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蜜の檻――愛する義姉を奪うため、少年は美しい毒として微笑む
蜜の檻――愛する義姉を奪うため、少年は美しい毒として微笑む
ANAMATIA
BL歴史創作BL
2025年06月18日
公開日
1.3万字
完結済
――時は大正。帝都・東京。 名門・吾桑家に養子として迎えられた少年、吾桑薫―― 透き通るような肌、蒼穹の瞳と稲穂のような黄金の髪、そして美しく整った笑み。 けれどその内側には、決して他人に知られてはならぬ毒が宿っている。 彼が愛するのは、義姉・絹依。 誰よりも優しく、無垢で、残酷なその女性は、薫を"弟"としか見ない。 そして彼女の婚約者――江戸川槍輔。 完璧すぎるその男を、薫はじわじわと、自分なしでは生きられない身体に変えていく。 誰にも気づかせず、誰にも悟らせず、 ただひとりの女のために、全てを狂わせていく―― これは、 愛の名を借りた執着と支配、甘く淫靡で冷酷な計画の物語。 美しい毒に満ちた薫の罠が、今、静かに広がっていく。

【序章】 夏の残像

「か、薫さま……っ! このようなところで――んっ、ふぅ、ぁ……!」

「しーっ。……あまり大きな声を出してはいけないよ」

「んっ、んぅーー! 薫さまぁ……」


 夕暮れ時の教室で、美しい少年と友人がまぐわっている。


 みーん、みーん、と蝉が鳴き続け、蒸し暑い空気が肌にまとわりつく。人気のない教室には、季節外れの椿の甘い香りが、ほのかに漂っていた。窓の外では、夕陽が校舎の影を長く伸ばし、教室に淡い橙色の光を投げかけている。


 それは、ひと夏の夢のような、現実とは思えない光景だった。


(俺は……夢を見てるのか?)


 一度は帰路についたものの、忘れ物に気づいて学校へ戻ってきた太郎は、薄く開いた引き戸の前で立ち尽くしていた。


 瞬きすることさえ忘れ、目の前の光景に釘付けになってしまっているのは、友人のあられもない姿に衝撃を受けたせいなのか――それとも。その光景が、どこか現実離れした美しさを湛えていたからなのか。


 太郎は、自分の中に芽生えた奇妙な高揚感に戸惑っていた。淫靡でありながらも、絵画のように整った薫の姿は、理性よりも本能に訴えかけてくる。


 額を流れ落ちた汗が目に入り、ほんの一瞬、目をつぶった。そして目を開けると、青い瞳と目が合った。雨上がりの空を思わせる澄んだ瞳が、じっと太郎を射抜くように見つめている。


 ――これは偶然ではない。最初から、太郎の存在に気づいていたのだ。


 太郎は、じりっと後ずさった。まるで全力疾走した後のように、心臓がどきどきと早鐘を打つ。――逃げなければ。本能がそう囁く。けれど太郎の両脚は、床に縫い留められたように動かない。いや、動かせなかった。


「――薫さま?」


 初めて耳にする、友人の甘えた声で、ハッと現実へ引き戻される。太郎は踵を返し、その場から逃げだした。背後で、教室の静寂が一瞬だけ、重く響いた。




「……ああ。逃げられてしまった」

「何にですか?」

「うん? かわいらしい猫がいたんだよ」

「それでよそ見をなさっていたのですか? ……妬いてしまいます」

「ごめん、ごめん。……さあ。続きをしようか」


 薫は一瞬、太郎がいた場所を一瞥し、フッと微笑んで少年に覆いかぶさったのだった。その唇には、名残惜しさと狩人の余裕が入り混じっていた。




 ――帝都・東京。


 エリートの少年たちが集う、第一高等中学校には、ひときわ目を引く美貌の少年がいる。その少年の名は、――吾桑薫あそうかおる


 混血児あいのことして、麻生家にて虐げられていた彼は、ある日、吾桑伯爵に見出されて救い出され、養子となった。現在は吾桑家の跡取りとして定められているが、高等中学校に入学するまでの私生活は、いまだ謎に包まれている。


 だが、誰もが感じ取っていた。――薫がただの【美少年】ではない、ということを。




 ――吾桑伯爵邸。


「ただいま戻りました」


 薫が帰宅を告げると、とたとたと軽やかな足音が近づいてくる。頬が思わず緩みそうになるのを、薫は必死にこらえた。なんでもないふうを装って、女中じょちゅうにかばんを預ける。するとちょうど、薫が世界で最も愛する女性が現れた。


「かおくん、おかえりなさい!」


 椿の甘い香りをまとい、柔らかな笑みを浮かべるその女性――艷やかな黒髪が美しい、吾桑絹依きぬえ


「ただいま。姉上」


 薫がそう返すと、絹依はぷくっと頬を膨らませて、不満げな顔をする。


(……かわいい)


 そう思っても、決して顔には出さない。美しく、愛らしい義姉あねに、決して知られてはならない想いを抱いているのだから。


「……かおくんったら、またそんなふうに呼んで……少し前までは『ぬい姉様』って呼んでくだすっていたのに!」


 すると彼女の影から、憎くて仕方がない男。絹依の婚約者の江戸川槍輔そうすけが現れた。


「絹依さん。薫くんはもう十六だ。思春期を迎えた男子というのは、こういうものなのだよ」


 言って、絹依の肩に手を置いた。その瞬間、思わずその手をはねのけそうになるのを、薫は笑顔で押し殺した。


「そんなのじゃありませんよ。……僕ももう十六ですし。そろそろ、義姉あね離れしないとなって思っただけですよ」

「なにをおっしゃっているの、かおくん! わたくしは、いつまでも、かおくんの義姉ですのよ? だから離れようとする必要なんてないの!」


 絹依の悪気のない純粋な言葉に、薫の心は、ズタズタに切り裂かれる。――泣きそうだった。


(……ぬい姉様は、何も知らずに、何も疑わずに、優しく僕を傷つけてくる)


 今すぐ、この場から逃げ出してしまいたかった。


 けれど、その衝動を奥歯で粘膜を咬むことで抑え込んだ。それから、「そうですね。姉上」と、囁くように言うだけで精いっぱいだった。


 薫の完璧な微笑みに騙されて、二人は、笑顔の裏の本心に気づかない。


「……そんなことより、槍輔さん。今日も僕の課題を見てもらえますか?」

「もちろんだよ。私でよければいくらでも」

「もう。かおくんったら、相変わらず真面目なんだから。今、学校から戻ってきたばかりですのに、もうお勉強のお話?」


 そう言いながら、絹依の表情は明るい。それもそのはず。薫が槍輔に課題を見てもらう日は、決まって夕食を共にできるからだ。


 薫の胸が、ズキンと痛む。


 しかし、薫の【計画】の為には、槍輔と親しくならねばならない。


 仲睦まじく笑い合う二人に吐き気を覚えながら、薫は今日も、甘い微笑みを浮かべる。


「よろしくお願いします。槍輔さん」


 言った声に、ほんの少しの甘い毒を滲ませながら、薫は獲物槍輔を狩る瞳を目蓋の裏に隠したのだった。

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