氷は明らかに無抵抗だった。
というか、スマホ見ていてぼーっと突っ立っていたら、なんか知らんうちに連行されていきましたと言う感じだったのである。なんでこう、ああも危機感がないのだろう。もしアルカディア、もしくは魔族を狙った人間たちの犯行だったなら、きっとろくな目に遭わないというのに!
――そうでなくてもあいつ無駄に綺麗だし美人だしすげー綺麗だし!男でもいいやで売られるとかえっちな目に遭うとかそういう危機もあるかもしんねーし、ああもう!!
とりあえず俺は急いでスマホを取り出して、学園に連絡を入れた。職員室に電話がつながらなかったので、学園の緊急連絡版にメッセージを残しておくことにする。
でもって、自分もただここで待機しているつもりはない。取り返しがつかないことになる前に、氷を救出せねば!
――大体もう、あいつが危ないのわかっているのに外に出かけたいとか言いだすから!本当にもう!
結局まだ買い物とお昼ご飯しかできていない。目当てのゲームセンターはこのあと行く予定だったのだ。このまま誘拐されてしまったら、当初予定していたデートも何もできなくなってしまう。
「てめえはそれでいいのか、こんちくしょう!」
後でお説教。
そう決めると俺は、持ってきていたメモ帳を取り出した。
そこにある文字を書き記す。
『シブヤ9875 R-23-55』
それは、さっき氷を誘拐した車のナンバーだった。とっさにその名前は暗記したのである。
さらに以下に文章を追加する。
『ハヤテ 黒のノーマンコート』
ノーマンコート、はこの国最大手の自動車企業・ハヤテ社が売り出し中のワゴン車だった。ファミリー向けの大型車であり、CM通りなら黒と紺、銀、水色の四色があったはずである。さっき見た車は黒だった。はっきり言って販売台数が多すぎる上目立つ色でもないので、車種だけで追いかけるのは困難だったことだろう。
それらの文字をまじまじと見つめながら、俺はぼそりと呟く。
「……〝Chasing〟」
途端、頭の中に地図が浮かび上がる。その中に引かれていく赤い線は、さっきの車が通ったルートだ。そう、これは特定の物体の情報を書き出して視認することで、その追跡を行うことのできる魔法なのである。魔族の血を継いだ警察官がよく使う魔法で、調査などにも優秀ということで最近覚えたばかりなのだった。
ああ、自動車の場合は、車本体を見ている上で№プレートを正確に覚えていれば問題なかったのである。
「シブヤ新駅の東口前を通り過ぎて、そのまま北上。国道十二号線を通ってナカツガワ二丁目交差点を左に……ここは、ボロボロのアーケード街か?よし」
ありがたい。
自動車はさほど遠くまでは行っていない。今なら、走って追いかけることもできそうだ。
一応追加でその旨も掲示板に書き込むと、俺は足にぐっと力をこめた。
「ナメんなよ。こちとら体力勝負のラインバッカーだっつーの……!」
ましてや、状況次第ではランニングバッグとして攻撃も兼任するのだ。体力と足の速さには自信がある。
息を大きく吸い込み、俺はスタートを切ったのだった。
***
思い出す。
幼い頃、俺が氷と交わした言葉を。
『春秋は、好きなひといる?』
『え?あー……いや、その……』
幼稚園の時からずっと一緒だった。初めて会った時は普通に女の子だと思ったものだ。その後男だと知ったはいいが――最初に可愛いと思った気持ち、ドキドキした気持ちはいくら一緒にいても抜けきることはなかったのである。
綺麗だから好きになった、だけではない。
最初のきっかけはそうだったけれど、それだけではなかった。氷は絶対的な『自分』を持っていた存在だった。幼稚園で、弱いくせにガキ大将に喧嘩をふっかけ、金的で倒して泣かせるということをした氷。彼が怒ったのは、友達の男の子の可愛いキーホルダーをガキ大将が取ろうとしたことだった。
彼はどんなに怖くても、自分が許せないと思ったものには果敢に立ち向かっていく。そして、それは大抵誰かのためだ。
女の子みたいに可愛いと思った相手なのに、実のところ春秋が一番好きになったところは多分、彼の誰より勇ましいところであったのである。
『好きな人は……その、いない、けど』
男同士でおかしい。そう言われるのが怖くて、いつも誤魔化していた。魔王学園に入るまで、中学まで一緒の学校だったのに先伸ばしにしていたのはそのためだ。男同士の恋愛も珍しくない学校の中にいれば、きっと自然に想いを伝えられると思ったから。
『いない?本当に?』
ああ、氷はどういうつもりで尋ねたのだろう。
小学校二年生くらいの時。ジャングルジムの天辺にのぼっておしゃべりしながら、彼は身を乗り出してきてこう言ったのだ。
『じゃあ、オレのことは?』
『その、えっと、そりゃ……一番だいじな、親友、だけど』
『そう』
親友。思えば、先にそう言ったのは自分。それはけして間違っていない、でも。
『親友。うん、オレも……春秋は、親友。大好きな、親友』
果たして自分は、ちゃんと氷に尋ねたことがあっただろうか。そういう気持ちが少しでもあるのかと、もう少しだけでも不覚追求する勇気を持っていたら、何かは変わっていたのではないか。
親友だから。
そこで境界線を引いたのは、本当は氷の方ではなく春秋の方だったのかもしれない。今になって思い返して、そんなことを考えてしまうのだ。
――好きだ。
その三文字がもっと早く言えていたら、なんて。そんなこと今更言ってもどうしようもない。だけど。
――好きだから、誰にも、渡したくねえんだ。
もし、二度と会えないような状態になっていたら。氷が自分以外の誰かに穢されてしまっていたらと思うと本当に恐ろしい。恐ろしいのは彼の身を案じてか、あるいは嫉妬に狂いそうな自分になのかはいまいちよくわかっていないけれど。
――頼む、無事で……無事でいてくれ!
