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2-3

***


 芹沢くんが帰ったあとの部屋には、静寂の中に彼の痕跡がいくつも息づいていた。


 ドアの閉まる控えめな音。足音。カップがテーブルに置かれる乾いた響き――どれもすでに聞こえない音なのに、耳の奥でずっと反響する。まるで彼がこの空間に刻んだぬくもりが、夜の帳に溶けきれずに漂っているように。


 調律を終えたピアノは、驚くほど素直に鳴る。さっき試した低音も、ただ静かに、だが確かにそこにあった――とても優しい音だった。


 あれは偶然の癖なんかじゃない。無意識の、もっと深いところから滲んだ音。芹沢くんの指がそれを選んだ。彼自身がまだ知らないままに。


(彼の音には、温度がある――)


 冷静で真面目で、まっすぐすぎるくらいの青年。なのにピアノを調律する指先は、まるで誰かを救おうとするような音を引き出す。自分では気づかないまま、誰かの心をそっと包むような音を。


 そんな音に触れたのは、いつぶりだろう。誰かの奏でるものでも、自分の演奏でもない。ただひとつの音が胸の奥にじんわりと染みて、深いキズの輪郭をなぞるような感触。


 ピアノの鍵盤と同じモノクロの世界で生きる僕に、鮮やかな色彩を与えてくれるなんて。


(……ズルいな、あれは――あんな音を持ちながら、僕の心に無造作に触れた。本人はきっと、気づいていないくせに)


「まさに、魔性の男と表現したらいいかもな」


 口に出して呟き、苦笑する。


 弱いところなんて、見せるつもりはなかった。あんな言葉を、本当は言うべきじゃなかったというのに。


“誰かが僕を抱きしめてくれたら”――なんて馬鹿みたいだ。今さらそんなことを思っても、どうにもならないのに。


 でも彼は目を逸らしただけで、笑わなかった。なにかを悟ったような顔で、ただ静かに黙っていて。問い返さず、騒がず、逃げもせず――ただ、そこにいてくれた。


(……だからだ)


“司”と呼んでほしかった。誰でもないこの名前で、ステージの外の自分を見てほしかった。「ピアニスト・九条司」という虚飾を脱いだ、本当の僕の姿を。きっと彼なら、気づいてくれると思ってしまったから。


 指先にカップの縁に触れたときのぬくもりが、まだ残っている気がする。ほんの僅かに、触れかけただけの熱。直接彼に触れられなかったからこそ、余計にその感触が心に焼きつく。


(陽――)


 彼の名前を、声に出さず心の中で呼んでみる。その響きは、彼の音そのものだった。静かで、温かで、どこか切ない。


 眠れそうにない夜だった。でも、かつての胸を裂くような静けさとは違った。


 ひとりきりの部屋。沈黙のピアノ。重ねた記憶の底に沈めていたはずのなにかが、今日の音に揺さぶられながら、まだ戻る場所を探している。


 ピアノの前に立ち、鍵盤にそっと指を置く。低音を軽く叩くと、芹沢くんが残した余韻が微かに響いた。彼がまだこの部屋にいるみたいに。


(君の音が、僕のキズを呼び起こす――)


 その音は、かつての自分が封じたはずの記憶を、ふわっと解き放つ。もう二度と触れられないと思っていた、誰かのぬくもり。誰かの声。


「陽――」


 今度は声に出して、囁くように呼んだ。


「君の音を、もっと聴きたい」


  夜の静寂の中で、その言葉は弦の余韻のように空気に儚く溶け合い、誰にも届かぬまま、胸の内にそっと降り積もる。だがその響きは、僕の心に潜むものを、解き放ち始めていた。

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