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4-2

***


 司の弾いたピアノの音が、静かに夜の空気に溶けていく。旋律の最後の余韻が消えた後、室内には再び静寂が戻ってきた。


 けれど、その静けさは少しも重くはない。むしろ心地よく、深呼吸がひとつ自然に漏れたほどだった。


「……弾いてよかった」


 司がぽつりと呟いた。まるで自分に言い聞かせるような小さな声。けれどその表情は、リビングにいたときよりも穏やかだった。


「はい……俺も、聴けてよかったです」


 そう返すと、司は喜びを頬に滲ませた。


「ねえ、今日はもう少しだけ……ここにいてくれるだろうか?」


 その声があまりにも嬉しそうで、俺は思わず頷いてしまった。


「はい。もちろんです」


 ふたりで再びリビングへ戻ると、テーブルには空っぽのカップがふたつ並んでいるのみ。


 けれど、あえて淹れ直さずにソファに並んで座る。それは“この時間を引き延ばしたい”という、無言の共犯だった。テレビもつけず、照明は落としたまま。隣に感じるぬくもりが、ただ静かにそこにあった。


「ねえ陽。君はいつも、こんなふうに優しいのかい?」

「……優しい、ですか?」

「うん。さっきの音を聴いても一切責めずに、否定せずに……ただ“届いてた”って言ってくれた」


 俺は少しだけ口元を緩めて、視線を前に向けた。


「調律って不思議なんです。音を直す仕事だけど、正解があるわけじゃなくて。人の心とか今日の空気とか、その日そのときの音を探す曖昧な感覚で……だからきっと俺は音に対しても、人に対しても、ちゃんと“聴こう”としてるのかもしれません」

「……なるほど。君らしいな、それ」


 司がソファの背にもたれながら、視線をこちらに向けた。気づけば俺も、ゆっくりと彼のほうを向く。距離はほんの数十センチ。けれどその近さが、今夜はやけに静かに胸を打つ。


「……ごめん、もう少しだけ」


 司が言うと、彼の手がそっと俺の指先に触れた。それはまるで、さっきまでの鍵盤の延長のような、やわらかで遠慮がちな接触だった。


 その温度は確かで、俺の心にあたたかで静かな灯をともす。言葉は交わさない。ただその手を受け取るように、俺もそっと指を返した。


 それは握るでも、撫でるでもなく、ただ“重ねる”という行為だった。けれどその重なりから伝わる体温と、微かに吸い込まれる呼吸の気配が、どんな言葉よりも強く、互いの胸に染み込んでいく。


(きっと司が触れるピアノの鍵盤も、こんな感じを受けているんだろうな)


 同じ時間を同じ空気を、同じ温度で過ごしたいという、たったひとつの気持ち。


 カーテンの隙間から、月の光が差し込んでいた。冷たさではなく、静けさを運ぶような、とても優しい光だった。その光の中、ふたりの影が重なっていく。過去の痛みも、沈黙も、不安も。それらすべてが、今この夜に“共鳴”する。


 そして俺は、心の中で小さく思った。


 ――この人の音に、もっと触れていたい。


 言葉はもういらなかった。ソファに並んで座るまま、重ねられた指先はずっとそこにあって、ただそれだけでお互いの存在が確かめられた。


 時間が経つたびに窓の外では、街の灯がぽつりぽつりと減っていく。もう深夜に近い時間。けれど、どちらも「帰る」という言葉を選ばなかった。


「……ねえ」


 司が小さく声を漏らす。静寂に溶けるようなトーンだったが、はっきりと俺の耳に届いた。


「考えたんだ。今夜みたいな夜が、いつか夢だったように思える日が来るのかなって」

「……夢、ですか」

「そう。こうして指を重ねたことも、笑ったことも、音を聴いてくれたことも全部。もしかしたら、僕がひとりで作った幻想だったんじゃないかって……目が覚めたら全部、なかったことになってるんじゃないかと思ったら、すごく怖くなる」


 その声は、震えてはいなかった。ただ、少しだけ濡れている感じ。だから俺は言葉よりも先に、重ねた指に少しだけ力を込めてあげる。


「夢じゃないです。だって俺も、こうして――」


 俺はそっと、彼の手の甲に指先を滑らせるように触れた。


「……ここにいます」


 司がゆっくりとこちらを見る。その瞳は、深い夜の色を滲ませた。


「陽は……どうして、こんな僕と向き合ってくれるんだい?」

「自分でもよくわからないんです。でも……“会いたいな”って、自然に思える人って、そう多くない。司はそのひとりでした」


 司が、息をひとつだけ吸う。そして、花が咲くようにふわりと微笑んだ。


「陽、そろそろ眠くない?」

「……まあ、少し」

「今日は、このままここにいてもいいよ。泊まっていって」


 その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。でもそこには色気や衝動はなくて、ただ“今夜が終わらないでほしい”という想いと、“近づきたい”という想いの、ちょうど間にある提案――そんなふうに思えた。


「じゃあ、甘えさせてもらいます」

「うん。ベッドは……ひとつしかないけどね」


 そのセリフに、少しだけ沈黙が落ちる。けれどその沈黙を、どちらも無理には壊さなかった。


「大丈夫です。俺、すぐに寝ますから」

「そっか。じゃあ、毛布だけ持ってくる」


 司の背中を目で追いながら、胸の奥に灯った小さな熱が、じわりと広がっていくのを感じた。


 この夜が眠りに変わるには、まだ――ほんの少しだけ早い気がする。

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