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3-2

***


 場所をリビングに移すと、窓の向こう側は夜の帳がすっかり降りていた。カップに注がれた紅茶の香りが、部屋の静けさにまったりと溶け込んでいく。


 間接照明が柔らかく灯る空間で、俺たちは再び向かい合う。ティーカップがひとつ、ふたつと音を立てるたびに、夜が少しずつ深くなった。


「なんだか、不思議な感じがするな」


 司が切なげに笑う。サンダルウッドの香りが、彼の動きに合わせて微かに揺れた。


「なにがですか?」

「他人がこんなに傍にいることが、心地いいって思えるなんて」


 彼の声はしっとりと低く、まるでピアノの弦が震えて響くように耳に聞こえた。


「前の僕なら、絶対にあり得なかった。コンサート前ならなおさら……」


 その言葉に、胸の奥がじんわりと温まる。


「それ、ちょっとだけ嬉しいです」

「ちょっとだけ?」


 司の瞳が、いたずらっぽく細まる。


「……いや、だいぶ」


 肩を揺すって笑ったら、司もそれに倣うようにカラカラ笑う。照明の陰影が彼の頬に静かに落ち、カーテンの隙間から覗く三日月が、その輪郭をほのかになぞる。その笑顔はこれまで見たどの瞬間よりもやわらかく、どこか壊れそうに儚かった。


「ねぇ、陽」

「はい」

「君の調律は、すごく丁寧だ。音に対しても人に対しても」


 ドキッとするような言葉――でも嫌じゃない。


「……そんなふうに言ってもらえるなんて、光栄です」

「だからひとつだけ、お願いしてもいいだろうか?」


 司からのお願いに、小さな高鳴りがひとつ。これは期待か、それとも戸惑いか。けれど彼の声に、その答えを委ねたいと思った。


「はい」


 司は、すっと立ち上がった。そして窓辺へ向かう。カーテンを少しだけ開けた先、夜の空に浮かぶ三日月の光が淡く揺れる。まるで、司の心の揺れを映すように。その横顔は完璧なピアニストの仮面を脱ぎ、ただの“司”としてそこにあった。


「今夜は少しだけ……音のないまま、君と呼吸だけを合わせてみたい」


 それはピアニスト・九条司にとって、“音”に依存してきた日々への小さな逆行だった。でも同時に“誰かと共に沈黙を分け合う”という、大きな一歩にも繋がる。


「わかりました」


 俺は静かに頷いた。


「ありがとう、陽」


 彼は囁くように言う。


 この夜の静けさが、彼にとって“キズ”ではなく“始まり”になるように。そんな祈るような気持ちを、黙ったまま伝えた。


 音はなくても、今は“呼吸の調律”だけで充分だった。

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