夜の気配がすっかり部屋に馴染んだ頃、リビングに灯る明かりがほんの少しだけ落とされた。カップの中の紅茶は空になっていて、それでもふたりの間には、沈黙が心地よく続く。
そんな中、神妙な面持ちの司が口を開いた。
「あのさ陽」
「はい」
「音のない時間を過ごしてみたいって言ったのに……なぜだか急に、音が恋しくなった。少しだけ弾いてもいいだろうか?」
その問いに、迷いが頭の中を過った。でもすぐに頷く。
「もちろんです」
彼が音を求めるなら、そうしてあげたほうがいいと判断する。
司は静かに立ち上がった。その動きは、まるで自分の鼓動を確かめるようにやけに慎重で、すごく丁寧だった。俺もそれに合わせて立ち上がる。
さっきまで司と呼吸を合わせていたので、動きを合わせることが自然にできた。
リビングからピアノのある部屋へと移動する間、ふたりの足音だけが木の床に微かに響いた。見慣れた漆黒のグランドピアノは、まるで何年も息を潜めていたかのように、静かにそこに佇む。
「……まともな演奏、久しぶりだな」
司が鍵盤の蓋に手をかけ、そっと開ける。中に並んだ黒と白の鍵盤が、月明かりを受けてほんのり光って見えた。
俺が見守る中、司は椅子に腰を下ろし、少しだけ背を丸めるように前屈みになる。指先が鍵盤の上に浮かんだまま、ピタリと止まって動かない。どうやら、すぐには降りてこないらしい。
俺はそっとピアノの隣にしゃがみ、彼の指先を見つめる。そして、静かに声をかけた。
「……音は逃げたりしません。司が帰ってくるのを、ずっと待ってましたよ」
司の肩が、ピクリと震えた気がした。でも次の瞬間、その指先がようやく、鍵盤に恐るおそる触れる。
ポーン♪
右手の人差し指が奏でる一音……ただ一音だけ、空間に響いた。それは決して強くはない。むしろ曖昧で、揺らいだ音だった。
でもその一音が、この部屋に“いま”を連れてきた。
司が瞳を閉じて、ゆっくりと深く息を吸う。そして、二音、三音と続けるように鍵盤をなぞり始めた。
旋律にはほど遠い、形にもならない音の断片。それでも確かにそこには、“戻ろうとしている人の音”があった。
俺はただ黙って寄り添うように、その音に耳を傾ける。失敗を恐れている彼が、また音と向き合おうとしていること。その震えを知っているからこそ、なにひとつ急かさず、ただ静かに、調律師として隣にいた。
「……ごめん。まだ、全然弾けなくて」
ぽつりと司が言った。でもその声には自己嫌悪ではなく、ほんの少しの“照れ”が混じった。
「いい音でした。正直、今日仕事で聞いたピアノの音で、いちばん響いた音です」
「それ……本当だろうか?」
「はい。ちゃんと届いてました」
俺が告げた直後に、何度も目を瞬かせた司が視線を注ぐ。長い睫毛の奥の瞳が、すこし潤んでいるように見えた。
「君の調律が……僕の音を呼び戻してくれたのだろうか」
そんなふうに言われたのは、初めてだった。胸の奥に、静かに染みるような熱が広がっていく。
「いいえ。司が、自分の手で戻ってきたんです。俺はなにもせずにこうして、隣にいただけですから」
ピアノの鍵盤に置かれていた司の手が、そっと俺の手の上に重なる。
「……でも、その“隣にいてくれた”ってことが、今の僕にはいちばん大きい」
静かな夜だった。ふたりの間に交わされた言葉と音は、確かに“響き”を持っていた。
やがて司が、もう一度だけ鍵盤に指を落とす。それはたった五音の簡単なフレーズだったけれど、確かに“旋律”になっていた。
その小さな旋律の余韻が部屋に溶けたとき、俺たちはふたりで、そっと目を合わせて笑った。
夜がさらに深まっていく。でもその夜は、決して暗くはない――ようやく、“ふたりだけの調律”が始まった夜だった。