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第2話

 あの後、城に帰り着くと直ぐに寝室へと入りベッドに入った。

 だが、なかなか眠りが訪れる感じがしない。

 目に焼き付いたノアの姿があまりに美しく、その心根は真っ直ぐで穢れない。言いにくいだろう事もしっかりと伝えてくれた。おそらく、悩むアーノルドを思っての事だ。

 頭がパンパンになって眠気がこない事に悩み、だがこの出会いは宝物のようにも思えて興奮している。


 夜は長く、アーノルドを悩ませた。


◇◆◇


 翌日は父に連れられて会議に出席した。


 父王ブライアン・ルブランティーノは厳格な王として支持されている。他国との交渉にも毅然とした態度を示し、国を守ってきた。

 アーノルドの憧れ……だったはずなのだが。


「どうした、アーノルド」

「いえ」


 昨日の会話が尾を引いている。貴族にとっての正しさとは、民に与えすぎず、与えたものに利息をつけて回収すること。そう、ノアは言った。

 これを否定することがアーノルドにはできなかった。おそらくそうなのだろうから。


 だが同時に、人の数だけ正しさがあるとも言った。ならば父は、どうなのか。


「父上」

「ん?」

「父上にとっての正しさとは、なんですか?」


 この質問に父は驚き、少し考えてから口を開いた。


「国を間違った方向へ向かわせない為に、しっかりと舵を取ることだ」

「……民の生活や、貧困に苦しむ者を、どうお思いになりますか?」

「一定の生活が出来ていれば問題ない。貧困の者は職にも就かず罪を犯してその人生きるだけの者だ。考慮に入れる必要はない」


 でも、彼らだって生きたいはずだ。彼らなりに必死なはずだ。そこには、目を向けてはくれないのだろうか。


 尊敬していたはずの父が色褪せた気がする。それからは何一つ、口を開かなかった。


◇◆◇


 七日に一度の安息日。アーノルドは目立たない平民の服装をしてあの教会へと向かった。すると扉は大きく開かれ、控えめな庭からは多くの声が聞こえた。


「?」


 疑問に思い近付いて庭へと回ると、ノアが一人で寸胴を前に、人々に温かなスープを配っていた。


「ノア」

「おや?」


 声を掛けると彼は驚いたように目を丸くする。今日は長い髪を一つに結っている。その為、ほっそりとした項が綺麗に見えてしまっていた。


「っ!」


 それを見た瞬間、ドキリと心臓が音を立てた。少し痛いと感じるくらい激しい鼓動に驚き胸元を握ると、ノアが心配そうに近付いてきた。


「どうかなさいましたか? お加減が」

「いや、大丈夫だ。それよりも炊き出しか? いい匂いだ」


 慌てて否定したが、誤魔化したようになってしまう。笑みもぎこちないアーノルドだが、ノアは苦笑して頷いてくれてホッとした。


「この辺に住んでいる方に、安息日に行っているのです」

「俺も手伝おう」

「え? いえ、そんな!」


 当然の流れで口にしたのだが、ノアは恐縮した様子でいる。首を傾げれば、彼は少し申し訳なさそうな様子だった。


「貴族の貴方にこのような雑事をお願いするなど。知れたら私の首が飛びます」


 こっそり他に聞こえない声で伝えられる。体温を感じる、なんなら息づかいすら触れる距離で伝えられる内容は半分以上入ってこなかった。

 また心臓が、ドキリと音を立てた。


「大丈夫だ! これは個人で……そう、教会への支援だ! 神を信じる者にとって教会への支援は尊き行いだろ?」

「えぇ……そう、ですね」


 突然大きな声で宣言したからか、ノアは驚き……次には苦笑した。そんな様子すらも美しいのは、とても罪な事だと思う。


 庭には周辺のスラムの者達が来ていた。その大半は子供だ。質素な木の器とスプーンを持って並んでいる。


 ノアがスープをよそい、アーノルドは小さなパンを一つ渡す。これだけの、とても質素な食事だ。それでも子供達は輝くような笑顔を見せてくれる。

 何て美しいのだろう。そして、何て申し訳ない思いだろう。たったこれだけの支援すら、貴族は出し渋るのだ。


「皆さん、食べるのは教会の中でどうぞ。椅子もありますからね」


 その声に食べ物を貰った子供達が教会の中へと駆けていく。子供が終わると次は老人、最後に大人が並んだが……あっという間に鍋の底が見えてしまう。


「すみません。もう……」

「……いえ」


 あぶれた数人が虚ろな目をして出て行く。彼らは今日、真っ当に食べる事ができるだろうか。力ない背中を見ながら、そんな事を思ってしまった。


 後片付けをするノアを手伝い、生まれて初めてキッチンへと入った。あまり広くはなく、むしろ簡素。そんな所で忙しく動くノアに近付きたくても上手くできない。邪魔をしてしまうようで。


「本日はありがとうございました」

「え?」

「炊き出し、手伝っていただいて」

「いや」


 こちらに背を向けたまま寸胴を洗う彼の背中を見ている。神父の服のその下は、きっとそんなに肉はないように思う。細いなと、初めて会った時に思ったのだから。


「いつも一人なのか?」


 この問いかけに、彼は僅かに手を止めた後なにげない様子で再び手を動かす。


「ここではこれが初めてですよ」

「そうなのか?」

「赴任して一ヶ月と経っておりません。気づいてお布施をしてくださる方もいますが、皆がそう余裕のある生活をしているわけではないので。今回ようやく、という感じです」


 教会というのはそれ程金に困っているのか? 城にくる大司祭や大司教というのは貴族もかくやという装いをしている。

 ……いや、これもまた見えていなかっただけなのだろう。

 つくづく、都合の悪いものを見ないようにされていたのだな。


「寄付、したい」


 思わずそう呟くと、彼は曲げていた腰を正してこちらを見る。いや、射すくめるというのが正しい目つきだ。厳しく、こちらを拒絶するような。


「同情ならば不要ですよ」

「だが!」

「お気遣いは嬉しいと思います。ですが、貴方のそれはこちらを同情しての事に思えます。あの方々が、下々の者の暮らしを思うのならば、上を変えねば何も変わらない」

「っ!」


 それはほぼ不可能に思える。あの父や、他の多くの臣下を説得する方法は今はない。

 ちっぽけな自分に気づかされる。なんて、惨めなのだろう。


 そうして俯いてしまうと、不意に肩に手が置かれる。弾かれたように見上げ、アーノルドは吸い込まれるようなノアの瞳を見た。


「ですが、貴方の手の空く頃にこうして会いに来て頂けると嬉しく思います。ここはまだ出来たばかり。住民は私一人です。私もまだ未熟な者ですから、一人が長いのは寂しいものです」

「! 是非!」


 それは嬉しい事だ。また会ってくれる。会いにくる口実ができる。彼の話し相手になるために、彼を孤独から救う為に。


 ……いや、救うだなんておこがましい。アーノルドもまた寂しいのだ。理想ばかりを浮かべ、王族らしからぬ事を言うアーノルドを裏で見下す者も多い。あの場所は決して本心を言える場所ではない。


「……いや、俺からお願いしたい。俺も寂しいんだ、あの場所では」

「アーノルド様」

「私が救われたくて、貴方に話を聞いてもらいたい。私の心を、聞いてもらいたい」


 伝えると、ノアはとても優しく微笑んで頷いてくれる。握手した手がとても硬く結ばれているような気がして嬉しい。

 アーノルドはそれだけで、空虚な心の中が柔らかく温かく温もるのを感じた。


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