なんだかイヤな予感がした夜、俺は指先に小さな震えを抱えながら、再び九条邸の門をくぐった。
最後にここを訪れた日から、ほんの数日しか経っていないはずなのに、ずいぶん遠い場所に来てしまったような気がした。
あの日、司の言葉に何度も胸を打たれて、部屋を出る頃には足元がふわふわしていた。それは温かいものに触れたあとの、名残のような浮遊感。だからこそこの扉を、また自分から叩いていいのか。それを決めるまでには、少しだけ時間が必要だった。
呼び鈴を鳴らすと、穏やかな笑顔の管理人・吉岡さんが応対してくれた。彼女はカーディガンを羽織っていて、手には掃除道具を持っている。きっと日課の途中だったのだろう。
「おや芹沢さん。いらっしゃい」
「あの、突然すみません……司さんは、ご在宅ですか?」
吉岡さんは一瞬だけ目を細め、それから小さく頷いた。
「ええ、いますよ。コンサート前なのに、今日はいつになく落ち着いていらっしゃるように見えました。朝から、ピアノの部屋にいらしてました」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「よかった……」
「お通ししましょうか?」
「はい、お願いします」
重厚な扉の向こう、静かな空気が広がっている。どこかで時計の針が小さく刻む音だけが響く、そんな静けさだった。廊下を抜け、吉岡さんが立ち止まったのは、グランドピアノの置かれた防音室の前だった。
「こちらに。ピアノの前にいらっしゃいます」
ピアノの前に。その言葉が、胸の中で反響する。
あの夜、暖炉の前で微睡んでいた彼の姿が、一瞬だけ脳裏を掠めた――ただそれだけのことで、胸が熱くなる。
思いきってドアを開けると、譜面を前に腰かける司の姿があった。背筋を伸ばし、静かに座っている。だが、指は鍵盤に触れていない。ただじっと、譜面に視線を落としていた。
少し伸びた髪が横顔にかかり、その輪郭は前よりもやわらかく、壊れそうに儚い印象に映った。
「……司」
名前を呼ぶと、彼はゆっくりと振り返る。目が合った瞬間、司の瞳がほんの一瞬、驚きに揺れる――そして、すぐに安堵の色が広がった。言葉を交わさずとも、確かに伝わる表情だった。
「陽……来てくれたんだ」
その声は、喜びに満ち溢れるピアノの高音のように軽やかに聞こえたことで、俺は自然と微笑む。
「はい。また、調律に来ました」
司の口元に、ごく小さな笑みが浮かぶ。あの夜に見た、ふっと零れるような笑顔だった。
「ふふ。随分と律儀なんだね、陽は」
「職業柄です。たとえ一音の狂いでも、気づいてしまったら、放っておけないので」
司は瞼を伏せ、その言葉を反芻するように静かになる。そしてゆっくりと立ち上がり、ピアノの蓋に手を添えた。
「ありがとう。ほんとに……来てくれて」
「俺の方こそ。またここに来られて、嬉しいです」
司は視線をピアノに戻し、鍵盤の端をそっと撫でる。そこには、小さな傷が刻まれていた。まるで、彼の心のキズを映すように。
「今日、少しだけ音を鳴らしてみたんだ。でも……」
彼の声に、微かな苦さが混じる。
「どうしても手が震える。前よりはだいぶましだけど……やっぱり、怖いなって思う瞬間があってね」
その告白に、胸が締めつけられる。完璧なピアニスト、九条司の脆い一面を、俺だけが見ている気がした。
「だったら今日は、無理に弾かなくてもいい。ピアノの蓋も、無理に開けなくていいですよ」
司がこちらを見つめる。瞳に驚きと、どこか安堵の光が宿る。
「……じゃあ、なにをするんだい?」
「なにもせずに、ふたりで過ごす。それだけです」
司はぽつりと呟く。
「それだけ、か――」
その声には、まるで鍵盤がそっと鳴るような安堵が滲んでいた。彼はピアノの椅子から離れ、俺の傍に歩み寄る。サンダルウッドの香りが一瞬濃くなり、心臓が小さく跳ねる。
その音は静かに調律された和音のように、ふたりの間に新しい夜を告げた。