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エピローグ

 あれから季節は、やわらかな光を纏った春が訪れていた。


 コンサートホールのリハーサル室――窓から差し込む穏やかな陽射しの中で、僕はピアノに対峙する。これから奏でるのは、かつてのような技巧を誇示する音ではない。隣にいる誰かと“言葉を交わす”ような、静けさを纏った旋律を目指す。


「う~ん。少し、低音がこもってきましたね。湿度のせいかも」


 そう言って、陽が静かにピアノに歩み寄る。鍵盤の蓋を開けて内部を覗き込む仕草は、もはや日常のひとコマだった。


「やっぱり君がいると、音が素直になる……まるで、ピアノの方が君に恋してるみたいだ」

「ピアノだけじゃありませんよね。司もでしょう?」


 はしゃぐ陽の声に、自然と笑みが溢れる。それは演奏家としての仮面ではなく、ただの“男”としての素顔だった。


「……確かに。僕はもう逃げない。君のことからも自分の音からも」


 鍵盤に置いた指が、表面を撫でるように軽やかに滑る。どの音にも“芹沢陽”が宿っているように思えた。


 それは、ただの調律なんかじゃなかった。彼の存在が音に体温ぬくもりを灯し、彼の言葉が旋律をやさしく導いてくれた。そして――彼の心が、僕の中の空白をひとつずつ、そっと埋めていった。


 ――君は、僕の心に棲んでる。


 それはもう、逃れられないほど深く。触れ合う必要さえないほど、確かにそこにいる。


***


 その夜、自宅のスタジオで、一冊の楽譜に向き合った。譜面の最上部には、こう記されている。


 「To the one who lives in my heart」――『貴方の心に棲むもの』


 これは九条司が芹沢陽と出逢い、失われた旋律を取り戻し、再び“自分”を生き直した記録だ。音楽では表現しきれなかった、想いのすべてを込めた作品。


 僕の心の奥には、もうひとりの“存在”が確かに棲んでいる。それは沈黙を恐れずに言葉を選び、音に寄り添い、僕のキズを愛おしむように丁寧に調律してくれた人――芹沢陽という、“音よりも確かなもの”


 譜面にペンを走らせながら、そっと呟いた。


「……ねえ陽。次の曲、君に弾いてほしいんだ。僕じゃなくて、君が主役の曲を奏でてくれないか」


 スタジオの扉が開く。


「……そんなこと言ったら、また泣いちゃいますよ」


 陽が笑う。僕も笑い返す。その笑顔にはもう“魔性”などない。ただふたりの心に棲んだ“本物”の音が、静かに響いていた。


 ――貴方の心に棲むもの。それはきっと名もなき旋律。けれど、永遠に消えない音。


𝑒𝑛𝑑

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