誰もいない夜のコンサートホールは、まるで呼吸をやめたように静まり返っている。
照明の落ちた客席は闇に沈みこみ、舞台の上にぽつんと置かれたグランドピアノだけがスポットライトに浮かびあがる。その黒い艶面はまるで深海の暗さを湛え、ホールの空気すら飲み込んでしまいそうだ。
俺は最後の鍵盤に指を置いたまま、そっと息をついた。弦の余韻が消え、代わりに自分の心臓の鼓動が静けさを叩く。
調律は順調で音の狂いもない。だが、なぜだろう。どこか物足りなさが残る。いいようのない、なにかが欠けている気がする。そう、それは音の奥にある、“
(このグランドピアノは、想像以上に
持っていたハンマーを指先で弄びながら、考えに耽っていると。
「……完璧だね」
背後から響いた艶のある低い声に、心臓が跳ねた。反射的に振り返ると、舞台袖にひとりの男が立っている。
白いシャツに黒のパンツ。ありふれた格好のはずなのに、その姿はまるで絵画のように非現実的で、輪郭がほんの少しだけ現実から浮いているように見えた。
ピアニストらしい、長くしなやかな指が舞台の闇を切り裂くように動き、緩やかな仕草で髪をかき上げる。その一瞬、スポットライトが彼の瞳に反射し、琥珀のような光が揺れた。
俺が言葉を発するより早く、彼はピアノの前に歩み寄り、軽やかに腰を下ろす。そして、唐突に音を奏ではじめた。
聞いたことのない旋律が、ホールを包み込む。一音一音が心の表面をそっと撫でるように、彼の指先から紡がれる調べは鋭くも柔らかく、確かな感情を孕んでいる。
それは熱くも冷たくもない、だが確かに痛みの記憶を呼び起こすような響きに、息をすることさえ忘れた。俺の意識は、ただ彼の指先とその音に囚われる。
演奏が終わると九条さんは鍵盤から手を離さず、ゆっくりと俺の方へ顔を傾けた。
「なるほど……この音は、君が整えたんだね」
その声は、耳の奥に直接触れるように甘く響いた。なぜか頬が熱くなるのを感じ、俺は慌てて視線を落とす。
「君、名前は?」
「芹沢……
「芹沢くんか。いい調律師だ。でもこのピアノにはまだ、君の“なにか”が足りない気がする。どうしてだろうね?」
その言葉は、俺の心の隙間を正確に突いたものだった。九条さんの瞳はどこか虚ろで、同時に底知れぬ深さを湛える。
触れてはいけない、なにかがそこに眠っている気がして、胸がざわついた。彼の視線が俺を絡め取るように滑り、まるで心の奥まで見透かされているような錯覚に陥った。
「次は、君の音を聴かせてほしい」
九条さんはそう囁き、颯爽と立ち上がって、まるで霧のように舞台袖へと消える。
その夜、心に棲みついたものの名は、まだ知らない。だがそれが俺のすべてを変える予感だけは、確かにそこにあった。