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ともしび
ともしび
NIWA
文芸・その他純文学
2025年06月18日
公開日
1,823字
完結済
ひきこもりの「僕」の変わらぬ日々。そんなある日、親が死んだ。

第1話

 ◆


 階下から母の咳が聞こえる。


 一時間前から続いているその音は、木造の床板を伝って僕の意識の底まで沈んでいく。


 天井の染みを数えた。


 三十七個。


 先月より二つ増えているのは、雨漏りが進行している証拠だろう。


 この部屋に住んで三十年と四ヶ月と十二日が経過した。


 昨日は十一日で、明日は十三。


 だから今日は十二日だ。


 間違いない。


 ズレてはいない。


 窓の外で雨が降り始め、気圧の変化で左膝が鈍く痛み始めた。


 運動不足による関節の劣化は、年々進行している。


 父は昨日から寝たきりで、母が名前を呼ぶ声が断続的に聞こえてくる。


 返事はない。


 十五歳の春、高校の入学式の朝、新品の制服に袖を通して玄関に立った時のことを思い出す。


 外に出られなかった。


 心拍数が異常に上昇し、手の震えが止まらなくなり、視界が白く霞んでいった。


 父は二時間怒鳴り続け、母は三十分泣き続けた。


 それから僕は、この六畳間から一歩も出ていない。


 段ボールが百二十三個、天井近くまで積み上がっている。


 先週数えた時の正確な数字で、通販の履歴を計算すると総額は約八百万円に達していた。


 両親の貯金を、僕という存在が少しずつ溶かしている。


 母の咳が止まった。


 十七分間の沈黙の後、廊下を歩く足音が聞こえてきた。


 二十代の頃はネットの掲示板に頻繁に書き込み、同じ境遇の人間たちとハンドルネームで呼び合っていた。


 五年で半数が消え、十年で九割が姿を消し、今では誰も残っていない。


 彼らは社会に戻ったのか、それとも別の形で消えたのか、知る術はない。


 三十代になると両親は僕に話しかけることをやめ、食事だけが朝八時と夜六時に部屋の前に置かれるようになった。


 その時間の正確さだけが、僕と外界を繋ぐ唯一の規則性だった。


 四十五歳の現在、推定体重は四十キロ台まで落ち、残っている歯は上が八本、下が十本という有様だ。


 父は七十五歳の元銀行員で、母は七十二歳の専業主婦、近所付き合いは皆無に等しい。


 僕という存在は、戸籍以外のどこにも痕跡を残していない。


 雨音が激しさを増し、劣化した屋根の防水シートが悲鳴を上げているのが分かる。


 水。


 そういえば。


 子供の頃、父と早朝の川に釣りに出かけた記憶がある。


 朝五時に起き、一時間かけて川辺に着き、父は煙草を一箱吸い尽くした。


 煙の匂いで吐き気を催しながら、僕は水面を見つめていた。


 仕事の愚痴を延々と語る父の声を、川の流れる音が消していく。


 あの時からだ、煙草の匂いが嫌いになったのは。


 母の足音が廊下をゆっくりと移動し、秒速〇・三メートル程度という健康な成人の半分以下の速度でドアの前に到達した。


 呼吸音が扉越しに聞こえる。


「食事よ」


 掠れた声が響き、すぐに遠ざかっていく。


 僕は返事をしない。


 三十年間、一度もしたことがない。


 階段を降りる音が、一段ごとに三秒の間隔を置いて響いてくる。


 インターネットの回線は十年前のままで、掲示板に羅列される他人の不幸を眺めても、もはや何も感じない。


 視力は〇・一以下まで低下し、メガネも作れず、歯科にも内科にも行けないまま、身体は確実に朽ちていく。


 夜中の三時十七分に目が覚めた時、家があまりにも静かだった。


 父のいびきも、母の寝返りの音も聞こえない。


 朝八時を過ぎても食事は来ず、十時になっても、正午になっても変化はなかった。


 四十八時間後、僕はようやくドアを開けた。


 一週間以上掃除されていない廊下の埃が舞い上がり、手すりに掴まりながら階段を降りた。


 居間で発見した両親は父が椅子に座ったまま、母が床に倒れた状態で、死後推定二日が経過していた。


 室温が低いため、腐敗はまだ始まっていない。


 救急に連絡するべきだろう。


 いや、警察だろうか。


 両方に連絡すればいいだろうか。


 そうだ、そうしよう。


 ああでも、きちんと説明できるだろうか。


 僕はちゃんとやれるだろうか。


 そんな事を考えながら、僕は二人の間に腰を下ろした。


 ふと父を見ると、胸ポケットからセブンスターの箱が見える。


「でも」


 僕を父のセブンスターを一本抜き取り、口に咥えた。


 ライターで火を灯す。


 煙を吸い込んだ瞬間、肺が激しく拒絶した。


 でも我慢した。


 我慢できれば、と思った。


 でも駄目だった。


 咳き込み、そして涙が滲み。


 煙草が唇から滑り落ちて畳の上に転がった。


 僕は細い煙を上げる煙草を見つめる。


 見つめ続ける。


 僕は吸えなかったのだ。


 やっぱり吸えなかった。


「うふふ」という音が喉の奥から漏れる。


 ライターに火を灯したまま、僕は立ち上がった。


 廊下の向こうに段ボールが積みあがっているはずだった。


(了)

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