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2-5

***


 リビングのソファに、向かい合って座る。間に置かれたティーカップは、口をつけてもすぐ冷めてしまうほど、熱のやりとりがまだたどたどしい。


 九条さん――いや司が、ひとつ呼吸をおいた。


「昔ね。僕には“音楽しかない”って時期があった。家の事情とかいろいろ……まあ音楽に携わる人間なら、よくある話だけど」


 笑おうとしたその顔に、どこか陰りが差す。俺は黙って耳を傾けた。


「ピアノの前にいれば、音に集中するだけでよかった。誰かにどう思われるか、なにを失うか……そういう雑念が、全部音に溶けていく気がした」

「……はい」

「でもね一度だけ、全部壊れかけたことがあるんだ。大きな演奏会でミスして。それだけならよくあることなんだけど、僕は……そこから立ち直れなかった」


 その言葉に、思わず目を見開く。完璧なピアニスト九条司が、そんな脆い瞬間を持っていたなんて。


「ひとつの音がズレただけで、世界が簡単にぐらついた。僕には“それしかない”と思ってたから。なのにその音さえ、ちゃんと弾けなかった」

「司さん」

「司って呼んで」


 訂正された瞬間、頬が僅かに熱くなる。小さく頷き、声を絞り出す。


「……司」

「うん。ありがとう」


 その小さな“ありがとう”に、確かな痛みと感謝が混じっていた。


「それからは怖かった。コンサートを開くことも、誰かと深く関わるのも、またなにかを失うのも……でも陽は違った」


 司は俺の名前を呼び、嬉しそうに瞳を細めた。


「気づいたら、君に話しかけてた。君が来た夜は、不思議と音が温かかった。よく眠れたんだ」


 その言葉に、胸の奥でなにかが熱を灯す。まるで調律がうまくいったときの、ピアノの弦が震えるような静かな喜び。


「俺はただ、調律をしただけです。でも、もし少しでも司が“音を好きでいられる”手伝いができてるなら、すごく嬉しい」


 司が目を伏せる。そのまま、少し肩を揺らして笑った。その笑みには、どこか切なげな光が宿っていた。


「ねぇ、陽」

「はい」

「――また、来てくれるだろうか?」


 まっすぐな問い。でもそれは、音を確かめるように揺らめいたものだった。


「もちろんです。何度でも来ます」


 俺の言葉に、司の肩がほんの少し緩む。その表情に今まで見えなかった素顔が、静かに滲んだ気がした。


「ありがとう……その言葉、今の僕には、ずるいくらい沁みる」


 司は冷めた紅茶に口をつけて、ほんの少し眉を寄せた。その小さな仕草が、なぜか愛おしく感じる。完璧なピアニストではなく、ただの“司”としてそこにいる彼が。


「俺、おかわり入れてきますね」


 そう言って立ち上がったら、司の指先が俺の袖口を軽く掴む。そっと引き留められたような感覚に足を止めて、袖口を掴む司の指先を見つめた。


「……ごめん。今はもう少しこのままで」


 小さな声。指先だけの僅かな接触なのに、そのぬくもりが胸の奥にじんわりと広がる。


“このままで”――たったそれだけの言葉が、どれほどの勇気を必要としたのか、俺にはなんとなくわかった。


「わかりました」


 ゆっくりとソファに腰を戻し、そっと微笑む。その小さな繋がりを手放したくないように、司の指はまだ袖口を離さない。


 窓の外では、夕暮れが始まっていた。茜色の光がカーテン越しに部屋を染め、穏やかだが確かに変化を告げる時間帯だった。


「ねぇ陽って、恋人とかいる?」


 不意に問われて、思わず少し身じろぎする。


「いませんよ。今は仕事が恋人って感じです」

「そっか。ちょっと寂しいね」


 司の声には、冗談とも本気ともつかない微かな揺れがあった。だがその瞳は、まるで俺の心の奥を覗き込むようにやわらかく光る。


「でも、今日みたいな日は思います。恋人じゃなくても、誰かが傍にいてくれる時間って、すごく大事だなって」

「それ、僕も最近やっとわかった気がする」


 司はぽつりと呟き、視線をティーカップに落とした。


「君がここにいると、この部屋が……少し、生きてるみたいだ」


 静かに告げられたセリフに、胸が静かに震えた。司の瞳に、過去に閉じ込められていた彼が、ようやく“いま”を感じようとしている。


「ねぇ陽」

「はい」

「もし君の調律が、この部屋に僕を呼び戻してくれてるなら……君は“音”以上の存在かもしれない」


 司の告げたセリフ――それはピアノの低音のように深く、温かみのある言葉で耳に届いた。胸の奥で、熱と痛みが混ざり合う。


「――じゃあ、もっと呼び戻せるように頑張らないとですね」

「ふふ、よろしく頼むよ」


 司が初めて心から笑った。目の前にある冷めた紅茶でさえ、今は特別な時間を肯っている。まるでふたりの間に、ようやく同じ温度の“いま”が満ち始めた気がした。

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