***
場所をリビングに移すと、窓の向こう側は夜の帳がすっかり降りていた。カップに注がれた紅茶の香りが、部屋の静けさにまったりと溶け込んでいく。
間接照明が柔らかく灯る空間で、俺たちは再び向かい合う。ティーカップがひとつ、ふたつと音を立てるたびに、夜が少しずつ深くなった。
「なんだか、不思議な感じがするな」
司が切なげに笑う。サンダルウッドの香りが、彼の動きに合わせて微かに揺れた。
「なにがですか?」
「他人がこんなに傍にいることが、心地いいって思えるなんて」
彼の声はしっとりと低く、まるでピアノの弦が震えて響くように耳に聞こえた。
「前の僕なら、絶対にあり得なかった。コンサート前ならなおさら……」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温まる。
「それ、ちょっとだけ嬉しいです」
「ちょっとだけ?」
司の瞳が、いたずらっぽく細まる。
「……いや、だいぶ」
肩を揺すって笑ったら、司もそれに倣うようにカラカラ笑う。照明の陰影が彼の頬に静かに落ち、カーテンの隙間から覗く三日月が、その輪郭をほのかになぞる。その笑顔はこれまで見たどの瞬間よりもやわらかく、どこか壊れそうに儚かった。
「ねぇ、陽」
「はい」
「君の調律は、すごく丁寧だ。音に対しても人に対しても」
ドキッとするような言葉――でも嫌じゃない。
「……そんなふうに言ってもらえるなんて、光栄です」
「だからひとつだけ、お願いしてもいいだろうか?」
司からのお願いに、小さな高鳴りがひとつ。これは期待か、それとも戸惑いか。けれど彼の声に、その答えを委ねたいと思った。
「はい」
司は、すっと立ち上がった。そして窓辺へ向かう。カーテンを少しだけ開けた先、夜の空に浮かぶ三日月の光が淡く揺れる。まるで、司の心の揺れを映すように。その横顔は完璧なピアニストの仮面を脱ぎ、ただの“司”としてそこにあった。
「今夜は少しだけ……音のないまま、君と呼吸だけを合わせてみたい」
それはピアニスト・九条司にとって、“音”に依存してきた日々への小さな逆行だった。でも同時に“誰かと共に沈黙を分け合う”という、大きな一歩にも繋がる。
「わかりました」
俺は静かに頷いた。
「ありがとう、陽」
彼は囁くように言う。
この夜の静けさが、彼にとって“キズ”ではなく“始まり”になるように。そんな祈るような気持ちを、黙ったまま伝えた。
音はなくても、今は“呼吸の調律”だけで充分だった。