車は路上駐車してあった。中には誰もいない。ボロボロのアーケード街はほとんどの店が閉まっているようで、半ばゴーストタウンと化していた。
そこまで遠くには行っていないはず。シャッター街を走り、俺はあたりを見回す。あとはもう、手がかりは氷の魔力くらいしかない。その気配をどうにかして辿らなければ、彼を見つけるなんぞ夢のまた夢だろう。
「氷、どこだ!?どこにいるんだ!?」
思わず声を張り上げた時、どこからともなくバコン!ともバタン!ともつかぬ大きいな物音が聞こえてきたのだった。まるで怒りに任せてソファーでも蹴っ飛ばして倒したかのように。
『ナメてんじゃねえぞこのクソガキ!』
はっとしてそちらに目をやる。気づいた。外れかかっている『布団のきぬや』という看板。シャッターが閉まったその店の二階に、微かに明かりが見えることに。カーテンの向こう、何かが動いているのがわかる。
あそこだ、と俺は駆けだした。外階段をダッシュで登る。その間にも、物騒な会話は聞こえていた。
『せっかく可愛がってやろうって思ってんのに、余計なことをしやがって!』
『余計って?』
『大人しくしてればよお、天国に連れてってやるつってんだよ!売りモンにする前に味見は大事だからなあ……!だってのに、てめえは!!』
『売り物にされたくもないし、味見もされたくもないから仕方ない』
『はあ!?』
――ああ、もう、本当バカみたいな会話してー!
怒鳴り散らしている男に冷静に返している中性的な声。間違いない、氷だ。
相手がアルカディアの生徒を狙ったかどうかは定かではないが、どうやら氷はどこぞで売られるために誘拐されたということらしい。それに抵抗したのでキレられて殴りかかられている、といったところだろうか。
いずれにせよ、猶予はない。二階に上がると俺は、物音が聞こえた一番奥の部屋の前で、一歩下がった。そして。
「タッチダウンんんんんんんんんんんっ!」
思いっきり、タックル。現役アメフト部員のタックルをナメないで頂きたい。しかも、しれっと魔力で強化してバージョンだ。ぼろっちい木製の扉は蝶番が壊れて簡単にぶっとんだ。ワンルームの狭いリビングで騒いでいた男がびびって振り返る。
「な、なんだてめえ!?誰だ!?」
「誰って、そこのお姫様を回収しにきただけですが……って、あら?」
そこで、俺はあることに気づいた。ついつい靴も脱がず、土足で中に踏み込んでしまう。怒鳴っている男一人しか声が聞こえない、と思ったら。
「……もしや助けに来る必要、なかった?」
「あった」
氷は、男に胸倉を掴まれた姿勢のまま不満そうな顔をしている。
「せっかく誘拐されたのに、助けに来てもらうシチュエーションが体験できなかったらつまらない」
「え、ええええ……?」
リビングでは、氷漬けになってぶっ倒れている男が一人、二人、三人、四人。どうやら、俺が来る前に、氷が自分で暴れて一人以外全員倒していたらしい。
しかも今の台詞。もしや、こいつ。
「おっまえ……わざと誘拐されてんじゃねえ!」
どうやら、誘拐から救出されてみたい、という願望をかなえるためにわざわざ変態どもを利用したらしい。
放置されてポカーンとしていた男にとりあえずタックルして気絶させると、俺はため息をつきながらスマホを取り出して言ったのだった。
「もしもーし、ポリスメン?」
事件は、あっけなく解決した。
どうやら氷を誘拐したのはとある半グレ組織であり、ぶっちゃけ魔族だと知らずに拉致しようとしたというのが本当のところのようだ。あのビルを勝手に使って、あそこを人身売買の取引現場にしていたとのころ。見目麗しい少年少女を金持ちに売りつけるというビジネスをしていたという。で、その前に氷が処女かどうか確認しようとして――ブチギレた氷の魔法攻撃をもろに食らったようだった。
『仕方ねえだろ、他の目標なんか目に入らなかったんだよ!圧倒的にあいつが一番美形だったんだから!!』
半グレ連中まで誘惑してしまうなんて、まったくとんだ魔性の男である。でもって、俺に助けてもらうためにわざと捕まったこいつもこいつだが。
「……もう二度と、こんなアホな真似するなよ。ちゃんと次は誘拐されないように逃げろよな」
「うん、もうしない」
警察の事情聴取後。氷は俺の注意に対して、あっさりこう言ったのだった。
「ちょっと遅かったけど、ちゃんと春秋は助けてくれた。満足したから、もういい」
「……ソウデスカ」
「でもって、服はちょこっと破られたけど、えっちなことはされてないから安心して」
さらには反則的な笑みを浮かべて、彼は言うのだ。
「春秋以外に、そういうことされるのなんか絶対嫌だし」
「ふあ!?」
それは一体どういう意味なのか。尋ねるよりも先に、氷はすたすたと歩きだしてしまった。後には呆然と警察署前に佇む俺だけが残される。
数秒間、その言葉を噛みしめたところで、顔に熱がこもるのがわかった。
「ま、待て待て待て春秋、それはどういう意味だ!?お、俺にならそ、そういう真似されてもいいってことなのか、そうなのか、おい!?」
「さーあ?」
「さあ、じゃなくて!さあ、じゃなくてさあ……!」
どうやらまだ当分俺は、彼に翻弄される日々が続くらしい。