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リビングのソファに、向かい合って座る。間に置かれたティーカップは、口をつけてもすぐ冷めてしまうほど、熱のやりとりがまだたどたどしい。
九条さん――いや司が、ひとつ呼吸をおいた。
「昔ね。僕には“音楽しかない”って時期があった。家の事情とかいろいろ……まあ音楽に携わる人間なら、よくある話だけど」
笑おうとしたその顔に、どこか陰りが差す。俺は黙って耳を傾けた。
「ピアノの前にいれば、音に集中するだけでよかった。誰かにどう思われるか、なにを失うか……そういう雑念が、全部音に溶けていく気がした」
「……はい」
「でもね一度だけ、全部壊れかけたことがあるんだ。大きな演奏会でミスして。それだけならよくあることなんだけど、僕は……そこから立ち直れなかった」
その言葉に、思わず目を見開く。完璧なピアニスト九条司が、そんな脆い瞬間を持っていたなんて。
「ひとつの音がズレただけで、世界が簡単にぐらついた。僕には“それしかない”と思ってたから。なのにその音さえ、ちゃんと弾けなかった」
「司さん」
「司って呼んで」
訂正された瞬間、頬が僅かに熱くなる。小さく頷き、声を絞り出す。
「……司」
「うん。ありがとう」
その小さな“ありがとう”に、確かな痛みと感謝が混じっていた。
「それからは怖かった。コンサートを開くことも、誰かと深く関わるのも、またなにかを失うのも……でも陽は違った」
司は俺の名前を呼び、嬉しそうに瞳を細めた。
「気づいたら、君に話しかけてた。君が来た夜は、不思議と音が温かかった。よく眠れたんだ」
その言葉に、胸の奥でなにかが熱を灯す。まるで調律がうまくいったときの、ピアノの弦が震えるような静かな喜び。
「俺はただ、調律をしただけです。でも、もし少しでも司が“音を好きでいられる”手伝いができてるなら、すごく嬉しい」
司が目を伏せる。そのまま、少し肩を揺らして笑った。その笑みには、どこか切なげな光が宿っていた。
「ねぇ、陽」
「はい」
「――また、来てくれるだろうか?」
まっすぐな問い。でもそれは、音を確かめるように揺らめいたものだった。
「もちろんです。何度でも来ます」
俺の言葉に、司の肩がほんの少し緩む。その表情に今まで見えなかった素顔が、静かに滲んだ気がした。
「ありがとう……その言葉、今の僕には、ずるいくらい沁みる」
司は冷めた紅茶に口をつけて、ほんの少し眉を寄せた。その小さな仕草が、なぜか愛おしく感じる。完璧なピアニストではなく、ただの“司”としてそこにいる彼が。
「俺、おかわり入れてきますね」
そう言って立ち上がったら、司の指先が俺の袖口を軽く掴む。そっと引き留められたような感覚に足を止めて、袖口を掴む司の指先を見つめた。
「……ごめん。今はもう少しこのままで」
小さな声。指先だけの僅かな接触なのに、そのぬくもりが胸の奥にじんわりと広がる。
“このままで”――たったそれだけの言葉が、どれほどの勇気を必要としたのか、俺にはなんとなくわかった。
「わかりました」
ゆっくりとソファに腰を戻し、そっと微笑む。その小さな繋がりを手放したくないように、司の指はまだ袖口を離さない。
窓の外では、夕暮れが始まっていた。茜色の光がカーテン越しに部屋を染め、穏やかだが確かに変化を告げる時間帯だった。
「ねぇ陽って、恋人とかいる?」
不意に問われて、思わず少し身じろぎする。
「いませんよ。今は仕事が恋人って感じです」
「そっか。ちょっと寂しいね」
司の声には、冗談とも本気ともつかない微かな揺れがあった。だがその瞳は、まるで俺の心の奥を覗き込むようにやわらかく光る。
「でも、今日みたいな日は思います。恋人じゃなくても、誰かが傍にいてくれる時間って、すごく大事だなって」
「それ、僕も最近やっとわかった気がする」
司はぽつりと呟き、視線をティーカップに落とした。
「君がここにいると、この部屋が……少し、生きてるみたいだ」
静かに告げられたセリフに、胸が静かに震えた。司の瞳に、過去に閉じ込められていた彼が、ようやく“いま”を感じようとしている。
「ねぇ陽」
「はい」
「もし君の調律が、この部屋に僕を呼び戻してくれてるなら……君は“音”以上の存在かもしれない」
司の告げたセリフ――それはピアノの低音のように深く、温かみのある言葉で耳に届いた。胸の奥で、熱と痛みが混ざり合う。
「――じゃあ、もっと呼び戻せるように頑張らないとですね」
「ふふ、よろしく頼むよ」
司が初めて心から笑った。目の前にある冷めた紅茶でさえ、今は特別な時間を肯っている。まるでふたりの間に、ようやく同じ温度の“いま”が満ち始めた気がした。