しばらくすると九条さんは隣室のソファに身を預け、壁越しにこちらを眺めた。濃い睫毛の奥から放たれる視線は、俺の動きを音のように捉えているみたいに感じた。
それでも集中して調律したことで、ピアノの音は淀みなく、理想に近いバランスを保たれた。作業がうまくいったことに安堵のため息をつき、工具を布で包もうとしたとき――。
「ねえ、芹沢くん」
静かだが芯のある声に、俺は反射的に振り返る。九条さんはソファで脚を組み、肘を背もたれに乗せたまま、こちらを見ている。
スポットライトのような陽光が彼の整った顔を照らし、瞳の奥に琥珀色の光が揺れた。俺の心の奥を覗き込むような、柔らかくも鋭い視線だった。
「君の左手側の低音……本当にほんの少しだけ、響きを残すように調律してるだろう?」
「えっ?」
そんな意図はしていない……はず。俺はどの鍵盤にも均等に冷静に、誤差なく調律した。
「そうか。わざとじゃないのなら、それは君の癖だ。あの音だけ、僅かに余韻が長く続く」
九条さんは言いきって、調律の終えたピアノに近づいていくと、椅子に腰かける。そして間を置かずに、低音域を撫でるように鍵盤を叩いた。
その指先から奏でられたものは深く、濡れたような音が空気を震わせる。まるで夜の海の底から届くような、静かで重い旋律。胸の最奥をそっと撫でられるような感覚に酔いしれ、俺は思わず息を止めた。
「うん、とても優しい音だ。なにも身にまとっていない心を、優しく包み込むような――」
彼の言葉で、胸の内が異様にざわめく。俺は意識して、音を整えてきたつもりだった。どの鍵盤にも偏りなく、プロとして完璧に仕上げたはず。なのに九条さんの耳は、俺の無意識の感情さえも拾い上げてしまうらしい。
「俺は……そんなつもりじゃ」
「否定しなくていい」
九条さんは鍵盤から目を離さず、ふっと微笑む。
「僕、この音が好きだ。君の指が残した、君だけの痕跡だから」
その声は静かで、どこか熱を孕んでいた。俺の心の隙間を埋めるように、甘く響く。思わず喉の奥が詰まり、言葉を失う。
「ねえ芹沢くん。君ってさ、言葉にしない感情を、指に預けてるだろう?」
笑うでもなく、詰るでもない。九条さんはフラットな口調で訊ねた。俺はハンマーを握りしめ、視線をピアノに落とす。なぜか、彼の目を見返すことができない。
「あの……勝手なことを言って、すみません」
やっと絞り出した声に、九条さんはゆっくりと首を横に振り、椅子から立ち上がると、俺のすぐ傍まで歩み寄ってくる。ほのかなサンダルウッドの香りが鼻先を掠め、心臓が一瞬強く跳ねた。
「そういうところも、素直にいいなと思っただけ。だって――」
彼は俺の顔を覗き込むように、少し身を屈めた。
「だって君の触れたピアノだけが、あんなふうに鳴る。それって特別だよね」
その瞳は、まるで俺の心の奥底に沈む“なにか”を見透かす。触れれば壊れてしまいそうで、けれど抗えず否応なしに惹かれてしまう。
そのまなざしに捕らえられたまま、目が離せなくなる。彼の言葉が俺の中に封じてきた感情を、少しずつ暴いていく気がして――。