「正しくあれ」と誰もが言った。
ただ、歳を経て「全ての人にとって正しい」は不可能であるとも理解した。
結局父の言うことも、母の言う事も「自分達にとって都合のいい正義」でしかないのだと分かったら、途端に意欲を失った。
誰か、俺に正しい生き方というものを教えてくれ。
◇◆◇
希代の王太子ともてはやされた青年はこの日、誘われるまま社交の場に出ていた。
煌びやかなドレスに仮面を付けた紳士淑女の集まりは、どうしても毒々しく映って仕方が無い。高い声で話す噂話、さりげなくアピールされる家の家格。甘い声は誘うようで、混ざる香水の臭いに吐き気を覚える。
着飾った笑顔の裏で、裏切りと欲望。虚栄、欺瞞、謀略が渦巻いている。
気づけば誘ってきた友人も姿を消していて、彼はそっと会場を出た。
やや、うんざりしている部分はある。ボーイに帰る事を伝えると「馬車を」と言われたが断った。時刻はまだそれ程遅くはない。大きな通りに面した建物だし、今は地味な格好をしている。誰も気づく者はない。
そう思い、青年は着の身着のままにのんびりと歩き出した。
外の空気を一杯に吸い込み、香水の臭いと共に吐き出す。肺が綺麗になる……とまではいかないが、それでも多少はすっきりとした。
辺りは馬車が行き交う。人々は身綺麗なものだ。この区画から目と鼻の先にはその日を生きる事も苦しい人達がいるというのに。
スラムと呼ばれる場所は貴族街の側にある。崩れかけた建物に身寄りの無い物が寄り添って生きる場所だ。痩せて肌色も悪く、目は絶望に淀んで見える。
一度、彼らを助ける為の政策を出した事がある。あそこの住民に食事と職業訓練を与え、真っ当な仕事についてもらおうというものだ。
一蹴され、嘲笑うように「王子はお優しい」と言われたのを覚えている。
正しいが、ますます分からなくなった瞬間だった。
俯いてしまう。ふとその足元に明かりが見えた。
気づいて見ると、そこは小さく粗末な教会であった。
「こんな所に、教会などあったか?」
疑問には思った。だがあるのは貴族街とスラムの中間辺り。確か、昔に廃れて神父のいない教会があったが……誰か派遣されたのかもしれない。
疲れていた。何かに縋りたいとも思っていた。助けて欲しいと、理想と現実の乖離に苦しんでもいた。だから自然と、足はそちらへと向かっていた。
古いが清潔にされた教会はやはり大きくはない。だが明るい蝋燭の明かりが灯り、正面には慈悲深い聖母の像が優しい笑みを浮かべている。
聖光教会の主神は救いの主だが、その主を産み育てた聖母もまた尊い存在として、特に市井で信仰されている。
そしてその像の前には一人の神父がいた。
黒い神父服に白い布を掛けた彼は、美しく長い銀の髪をしている。線は細く見えた。
膝を付き、手を組んで祈る人を見て呆然としていると、ふと気づいたのだろう。身じろぐ様子があり、神父がゆっくりと振り向く。
その、あまりの美貌に青年は息を忘れた。
すっきりと小さな頭、ほっそりとした輪郭。青い瞳はアクアマリンのほうに澄んだ、だが鮮烈な印象を与える。
通る鼻梁、柔らかな曲線の柳眉、薄い唇と、白い肌。
男か女かなど些末な問題だと言わんばかりの至上の芸術が、目の前にあった。
「おや、迷い人が来られていたのですか。気づきませんでした」
「あぁ、いや」
その生ける芸術はこちらを見て柔らかく目を細め微笑む。その様子に魅入られた青年は反射的に返していた。それにも、彼はやんわりと微笑む。
「どうぞ、お掛けになってください。貴族様を招くにはあまりに粗末ですが」
「そんなことは!」
慌てて否定すると、神父はくすくすと笑う。鈴を転がすような軽やかな音で。
