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司の弾いたピアノの音が、静かに夜の空気に溶けていく。旋律の最後の余韻が消えた後、室内には再び静寂が戻ってきた。
けれど、その静けさは少しも重くはない。むしろ心地よく、深呼吸がひとつ自然に漏れたほどだった。
「……弾いてよかった」
司がぽつりと呟いた。まるで自分に言い聞かせるような小さな声。けれどその表情は、リビングにいたときよりも穏やかだった。
「はい……俺も、聴けてよかったです」
そう返すと、司は喜びを頬に滲ませた。
「ねえ、今日はもう少しだけ……ここにいてくれるだろうか?」
その声があまりにも嬉しそうで、俺は思わず頷いてしまった。
「はい。もちろんです」
ふたりで再びリビングへ戻ると、テーブルには空っぽのカップがふたつ並んでいるのみ。
けれど、あえて淹れ直さずにソファに並んで座る。それは“この時間を引き延ばしたい”という、無言の共犯だった。テレビもつけず、照明は落としたまま。隣に感じるぬくもりが、ただ静かにそこにあった。
「ねえ陽。君はいつも、こんなふうに優しいのかい?」
「……優しい、ですか?」
「うん。さっきの音を聴いても一切責めずに、否定せずに……ただ“届いてた”って言ってくれた」
俺は少しだけ口元を緩めて、視線を前に向けた。
「調律って不思議なんです。音を直す仕事だけど、正解があるわけじゃなくて。人の心とか今日の空気とか、その日そのときの音を探す曖昧な感覚で……だからきっと俺は音に対しても、人に対しても、ちゃんと“聴こう”としてるのかもしれません」
「……なるほど。君らしいな、それ」
司がソファの背にもたれながら、視線をこちらに向けた。気づけば俺も、ゆっくりと彼のほうを向く。距離はほんの数十センチ。けれどその近さが、今夜はやけに静かに胸を打つ。
「……ごめん、もう少しだけ」
司が言うと、彼の手がそっと俺の指先に触れた。それはまるで、さっきまでの鍵盤の延長のような、やわらかで遠慮がちな接触だった。
その温度は確かで、俺の心にあたたかで静かな灯をともす。言葉は交わさない。ただその手を受け取るように、俺もそっと指を返した。
それは握るでも、撫でるでもなく、ただ“重ねる”という行為だった。けれどその重なりから伝わる体温と、微かに吸い込まれる呼吸の気配が、どんな言葉よりも強く、互いの胸に染み込んでいく。
(きっと司が触れるピアノの鍵盤も、こんな感じを受けているんだろうな)
同じ時間を同じ空気を、同じ温度で過ごしたいという、たったひとつの気持ち。
カーテンの隙間から、月の光が差し込んでいた。冷たさではなく、静けさを運ぶような、とても優しい光だった。その光の中、ふたりの影が重なっていく。過去の痛みも、沈黙も、不安も。それらすべてが、今この夜に“共鳴”する。
そして俺は、心の中で小さく思った。
――この人の音に、もっと触れていたい。
言葉はもういらなかった。ソファに並んで座るまま、重ねられた指先はずっとそこにあって、ただそれだけでお互いの存在が確かめられた。
時間が経つたびに窓の外では、街の灯がぽつりぽつりと減っていく。もう深夜に近い時間。けれど、どちらも「帰る」という言葉を選ばなかった。
「……ねえ」
司が小さく声を漏らす。静寂に溶けるようなトーンだったが、はっきりと俺の耳に届いた。
「考えたんだ。今夜みたいな夜が、いつか夢だったように思える日が来るのかなって」
「……夢、ですか」
「そう。こうして指を重ねたことも、笑ったことも、音を聴いてくれたことも全部。もしかしたら、僕がひとりで作った幻想だったんじゃないかって……目が覚めたら全部、なかったことになってるんじゃないかと思ったら、すごく怖くなる」
その声は、震えてはいなかった。ただ、少しだけ濡れている感じ。だから俺は言葉よりも先に、重ねた指に少しだけ力を込めてあげる。
「夢じゃないです。だって俺も、こうして――」
俺はそっと、彼の手の甲に指先を滑らせるように触れた。
「……ここにいます」
司がゆっくりとこちらを見る。その瞳は、深い夜の色を滲ませた。
「陽は……どうして、こんな僕と向き合ってくれるんだい?」
「自分でもよくわからないんです。でも……“会いたいな”って、自然に思える人って、そう多くない。司はそのひとりでした」
司が、息をひとつだけ吸う。そして、花が咲くようにふわりと微笑んだ。
「陽、そろそろ眠くない?」
「……まあ、少し」
「今日は、このままここにいてもいいよ。泊まっていって」
その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。でもそこには色気や衝動はなくて、ただ“今夜が終わらないでほしい”という想いと、“近づきたい”という想いの、ちょうど間にある提案――そんなふうに思えた。
「じゃあ、甘えさせてもらいます」
「うん。ベッドは……ひとつしかないけどね」
そのセリフに、少しだけ沈黙が落ちる。けれどその沈黙を、どちらも無理には壊さなかった。
「大丈夫です。俺、すぐに寝ますから」
「そっか。じゃあ、毛布だけ持ってくる」
司の背中を目で追いながら、胸の奥に灯った小さな熱が、じわりと広がっていくのを感じた。
この夜が眠りに変わるには、まだ――ほんの少しだけ早い気がする。