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数日ぶりに訪れた九条さんの家は、この間と違う空気をまとっていた。
扉の奥から出てきた彼は相変わらず綺麗で、いつもどおりの穏やかな微笑みを浮かべる。けれどその笑みが妙に遠く見えたのは、気のせいだろうか――あの夜の親密さが、今日は薄い膜の向こうに閉じ込められているみたいに感じる。
「芹沢くんお疲れさま。外は暑かっただろう? 中へどうぞ」
玄関からリビングに通されるまでの数メートルが、やけに長く感じる。
前回来たときは、こんなふうじゃなかった。あの夜のぬくもり――指先すれすれの熱は、今はもう空気のどこにも残っていない。ただ、サンダルウッドの香りだけが微かに漂う。
九条さんはすぐにピアノの前に立ち、背を向けたまま、いつもの軽やかな調子で話す。
「この前の調律、すごく良かった。低音、まるでピアノが生まれ変わったみたいだった」
「ありがとうございます……でも、もしまたなにかあれば遠慮なく」
そこまで言うと、彼がこちらを振り返った。
笑っていた。でもその目には、前とは違う曇りがある。まるで、あの夜のことを全部“なかったこと”にしようとしているような――。
「芹沢くんも本番前とか、緊張するのだろうか?」
「あ、はい。たまに」
「そう。僕もね……そういう夜は、音のないところに行きたくなる」
その言葉は、あの夜の「眠れない夜」の話と似ていた。だが、明らかに温度が違う。あの夜は脆く、触れれば崩れそうなほど近く感じたのに、今はどこか他人行儀で、心をなぞるだけの言葉に思えた。
(……あれは、夢だったのだろうか)
手のひらに、あの日のコーヒーカップの感触が残っている気がするのに。俺の中では、まだ終わっていないのに。
「九条さんは……あの夜のこと、覚えてますか?」
意を決して口にした瞬間、鍵盤に触れている九条さんの指がふと止まった。けれど、すぐに動き出す。鍵盤の上を軽くなぞるように。微かな単音が、部屋の静寂に溶ける。
「覚えてるよ。でもあれはちょっとだけ、夜が深かったせいだね……」
まるで自分に言い聞かせるみたいに、やわらかく。だが確かに、距離を置く声だった。
「僕としては、変に気を遣わせたくない。仕事の相手に、ね――」
そう言って九条さんは笑う。どこまでもやさしい顔。そのやさしさで拒まれるのが、なぜか一番堪えた。胸の奥で、なにかが軋むような痛みを感じる。
「俺、気を遣ってるつもりなんか、まったくありません!」
反射的に言葉が飛び出した。思ったより強い声だったのに九条さんは驚かず、静かに瞼を伏せて無反応を貫いたけど、鍵盤に置かれた指が、ほんの一瞬だけ震える。
「ありがとう。でもね、僕はもう……相手に期待しすぎると、壊れてしまうから」
あの夜、触れそうだった九条さんの指先。あのまま俺に直接触れていたら、なにかが変わっていたのだろうか――そんな“もしも”が、熱を持って心に残る。
沈黙がピアノの蓋に積もる埃のように、ゆっくりと部屋に落ちていく。そのたびに、言葉にならない焦りが胸の奥で膨れあがった。
(――また、遠ざけられる)
指先が交わる寸前で終わったぬくもり。それを思い出すたびに、今の“仮面みたいなやりとり”が、どうしようもなくもどかしい。なにか言葉にしたくて、でも安っぽい慰めにはしたくなくて、ただ手のひらに汗を滲ませたまま唇を噛みしめる。
「……九条さんっ」
返事は、ピアノの上に置かれた指先の動きだけだった。けれど、俺はもう戻れない。
「あの夜、俺……すごく戸惑いました。でも嬉しかったんです。調律師じゃなく、ちゃんと“人”として見てくれたことが」
九条さんの手が鍵盤から離れ、静かに体の脇に落ちる。ゆっくりと、まるで時間を引き延ばすように、彼が振り向いた。目が合ったからこそ、伝えたい言葉を口にする。
「仕事だからって、それだけで済ませたくなかった。俺、貴方の音が好きです。貴方の人柄が気になります。だから、どうしても距離を詰めたいと思ってるんです」
そこまで言って、少しだけ息を吐いた。顔全部が熱くて、心臓が速く脈打つのがわかる。九条さんはなにも言わず、ただ俺の言葉を待つように、静かにこちらを見つめるのみ。
「……迷惑だったら、もう引きます。でも、もしほんの少しでも――あの夜の気持ちが本当だったなら……」
九条さんの瞳に、今までなかった色が浮かぶ。それはやわらかいのに、どこか痛みを孕んだ光。まるでずっと閉じていた心の鍵盤が、初めて触れられたような。
「迷惑なんかじゃない」
彼の声は小さく、初めてはっきりと“弱さ”を帯びていた。
「ただ、僕が怖がってるだけ。君のことも、自分のことも。期待したり、信じたりするのが……すごく怖いんだ」
その告白に胸が熱くなる。彼の声はピアノの低音のように静かで、けれど芯から響くものだった。
「ねぇ芹沢くん。君って本当にまっすぐだね」
「そうですね。たまに、損するくらいには」
ふっと笑いがこぼれる。あの日の夜に近い、けれど少しだけ今の方が、彼は人間らしかった。
「これから、少しだけ話をしてもいいだろうか? 昔のこと。君が聞いてくれるなら」
その言葉に、心が強く揺さぶられる。まるで、彼が初めて俺に心の鍵を開けた瞬間だった。
「はい。聞かせてください、九条さん」
彼は頷き、少し視線を伏せたあとで、囁くように言った。
「あのさ……司って呼んで。話すときだけいいから」
その声はピアノの弦が微かに震えるように、静寂の中へと溶け込む。俺は声に出さず、胸の中でその名前を繰り返す。
――司。
あの“触れかけた夜”の続きが今、ようやく始まりかけていた。まるでピアノの音のように静かに、だが確かに。