俺が調律師になって数年――これまでに何人ものピアニストと仕事をしてきたが、「九条司」という名はどこか別格だった。
超絶技巧を誇る演奏家としての才能。若くして世界に名を轟かせた経歴。そしてなにより、人を惹きつけて離さない“なにか”を持っているという評判。噂では、彼の演奏を一度でも聴けば、誰もが心を奪われ、もう戻ってこられなくなるという。
男女問わず惹きつけるその魅力が、時にトラブルを招くとも囁かれた。最近のコンサートのドタキャンも、そんな噂の一端かもしれない。理由は明かされていないが、ホールで調律したピアノが使われない可能性を考えると、胸がざわつく。
「魔性の男なんて、大げさだろ」と思っていた。だが初対面の夜から数日経った今も、俺の頭の中から彼の姿が離れない。夢の中でさえ、あの虚ろで深淵な瞳がこちらを覗き込んでくる。まるで、俺の心の隙間を覗き込むように。
(……くだらない)
調律師として、そんなことに気を取られてはいけない。
頭を振って雑念を追い払い、九条さんの自宅兼スタジオの呼び鈴を押した。今日から本格的なリハーサルが始まる。ホールとは異なる、彼の“私室”での調律が、本日の仕事だった。
緊張しながら待っていると、目の前のドアが開いた瞬間、ふわりと甘い香りが鼻を掠めた。サンダルウッドとどこか花のような、つかみどころのない香り。リラクゼーション効果のあるその気配だけで、少しだけ肩の力が抜けていく。
「……芹沢くん、いらっしゃい」
薄い笑みを浮かべた九条さんが、ドアの向こうに立っていた。白いリネンのシャツは首元が少し開き、陽光に透けて肌の輪郭がほのかに浮かぶ。
目に映る様子はこの空間そのものを、彼が演出しているかのよう。天井の高い部屋。壁一面に並ぶ古びた楽譜。窓から差し込む光を受けた黒いグランドピアノの存在感は、圧倒的だった。
「君が来ると部屋が静かになる。不思議だね」
そう言った九条さんは少年のようはにかんで、床に座り込む。そして自身の膝を抱えるような格好で、俺の手元をじっと見つめた。その視線は、俺の指先が奏でる音を目で追いかけるみたいに。
「すみません……作業の邪魔です」
「邪魔をしているつもりはない。観察してるだけ」
彼の声は低く、どこか楽しげに俺の耳に届く。
「君の指の動き、好きだよ。まるでピアノを愛撫してるみたいだ」
「うっ!」
その言葉に、俺の手が一瞬止まった。冗談か本気かわからないその口調に、頬がじわりと熱くなる。彼の笑みはどこか毒を孕んでいて、油断すれば飲み込まれてしまいそうなほど、甘くて危険なものに感じた。
慌てて視線をピアノに戻し、調律に集中し直す。けれど彼の視線は俺の手元を離れず、肌に触れてくるように纏わりついてくる。
そのせいでほんの少し、心臓が速く脈を打つ。
「芹沢くん、音って触れてみたいと思ったことある?」
九条さんが不意に、不思議なことを訊ねた。俺はハンマーを握ったまま顔を上げる。
「触れる?」
「そう、手で。肌で。なんていうのだろうか……人の心の奥にある音に、触れてみたくなるときがあるだろう?」
告げられたセリフは、俺の心の奥底に踏み込むように聞こえた。
確かに俺は、ずっとそれを求めていたのかもしれない。音の向こうにある、人の心の震えに触れたいと。
だが同時に、それは危険な誘いだった。彼の瞳の奥に潜む、触れれば壊れてしまいそうな脆さと深さに、俺自身が飲み込まれるイヤな予感がした。
「九条さん、貴方の音は……どんな形ですか?」
思わず口をついて出た言葉に、彼の目が僅かに細まる。俺の心を見透かすような、意味深な笑みが唇に浮かんだ。
「さあね。それは君が確かめてみるといいよ、芹沢くん」
その瞬間、部屋の空気が一変した。まるで彼の声が、俺の心の鍵盤を直接叩いたかのように。