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***


 調律を終えてからも、なぜか九条さんは「もう少しここにいてくれ」と俺を引き留めた。


 断る理由も見つからず、俺はソファに腰を下ろして、コーヒーカップを手に持つ。カーテンの隙間から夜が忍び込むことで、部屋全体がほのかに温度を落としたような気がした。


 九条さんは黒いグランドピアノの前に佇み、鍵盤には触れず、ただ楽器そのものをじっと見つめる。その姿は、コンサートの一瞬を切り取ったかのようだった。


 完璧な輪郭、静かな佇まい。きっと彼のファンなら、このまま時が止まってもいいと願うだろう。


「芹沢くん……眠れない夜ってあるだろうか?」


 九条さんはピアノから窓の外の闇に目を向け、ぽつりと呟く。


「眠れない夜ですか?」

「ああ。誰にも逢いたくないのに、ひとりでいるのも怖いみたいな夜」


 彼は振り返らずに続ける。九条さんの声には、僅かな濁りがあった。音に敏感な職業ゆえに、そんな些細なことにも気づいてしまう。


「僕には昔、そういう夜がずっと続いたときがあった。音を出しても、音じゃないものにしか聞こえなかった」


 その言葉に、胸の奥が締めつけられるような感覚が走った。耳が捉えた九条さんの声には、普段の艶やかさとは異なる、どこか脆い響きがある。彼の完璧な仮面の裏に、確かに“キズ”があることを感じさせた。


「……なにがあったんですか?」


 自分でも驚くほど自然に、言葉が口をついて出た。九条さんは短く笑い、ゆっくりと振り返る。細く切れ長の瞳に、夜の光が映り込む。頬に浮かぶ儚い影。整った顔立ちにふと滲む虚無感が、俺の息を止めた。


「よくあることだよ。人を信じすぎたとか、音に縋り過ぎたとか……ね。少し前までは、それすらも“美談”にしてごまかした」


 彼の声は軽く、だがどこか自嘲的だった。


(彼の奏でるピアノの音と、漂ってくるこの雰囲気……そこに深いキズがあるって、ハッキリとわかってしまった)


 安易に声をかけられず、俺は押し黙った。九条さんは瞼を伏せ、まるで自分の言葉を反芻するように静かに続ける。


「でももう、語るほどのことでもない。ただ、たまに思うんだ。あのとき、誰かが僕を抱きしめてくれたら――って」


 一瞬俺に「抱きしめてほしい」と言っているように聞こえた。いや、違う。俺が勝手にそう思っただけ。


 そのことを意識した途端に急に恥ずかしくなり、心臓が速く脈を打って、コーヒーカップを持つ手が僅かに震える。


 俺の挙動に九条さんはふわりと笑い、音もなく俺の傍に歩み寄った。ソファのすぐ横に立ち、俺の持つカップの縁に指先を添える。触れそうで触れない、絶妙な距離。サンダルウッドの香りが、俺に近づいた分だけ濃くなる。


「あんな音を調律できる君なら、僕が奏でるピアノの音じゃなくて、ちゃんと“人”を見てくれそうだね」


 その声は低く艶めき、耳の奥に触れるように聞こえた。直接触れられてもいないのに、指先が肌をなぞったような錯覚。心が一瞬、九条さんの引力に引き寄せられそうになる。


 それと彼が弾くピアノ――超絶技巧でうまく隠しているが、彼の中にあるキズが音色に混じっている。聞く者は無意識化でそれを感じることで、自分の中にあるキズと共鳴し、九条さんの奏でるピアノに無条件で感動する。


 心にキズを持たない人はいない。だから、九条さんの奏でるピアノに魅せられる。彼が魔性の男と呼ばれる所以なのだろう。


「……九条さん」

「司って呼んでほしい。今は“ステージの外”なんだから。ねぇ芹沢くん」


 その瞬間、名字を呼ばれたことで、気づいてしまった。九条さんの口から、俺の名前を呼ばれたいと。


「つ、司……さん」


 たどたどしい呼び方をしたのに、彼の唇が弧を描いた。彼の望んだ一歩を、俺が踏み出したことに満足したのだろう。


「君の音、もっと聴きたいな、陽」


 彼は初めて俺の名前を呼び、静かに微笑む。


「君が隠している感情は、どんな音を奏でるのか――」


 切なさが入り混じった声で告げられた言葉がきっかけとなり、鍵盤の奥にそっと触れられたように静かな旋律が、俺の中で鳴り始めた。

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