「か、薫さま……っ! このようなところで――んっ、ふぅ、ぁ……!」
「しーっ。……あまり大きな声を出してはいけないよ」
「んっ、んぅーー! 薫さまぁ……」
夕暮れ時の教室で、美しい少年と友人がまぐわっている。
みーん、みーん、と蝉が鳴き続け、蒸し暑い空気が肌にまとわりつく。人気のない教室には、季節外れの椿の甘い香りが、ほのかに漂っていた。窓の外では、夕陽が校舎の影を長く伸ばし、教室に淡い橙色の光を投げかけている。
それは、ひと夏の夢のような、現実とは思えない光景だった。
(俺は……夢を見てるのか?)
一度は帰路についたものの、忘れ物に気づいて学校へ戻ってきた太郎は、薄く開いた引き戸の前で立ち尽くしていた。
瞬きすることさえ忘れ、目の前の光景に釘付けになってしまっているのは、友人のあられもない姿に衝撃を受けたせいなのか――それとも。その光景が、どこか現実離れした美しさを湛えていたからなのか。
太郎は、自分の中に芽生えた奇妙な高揚感に戸惑っていた。淫靡でありながらも、絵画のように整った薫の姿は、理性よりも本能に訴えかけてくる。
額を流れ落ちた汗が目に入り、ほんの一瞬、目をつぶった。そして目を開けると、青い瞳と目が合った。雨上がりの空を思わせる澄んだ瞳が、じっと太郎を射抜くように見つめている。
――これは偶然ではない。最初から、太郎の存在に気づいていたのだ。
太郎は、じりっと後ずさった。まるで全力疾走した後のように、心臓がどきどきと早鐘を打つ。――逃げなければ。本能がそう囁く。けれど太郎の両脚は、床に縫い留められたように動かない。いや、動かせなかった。
「――薫さま?」
初めて耳にする、友人の甘えた声で、ハッと現実へ引き戻される。太郎は踵を返し、その場から逃げだした。背後で、教室の静寂が一瞬だけ、重く響いた。
「……ああ。逃げられてしまった」
「何にですか?」
「うん? かわいらしい猫がいたんだよ」
「それでよそ見をなさっていたのですか? ……妬いてしまいます」
「ごめん、ごめん。……さあ。続きをしようか」
薫は一瞬、太郎がいた場所を一瞥し、フッと微笑んで少年に覆いかぶさったのだった。その唇には、名残惜しさと狩人の余裕が入り混じっていた。
――帝都・東京。
エリートの少年たちが集う、第一高等中学校には、ひときわ目を引く美貌の少年がいる。その少年の名は、――
だが、誰もが感じ取っていた。――薫がただの【美少年】ではない、ということを。
――吾桑伯爵邸。
「ただいま戻りました」
薫が帰宅を告げると、とたとたと軽やかな足音が近づいてくる。頬が思わず緩みそうになるのを、薫は必死にこらえた。なんでもないふうを装って、
「かおくん、おかえりなさい!」
椿の甘い香りを
「ただいま。姉上」
薫がそう返すと、絹依はぷくっと頬を膨らませて、不満げな顔をする。
(……かわいい)
そう思っても、決して顔には出さない。美しく、愛らしい
「……かおくんったら、またそんなふうに呼んで……少し前までは『ぬい姉様』って呼んでくだすっていたのに!」
すると彼女の影から、憎くて仕方がない男。絹依の婚約者の江戸川
「絹依さん。薫くんはもう十六だ。思春期を迎えた男子というのは、こういうものなのだよ」
言って、絹依の肩に手を置いた。その瞬間、思わずその手をはねのけそうになるのを、薫は笑顔で押し殺した。
「そんなのじゃありませんよ。……僕ももう十六ですし。そろそろ、
「なにをおっしゃっているの、かおくん! わたくしは、いつまでも、かおくんの義姉ですのよ? だから離れようとする必要なんてないの!」
絹依の悪気のない純粋な言葉に、薫の心は、ズタズタに切り裂かれる。――泣きそうだった。
(……ぬい姉様は、何も知らずに、何も疑わずに、優しく僕を傷つけてくる)
今すぐ、この場から逃げ出してしまいたかった。
けれど、その衝動を奥歯で粘膜を咬むことで抑え込んだ。それから、「そうですね。姉上」と、囁くように言うだけで精いっぱいだった。
薫の完璧な微笑みに騙されて、二人は、笑顔の裏の本心に気づかない。
「……そんなことより、槍輔さん。今日も僕の課題を見てもらえますか?」
「もちろんだよ。私でよければいくらでも」
「もう。かおくんったら、相変わらず真面目なんだから。今、学校から戻ってきたばかりですのに、もうお勉強のお話?」
そう言いながら、絹依の表情は明るい。それもそのはず。薫が槍輔に課題を見てもらう日は、決まって夕食を共にできるからだ。
薫の胸が、ズキンと痛む。
しかし、薫の【計画】の為には、槍輔と親しくならねばならない。
仲睦まじく笑い合う二人に吐き気を覚えながら、薫は今日も、甘い微笑みを浮かべる。
「よろしくお願いします。槍輔さん」
言った声に、ほんの少しの甘い毒を滲ませながら、薫は