「初めまして。私はノアと申します。つい最近、こちらの教会に配属されたばかりなのです」
「あぁ! 初めまして、アーノルド・ルブランティーノだ」
慌ててそう名乗り、一瞬しまったと思う。外では本名を名乗らないようにしていたのに。
だが、ここは神の家だ。神の前で嘘をつくことは罪になるから。そう、己を納得させた。
一方、名乗られた神父は一瞬目を見開き、「ルブランティーノ?」と家名を反芻する。
次には目を細めてこちらを見た。それは何処か見下したような……冷たく刺さるものであった。
「?」
「いえ、失礼をいたしました。貴族の方に名乗られた事など無いもので」
「そう、か」
本当にそうなのだろうか? それにしては冷たいものであったが。
だが今はまったくそのような様子もなくにこやかな様子でいる。気のせい……だろうか。そのように思う事にした。
進められ、簡素な長椅子に腰を下ろしたアーノルドの隣にノアも座る。距離は適切で、不思議と居心地がいい。相手が神父だからだろうか。穏やかな空気を纏う人がやんわりとこちらを眺め、僅かに目尻を下げた。
「何か、悩みがあるのですか?」
「え?」
何故そう思うのか。図星すぎて驚き彼を見ると、ノアは憂い顔をしている。心から案じていると分かる様子に、ささくれた心が癒される思いだ。
「分かりますか?」
「とても、苦しそうな様子です。貴方はもっと晴れやかな笑顔が似合いそうですのに」
そう、眉を下げるのだ。
それ程までに疲れた顔をしていただろうか……いや、していてもおかしくはない。何せ最近は本格的に分からないのだ。自分の思う正しいと、周囲の者の正しいが見えなくなっている。
不意に膝に置いていた手に、ノアの手が触れた。ほっそりと白く長い、綺麗な手が労るように触れたのだ。
ハッとして落としていた顔を上げると、彼は柔らかい笑みを浮かべ一つ頷いた。
「差し支えなければ、話してください。私は神父、神に仕える者です。貴方の心の憂いを聞き、迷いを晴らす一助となる事もまた、私のお役目であり修行です」
「ノア……」
いいのだろうか、こんな情けない迷いを口にしても。呆れられないだろうか。また、シラッとした視線を向けられないだろうか。
「……ノア、正しさとはなんだと思う?」
結局はそう、問いかけるように聞いていた。真っ直ぐに見つめた青い瞳はやや驚きに開かれ、次に悩ましげな顔をする。
「難しい問いです。おそらく、人と同じだけ正しさはあります」
「……世の一般の正しさでもいい」
「それもおそらく、立ち位置によって異なります。この辺りの貧しいものはきっと、飢えず暮らせる事を望み生きる為なら何をしてもよいというのが正しさです。例えそれが犯罪でも、彼らは生きる為にそうせざるを得ないのならば、致し方ない事です」
そう、だろうな。飢えて苦しく路上で死ぬか、店先で食べ物を盗むか。彼らだって生きているのだから、彼らなりの主張があるだろう。それは周囲からは間違いでも、彼らの中では正しいのだ。
「貴方達貴族にとっての正しさであれば、国を思う方向へと舵取りをし、民を殺さず、生かさず管理すること。でしょうか」
ノアのこの言葉に思わず目を見開く。彼は申し訳ない顔をしながらも率直に……そしておそらく周囲の者が言いたいだろう言葉を述べた。
「活気があることは良いが、ありすぎても抑えがきかない。気を遣い金を回しても回収できる見込みがないのなら積極的ではない。与えすぎず、回収を視野に。それが貴族にとっての正しさですよ」
「……そうだな」
分かっていても刺さる。
アーノルドは立ち上がり、ノアに背を向けた。なんとなくこれ以上はここにいづらい。そう感じて、逃げてしまったのだ。