佐々木健太が田中の家へ向かう途中、高橋から電話がかかってきた。
電話を切ると、佐々木はすぐに車の方向を変えた。
「田中の母親が救急搬送された。今、田中の家には誰もいない。病院へ行こう」
美咲は腿の上で両手を組み、緊張で微かに震えていた。
救急搬送されるほどの事態――命に関わるかもしれない。
全身が硬直し、背中をシートから離して、もだえるように座っていた。
健太が横顔を一瞥すると、穏やかな和風の音楽を流した。
「心配するな。大丈夫だ」
優しい音楽に、美咲は少しずつ落ち着きを取り戻した。
車内には、あの夜エレベーターですれ違った佐々木の身から漂った、かすかなお香のような良い香りが漂っていた。
なぜか心が静まり、安らぐ匂いだった。
しばらく黙って走った後、佐々木が尋ねた。
「田中の母親は、君によくしてくれたのか?」
美咲はそっと頷いた。
「両親が亡くなってから、彼女が私にとって一番の理解者でした」
彼女の緊張を和らげようと、佐々木はさらに問いかけた。
「どれくらいよくしてくれたんだ?」
いくつかの思い出が蘇り、美咲の心の張り詰めた糸は次第に緩んでいった。
この瞬間、誰かに話したくてたまらなかった。
「……小さい頃、叔母が従兄のお下がりを着せていたの。田中おばさんはよく私を家に招いて食事をくれて、サイズの合わない服を着ていると新しい服を買ってくれた。それに叔母に文句を言いに行ってくれたことも」
「学校のPTA会議に来てくれる人がいなくて、田中おばさんが知ると代わりに出席してくれた」
「当時、俊彦と同じ学校で、学年は違ったけどPTAは同じ日だった。田中おばさんは家政婦を俊彦くんのクラスに行かせて、私のクラスには必ず自分で来てくれた」
「病気で入院した時も、田中おばさんが付き添ってくれた。私を婚約者というより、娘のように思ってくれていたのかも……」
美咲は俯くと、黙って目をこすった。
長い沈黙の後、彼女は佐々木に尋ねた。
「今回、私がわがままだったのかな?」
皆の期待に応えて、言われるがまま俊彦と結婚し、気立ての良い奥さんになるべきだったのだろうか?
健太の長い指がハンドルを滑らせてカーブを曲がると、美咲にティッシュを差し出した。
「違う」彼は断言した。「彼女は君に親切だった。だが、それで君を誰かと結婚させる権利はない。君の婚約者が浮気したなら、婚約を解消するのが当然だ。本当に君のためを思うなら、愛していない男に無理やり嫁がせるべきじゃない。」
美咲は再び黙った。
健太の言葉は確かに正しかった。
彼女はうつむき、何を考えているか分からない。
車はすぐに病院に着き、停まると同時に美咲がドアを開けて足早に降りた。
数日前の雨で東京の気温はかなり下がっていた。
真夜中の冷気が、降りたての美咲の顔を強く打った。
首をすくめたが、足は止めずに速やかに病院へ向かった。
車を停めた佐々木が大股で追いかける。
美咲の細くまっすぐな背中と、大きく露出した白い首筋を見て、スーツの上着を脱ぐと彼女にサッと羽織らせた。
寒さが一瞬で温もりに変わった。
美咲が振り返って礼を言うと、佐々木のスーツは彼女の銀のストラップドレスの上で大きくはあったが、不自然ではなくむしろ調和していた。
「手配しておいた。田中さんの母親は8階の救急処置室だ」
「ありがとう」
夜の病院は人も少なく、エレベーターで8階に着くとすぐに処置室の点灯したランプが目に入った。
入り口には田中晴香が立ち、少し離れた椅子に田中正雄が座っている。
美咲が近づく。「おばさんの調子は?」
晴香が振り返ると、美咲と分かると同時に目に怒気が走った。
次の瞬間、掌が美咲の頬を捉えた。
晴香が渾身の力を込めた一撃で、美咲はよろめいた。
「よくも顔を出したわね! こんな夜中に、母を死なせたいの!?」
美咲の右足がくじけ、後ろから来た佐々木に支えられた。
「わざとおばさんを怒らせようとしたわけじゃ……」
美咲の到着で、晴香の鬱積した怒りは一気に爆発した。
「今夜、佐々木の家で大騒ぎしたわよね? 動画が複数のグループチャットに流れて、みんな田中家を嘲笑ってるのよ! わざとじゃないって?」
「母はあなたを実の娘以上に可愛がってたのに、そんな風に母を苦しめるなんて?」
晴香はこの婚約予定者をずっと見下していた。
彼女は美咲の家柄や学歴が俊彦に見合わないと思っており、美咲の取り柄は顔だけだと信じていた。
晴香の心中では、美咲は俊彦にいつも媚びて、彼の後を追いかけ回す存在でしかなかった。
家族は皆美咲を軽んじていたが、田中美代子だけは美咲を実の娘のように可愛がっていた。
そんな中、美咲がわざと美代子を怒らせ心臓発作を起こさせたのだ。
晴香の美咲への嫌悪と憎悪は頂点に達していた。
一発では収まらず、もう一度殴ろうとした。
その手が、誰かに阻まれた。
美咲の後ろにいた男だ。
晴香の視線がゆっくりと男に向き、その精悍で冷たい面影に一瞬ひるんだ。
手を引っ込めると叫んだ。
「あんた誰よ? 何で邪魔するのよ?」
しかし後半は次第に声が小さくなった。男の鋭い視線に、理由もなく恐怖を感じたからだ。
悔しそうに佐々木をじろりと見ると、また美咲を見た。
「その服、あんたのでしょ? 夜中に他の男と一緒で、しかも彼の服を着てるなんて。いったいいつから兄の陰で浮気相手を作ってたの? 兄が浮気したって言うけど、あんた自身は清く正しいと思ってるの?」
「佐々木さんと私があなたが思うような関係じゃないって、今は急いで送ってもらっただけだから」
「いいわ! 聞きたくもない!」晴香は手を振った。「さっさと帰れ!」
「田中おばさんが目を覚ますまでここで待たせてください」
「ここであんたたちを歓迎する気はないわ!」
後ろの椅子に座っていた正雄がゆっくりと立ち上がり、こちらへ歩いてきた。
彼も晴香同様、美咲が美代子を心臓発作に追いやったと激怒していた。
しかし晴香よりは冷静で、嫌悪感を露わにせず、できるだけ平静を装って言った。
「美代子をそんな状態にした以上、彼女もお前の顔は見たくないだろう。まずは帰ったらどうだ?」
「私を責めても構いません。でもおばさんが目覚めるまで待たせてください」
正雄の表情が曇った。彼が口を開く前に、佐々木が先に言った。
「佐藤さんがここにいても支障はありません。ご夫人の容態を心配しているのです。目覚めるまで待たせてあげるのが筋でしょう」
正雄は不満げに「お前は誰だ? 他人がうちの家事に口を出すな」
佐々木健太は右手を差し出した。
「田中社長、初めまして。佐々木健太と申します」