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演奏会の夜――すべての拍手が遠ざかり、煌びやかな照明も褪せ、ようやくふたりだけの静かな時間が訪れる。
ホテルの一室。窓の外には都心の夜景が滲み、足元には緊張を脱ぎ捨てたドレスシューズが転がっていた。
並んで座るベッドの上で、司は無言のままグラスを傾けた。酔うためではない。ただ、なにかを“引き延ばしている”ように俺の目に映る。
「司……なんだか、夢みたいですね」
俺の声は、穏やかに揺れていた。心の奥で火照る熱を、どうにか抑えるのに必死になる。
「夢なら、きっと君が見せてくれてるんだと思う」
司はそう呟くと、サイドテーブルにゆっくりとグラスを置き、体をこちらに向けた。その瞳は舞台にいたときよりも真剣なのに、黒目が落ち着きなく動くことで、緊張しているのが伝わった。
「陽、触れても……いい?」
たったそれだけの短い言葉なのに、喉が小さく鳴る。
「……はい」
その瞬間、司の指先がそっと頬をなぞった。鍵盤に触れるときとは違う、不器用で迷いのある動き。けれどその指には熱とやさしさと、決意が宿っている感じがする。
「怖かったんだ。こうしてしまえば、またなにかを壊してしまうかもしれないって。でも今は――」
その言葉の続きを、俺が唇を重ねて奪った。
最初は確かめるように、ゆっくりと。やがて、呼吸を混ぜるほど深くなっていく。キスひとつで、こんなにも感情が溢れるなんて思わなかった。
俺の背に司の腕がまわり、ゆるやかに倒れる。柔らかなベッドの上、体温と衣擦れの音だけが、空間を満たした。
「んっ……君の鼓動、音より速くて、眩暈がしそうだ」
「司の手……こんなに熱かったんですね」
言葉が零れるたび、否応なしに体が震える。シャツのボタンが外され、肌が露わになるたびに、知らなかった感覚が生まれてくる。
手首、鎖骨、腹部……司の指先が俺に触れるたびに熱が芽吹き、心の奥がひどく疼いた。
舌を這わせるようなキス。皮膚を辿る吐息。指先が音符のように、絶妙な力加減で肌の上を撫でていく。
「……僕にだけ、こんな顔を見せて」
耳元に落ちたその声は濡れた鍵盤のように甘く、熱く、俺を逃がさない。
呼吸が合わさり、足が絡み、シーツが静かに乱れた。互いの名を呼び合い、何度も唇を重ねながら、感情がほろほろと溶けていく。
焦らされるように触れられ、やがて包み込まれる。そこに言葉は要らなかった。ただ心と体で音楽を奏でるように、ふたりは重なり合った。
――夜の帳がすべてを包み込む。
それは、ふたりだけの旋律のはじまりだった。
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明け方。薄いカーテンの隙間から、微かな陽の光が差し込む。裸のままベッドに寝転ぶ司は、俺の髪をそっと撫でた。まるで、大切なピアノに触れるように。
「……君が調律してくれたのは音じゃなくて、僕自身だったんだな」
「それでも、ちゃんと音が鳴ってくれたから……俺も嬉しいです」
掠れた声で告げた言葉に司は微笑み、俺の額にそっと口づける。
「これからも、頼っていいだろうか?」
「はい。いつまでも司の音に、俺の耳を預けます」
ふたりの体はもう離れていたけれど、心の鼓動は同じリズムを刻んでいた。