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第三章:一歩踏み出す夜

3-1

 なんだかイヤな予感がした夜、俺は指先に小さな震えを抱えながら、再び九条邸の門をくぐった。


 最後にここを訪れた日から、ほんの数日しか経っていないはずなのに、ずいぶん遠い場所に来てしまったような気がした。


 あの日、司の言葉に何度も胸を打たれて、部屋を出る頃には足元がふわふわしていた。それは温かいものに触れたあとの、名残のような浮遊感。だからこそこの扉を、また自分から叩いていいのか。それを決めるまでには、少しだけ時間が必要だった。


 呼び鈴を鳴らすと、穏やかな笑顔の管理人・吉岡さんが応対してくれた。彼女はカーディガンを羽織っていて、手には掃除道具を持っている。きっと日課の途中だったのだろう。


「おや芹沢さん。いらっしゃい」

「あの、突然すみません……司さんは、ご在宅ですか?」


 吉岡さんは一瞬だけ目を細め、それから小さく頷いた。


「ええ、いますよ。コンサート前なのに、今日はいつになく落ち着いていらっしゃるように見えました。朝から、ピアノの部屋にいらしてました」


 その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。


「よかった……」

「お通ししましょうか?」

「はい、お願いします」


 重厚な扉の向こう、静かな空気が広がっている。どこかで時計の針が小さく刻む音だけが響く、そんな静けさだった。廊下を抜け、吉岡さんが立ち止まったのは、グランドピアノの置かれた防音室の前だった。


「こちらに。ピアノの前にいらっしゃいます」


 ピアノの前に。その言葉が、胸の中で反響する。


 あの夜、暖炉の前で微睡んでいた彼の姿が、一瞬だけ脳裏を掠めた――ただそれだけのことで、胸が熱くなる。


 思いきってドアを開けると、譜面を前に腰かける司の姿があった。背筋を伸ばし、静かに座っている。だが、指は鍵盤に触れていない。ただじっと、譜面に視線を落としていた。


 少し伸びた髪が横顔にかかり、その輪郭は前よりもやわらかく、壊れそうに儚い印象に映った。


「……司」


 名前を呼ぶと、彼はゆっくりと振り返る。目が合った瞬間、司の瞳がほんの一瞬、驚きに揺れる――そして、すぐに安堵の色が広がった。言葉を交わさずとも、確かに伝わる表情だった。


「陽……来てくれたんだ」


 その声は、喜びに満ち溢れるピアノの高音のように軽やかに聞こえたことで、俺は自然と微笑む。


「はい。また、調律に来ました」


 司の口元に、ごく小さな笑みが浮かぶ。あの夜に見た、ふっと零れるような笑顔だった。


「ふふ。随分と律儀なんだね、陽は」

「職業柄です。たとえ一音の狂いでも、気づいてしまったら、放っておけないので」


 司は瞼を伏せ、その言葉を反芻するように静かになる。そしてゆっくりと立ち上がり、ピアノの蓋に手を添えた。


「ありがとう。ほんとに……来てくれて」

「俺の方こそ。またここに来られて、嬉しいです」


 司は視線をピアノに戻し、鍵盤の端をそっと撫でる。そこには、小さな傷が刻まれていた。まるで、彼の心のキズを映すように。


「今日、少しだけ音を鳴らしてみたんだ。でも……」


 彼の声に、微かな苦さが混じる。


「どうしても手が震える。前よりはだいぶましだけど……やっぱり、怖いなって思う瞬間があってね」


 その告白に、胸が締めつけられる。完璧なピアニスト、九条司の脆い一面を、俺だけが見ている気がした。


「だったら今日は、無理に弾かなくてもいい。ピアノの蓋も、無理に開けなくていいですよ」


 司がこちらを見つめる。瞳に驚きと、どこか安堵の光が宿る。



「……じゃあ、なにをするんだい?」

「なにもせずに、ふたりで過ごす。それだけです」


 司はぽつりと呟く。


「それだけ、か――」


 その声には、まるで鍵盤がそっと鳴るような安堵が滲んでいた。彼はピアノの椅子から離れ、俺の傍に歩み寄る。サンダルウッドの香りが一瞬濃くなり、心臓が小さく跳ねる。


 その音は静かに調律された和音のように、ふたりの間に新しい夜を告げた。


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