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第一章 静かなる侵略

 夜の帳が降りはじめ、開け放っている窓からは、生ぬるい風が入ってくる。少しでも涼しさを感じられるようにと、絹依が窓辺に吊るしてくれた風鈴が、か細くチリリンと涼し気な音色を奏でた。


「――ここをこうすれば、答えが出るよ」

「あっ、本当だ! さすがですね、槍輔さん。……教え方が、とてもお上手です」


 ――なんて。答えなど、教えてもらわずとも、とうに分かっていた。


 けれど、槍輔の気を引くために、大げさに驚いてみせる。すると槍輔は、照れ笑いを浮かべた後、優しい眼差しを向けてきた。


(ああ。この目を知っている。これは、誰かを慈しむときの眼差しだ)


 ――そう。絹依が薫を見る目と同じ。


 こんなものでは、駄目だ。


 薫が欲しているのは、喉の渇きを訴えるような、切実でいて強烈な愛欲の視線。


 理性では抗えない衝動。理屈など吹き飛ばすほどの、どうしようもない欲情。


(……何故、こうも上手くいかない?)


 学校の生徒や教師は、薫がじっと見つめるだけで、すぐに目の色を変えるというのに。そう思って、はっとする。


 槍輔の婚約者は、薫が愛してやまない、淑女の中の淑女――絹依だ。


(ぬい姉様が相手なら、そう簡単には、僕なんかに見向きもしないか……)


 けれど、それでは駄目なのだ。絹依の目を覚まさせるためには、槍輔も他の男共と同じ、本性を剝き出しにすればすぐにでも地に堕ちるような、畜生にも劣る存在だと証明しなければ。


(その為なら、僕はいくらでも笑って、啼いて、与えてやれる)


 そしてあの温かく、椿の甘い香りがする胸に抱かれて、慰め愛してもらうのだ。


「薫くん?」


 槍輔の訝しげな声で、現実に引き戻される。


「あ……ぼうっとしてしまって……すみません、槍輔さん」

「いや、いいんだよ。こう暑いと、集中力も途切れるさ」


 ――好機だ。そう思った。


 薫は首筋を流れる汗をそのままに、詰襟シャツの第一ボタンに指を掛けた。その仕草さえ、計算された舞台演出のように、なめらかに。そして、ゆっくりと焦らすように、第三ボタンまで外していく。普段は頑なに隠している、透き通るように白い肌と、浮き出た鎖骨を槍輔に見せつける。


 わざとらしくない程度に、はぁと息を吐く。まるで、声にならない熱を、その肌から滲ませるように。


 するとどうだろう。流石の槍輔も、薫の肌に釘付けになった。


(かかった……!)


 薫は、歓喜で頬が緩みそうになるのを堪えて、上目遣いで槍輔を見つめた。――言葉はいらない。ただ、見つめるだけでいい。


 落ちろ。堕ちてしまえ。


 二人の距離が、少しずつ近づいていく。槍輔の熱くて、ごつごつとした手のひらが、薫の滑らかな頬に当てられた。そうしてゆっくりと、お互いの距離が縮まり、唇同士が触れそうになった。――その時。


「かおくん、槍輔さん、お夕飯の支度が整いましてよ」


 と、絹依の軽やかな声が、二人の動きを止めた。


 バッと勢いよく、槍輔が離れていく。その顔は赤く、自分がしようとしていた行為に、気がついている様子だった。


 槍輔は、手の甲で顎下の汗を拭って、「す、すまない」と消え入りそうな声で言った。


 薫はあざとく首を傾げて、なんのことだか分からないといった風を装ってみせる。


 あからさまにホッとして見せた槍輔が、椅子から立ち上がって、扉に向かった。その後ろ姿を冷めた目で見遣り、薫は素早くボタンを止めて襟を正した。


 ――ようやく、手応えを感じた。


 今日はそれだけで満足だと、自分も椅子から立ち上がり、食堂ダイニングへと向かったのだった。





 ――翌朝。


 太郎は学校に行くことを躊躇った。


 しかし、自分にはなんら恥じることなどないのに、何故こうも躊躇しなければならないのか。そう思い、いつもと同じく登校した。


「おう! 太郎、おはよう!」


 昨日、吾桑薫の下で甘く啼いていたのが嘘のように、友人はいつも通りに声をかけてきた。


 けれど、自分は全てを見てしまっている。そして、あの淫靡な空気の残り香が、未だ鼻腔にこびりついている。


「……おはよう」


 覇気のない声で挨拶をして、友人を避けるように、自分の席に座った。すると、しつこく肩を叩かれた。太郎はイライラしながら振り向いて、相手が誰か確認しなかった自分を、殴りたい気持ちでいっぱいだった。


「あ……そう、くん……」

「やあ。おはよう。太郎くん。つかぬことを聞くけれど、今日の放課後は空いているかな?」


 放課後、と呟いて、自分の心臓が痛いほどドキドキしているのを感じた。そして、昨日の放課後に見た、淫靡な光景が脳裏をよぎる。――断らなければ。


 そう頭の中で警鐘が鳴るのに、気づけば「分かりました」と頷いてしまっていた。


「よかった。じゃあ、放課後にこの教室で」


 なんでもないことのように言って、薫は自分の席に戻ってしまう。


(呼び止めないと……! やっぱり無理ですって……!)


 心とは裏腹に、席を立って薫を追いかけることすら出来ない。


 仕方がないか、と諦めたところで、先ほどの友人が恐ろしい形相でこちらを睨んでいるのを見てしまった。途端、背筋がゾクッとする。あんな表情をする男ではなかったはずなのに、一体どうしてしまったというのか。


(さっきは、挨拶してくれたじゃないか!)


 これが、薫に狂わされたせいだというのなら、自分はどうすればいい? それとも、自分もいずれ、あの魔の輪の中に取り込まれてしまうのだろうか?


 答えの出ない問いかけを繰り返しているうちに、授業のチャイムが鳴った。

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