田中俊彦が去ると、休憩室は静かになった。
美咲は、さっき佐々木健太が自分をかばってくれたのだと理解した。
数回会っただけの間柄なのに、ここまで尽力してくれる健太の態度に、美咲は申し訳ない気持ちになった。
「さっきはありがとうございました」
「礼なんていらないよ。あいつはただのむかつく野郎だ」
ソファから立ち上がった健太の視線が、田中に掴まれた美咲の手首へと落ちた。
彼が近づこうとした瞬間、美咲の携帯が鳴り響いた。
画面には伊藤智子の名前。美咲は即座に切った。
しかし間もなく再び着信音。気まずそうにしながら、今度は通話ボタンを押した。
「何ですか?」
口を開くより早く、怒鳴り声が炸裂した。
「偉くなったんだなあ?! あんな大勢の前で妹を殴るなんて!」
その口調で、伊藤優香が告げ口したと悟った美咲。
伊藤優香が先に手を出した、と説明しようかとも思った。
だが考え直した。何を言っても、伊藤智子は信じないだろう。
弁解は無駄だ。
美咲は沈黙して、受話器からの罵声を聞き続けた。
「あの日、騙して呼び戻したって恨んでるんだろ? 今日は優香がやっとの思いでパーティに行けたってのに、全部台無しにしやがって!」
「動画が撮られて、もう拡散してるんだぞ! うちのメンツも、田中家のメンツも、どこへ置けっていうんだ!」
「佐藤美咲、お前にもう少し羞恥心があるなら、今すぐ戻って妹に謝れ! その上で田中家にも詫びに行け! 婚約破棄なんて脅しに使うんじゃない!」
伊藤智子は二分間、息継ぎすらせずに罵倒し続けた。
美咲に逆らわれたここ数日の鬱憤を、ここで晴らす絶好の機会だった。
その大声は、すぐ傍にいた健太にも筒抜けだ。
スピーカーをオンにしていなくても、受話器から漏れる罵詈雑言ははっきり聞こえた。
彼の眉間には深い皺が刻まれ、表情はますます険しくなっていく。
一方の美咲は、終始無言で聞き流している。
罵声が続く中、携帯が「ピッピ」と鳴り、別の着信が入ったことを知らせた。
画面を見下ろすと、田中美代子からのコールだった。
美咲は声を張って伊藤智子の罵倒を遮った。
「叔母さん、長々とお話しして喉が渇いたんじゃないですか? のど詰まらせないように、お水でも飲んでくださいよ。用事があるので、一旦切ります」
返答の余地も与えずに切り、即座に美代子の電話に出た。
「おばさん……」
田中俊彦には遠慮する必要はなかったが、田中美代子を巻き込んで気まずい思いをさせたくなかった。
両親が亡くなって以来、美代子はいつも美咲に優しくしてくれた。
今の電話も、パーティでの一件を知ってのことに違いない。
「美咲ちゃん……」 咳払いを二度して、美代子が続けた。
「俊彦のバカ息子が悪いのは分かっている。でも、あなたたちの婚約は幼い頃から決まっていたことよ。今はそんなことで意地を張ってはいけないよ」
美咲は美代子を怒らせたくなかった。しかし婚約に関しては、譲るわけにはいかなかった。
「おばさん、さっき佐々木家であったことはもうご存じでしょう? 田中俊彦と小野寺彩乃、あんなに並んでみるとお似合いなんです。あの二人を一緒にしてあげた方がいいと思います」
「美咲ちゃん、そんな意地を張らないで。あなたが俊彦を好きなのは知っているから」
美代子は諭すように言った。「私がきっちり叱って、あの外の女とは絶対に縁を切らせる。あなたが辛い思いをしているのも分かっているのよ……」
その言葉に、美咲の目尻が熱くなった。
田中美代子も、東京の名だたる人々の前で田中家のメンツを潰した自分の身勝手を責めるだろうと思っていた。
まさか、自分が辛い思いをしていると感じてくれるとは思わなかった。
美咲は静かにため息をついた。
以前も俊彦と別れそうになったことはあった。こじれた時は、美代子が仲裁に入れば、美咲はいつも心を和らげていた。
美代子が長年かけてくれた親切への恩返しを、俊彦への思いやりに変えていたのだ。
だが今回は、もう自分を押し殺したくなかった。
「おばさん、こういう事は一度や二度じゃありません。俊彦は小野寺さんと別れる気なんて最初からなかったんです。それどころか、どんどんエスカレートしていくばかり。もう我慢したくないんです」
美代子の声が詰まった。
「婚約は子供の遊びじゃないのよ、美咲ちゃん。私は本気であなたをうちの嫁にしたいと思っているの」
「今回は約束するわ。必ず俊彦に、あの女と絶対に縁を切らせるから。もう一度だけ俊彦にチャンスをあげてくれない? 私の顔に免じて……」
受話器越しに、美代子が必死に説得し、喉をカラカラにしている姿が浮かんだ。
ちょうどその時、思わず顔を上げた美咲の視線が、向かい側に立つ健太と合った。
健太の口元は、何やら興味深そうにほんの少し上がっている。しかしその瞳は冷たく、露骨な侮蔑の色を宿していた。
美咲は悟った。もしまた妥協したら、自分は誰からも見下されるだろう。
一呼吸置いて、彼女は重々しく言った。
「おばさん……今回は本気です」
一語一語、美咲の口調には揺るぎない決意が込められていた。
受話器の向こうの声が慌ただしくなる。
「美咲ちゃん、ほんの数日前まであなたと俊彦はうまくいっていたじゃない! どうして急にこんなことに? 本当に婚約破棄するつもりなの? ただの意地じゃないの?」
田中美代子は息が詰まりかけているようで、声に嗚咽が混じっていた。
「おばさん、もう決めています。これは意地張りでも、癇癪でもありません」
「美咲ちゃん!」
まだ何か言いかけているのかと思った次の瞬間、受話器から「ガチャン!」という大きな音がして、美代子の声は途絶えた。
「おばさん?! どうしたんですか!?」
すぐに電話の向こうで慌ただしい足音が響いた。
「お母さん! どうしたの!?」
「医者を呼んで!」
田中晴香と田中正雄の叫び声だ。
美咲は握った携帯を震わせながら、「おばさん!」と何度も叫んだが、応答はない。
ごちゃごちゃとした音の後、通話は切れた。
美咲の顔から血の気が引き、胸中に慌てが湧き上がった。
佐々木健太が近づき、震える彼女の肩を押さえた。
「どうした?」
美咲は大きく息を吸った。「おばさん、心臓が悪いんです。田中家に行かなきゃ!」
振り返って走り出そうとした彼女の腕を、健太が掴んだ。
「俺が送る」
美咲が断ろうとしたところで、先に健太が言った。
「ここはタクシー捕まりにくい。俺の方が早い」
返事を待たず、彼は彼女の手を引いて個室を出た。
健太は美咲を人のいない別の階段に案内し、近道を通って正面玄関へ向かった。
黒の車が入り口に待機している。健太は焦った声で美咲に言った。
「助手席に乗れ」
夜の冷たい風が、美咲の混乱した頭を多少冴えさせた。
礼儀や挨拶を気にする余裕はなかった。彼女はさっさとドアを開けて乗り込んだ。
同時に運転席に滑り込んだ健太は素早くエンジンをかけ、アクセルを踏み込んだ。
追いかけてきた高橋の叫び声が背後で響いた。
「社長! 旦那様がお呼びです!」
しかし車は猛スピードで走り去り、返答は舞い上がった砂埃だけだった。