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第二章 僕の中に、君はいる

 ――放課後。


 教室にはすでに人気がなく、窓から差し込む西陽が、板張りの床に長い影を落としていた。静寂の中、遅れて入ってきた太郎の足音だけが、がらんとした空間に響く。


「やあ、太郎くん。来てくれてうれしいよ」


 その声は、太陽の沈みかけた空と同じくらい柔らかく、けれどどこか翳りを帯びていた。光の向こうから届くような、どこか夢じみた響き。まるで、こちらの心を見透かしているかのような声音に、太郎の心臓がドキッと跳ねる。


「そこに突っ立っていないで、こっちにおいでよ」


 窓際の席に座る薫が、太郎をゆったりと見上げていた。彼は机に頬杖をつき、組んだ足をゆらゆら揺らしながら、嫣然と微笑んでいる。その仕草ひとつひとつが、舞台役者のように計算されているようで――美しかった。


「……俺に、何か用事でも?」


 そう言った声がわずかに震えていた。


 けれど、薫は気にした風もなく、ふわりと微笑んだ。


「んー? ただ、君と話したかっただけだよ。……昨日のことも、気にしてるんじゃないかなって思ってね」


(昨日のこと……)


 脳裏に淫靡な光景がよぎり、顔がかあっと赤くなるのを感じた。


「……べ、別に……気にしてません、から……!」


 そう答えながら、太郎は薫の顔をまともに見ることができなかった。どうしても視線が、あの喉仏や細い手首、首筋の影に吸い寄せられてしまうのだ。――どこか、見てはいけないものに手を伸ばすような、罪悪感と甘美が入り混じる感覚に似ている。


「そっか。なら、よかった」


 薫は朗らかに言って、席を立った。それから、水面を踏むように滑らかな動きで、机の間を縫いながらこちらに向かってくる。そして、お互いの革靴の先端がぶつかり、太郎は体勢を崩した。が、薫の細腕に支えられ、いつの間にやら机の上に座らされていた。


 あまりの手なれ具合いに驚いていると、耳に息を吹きかけられた、そして――


「……ねえ、太郎くん。昨日は、どこまで見てたのかな?」


 その一言に、喉がひゅっと鳴った。


 薫は、太郎の耳元でクスクスと笑いながら、


「別に責めているわけじゃないんだ。ただ純粋に気になって、聞いてみただけだから」


 と言って、太郎の耳たぶに咬みついた。


「ひゃ……!」


 弾力を確かめるように、何度も食んでは、生ぬるい舌で舐めてくる。


 そんなところ、気持ちがいいはずがないのに、太郎の大事な部分は反応を示していた。羞恥と困惑と、言葉にならない熱が、胸の内を満たしていく。


 太郎は変な声が出そうになるのを堪えつつ、


「どうして……こんなこと……!」


 と口にした。すると薫は、耳への愛撫をやめて、太郎に顔を近づけてきた。


「僕はね、太郎くん。君のこと、気に入っているんだよ」


 そう言いながら、薫は、詰襟シャツのボタンに触れた。ただそこに指先を当てられているだけなのに、ぶるりと身体が震え、ありえない部分がひくついた。


 ――身体が何かを期待しているのだ、と思った。太郎が経験したことのない、なにかを。


「怖がらなくていい。君はもう、とっくに僕の中にいるんだから……」


 耳を溶かすような甘い声も、思考を薄れさせてくる眼差しも、ほんのりと香る椿の匂いまでもが、全て毒に思えた。――逃げ場なんて、どこにもない。


「や、やめ――っ、ん、ぅ」


 太郎の言葉は、その音色ごと、薫の口の中に吸い込まれていった。





 ――吾桑邸。


 女中にかばんを預けていると、いつものように絹依が出迎えにやってきた。それが嬉しくて、自然と頬が緩みそうになる。


 けれど、今日は何故か、絹依と面と向かって話すことがおっくうに感じてしまった。


 脳裏をよぎるのは、初めて身体を暴かれ、乱れてよがる太郎の姿。


(……いけない。自分が食った気でいて、実は食われていたなんて)


 ――それに、こんな乱れた気持ちのまま、絹依に会うことなどできない。いや、したくない。


 薫は女中に、体調が悪いから一人になりたいと伝えて、急いで階段を駆け上がった。


 ――絹依は薫の嫌がることは絶対にしない。


 だからこそ、安心して自室の扉を開けた。


 しかし、そこには槍輔の姿があった。心の準備ができていなかったせいで、いつものように表情を取り繕うことができなかった。それを訝しんだのか、槍輔が椅子から立ち上がって、こちらにゆっくりと近づいてくる。


「薫くん、何かあったのかい? 顔色が良くないみたいだが……」

「あ……いや、その……体調が悪くて……」

「……そうだったのか。配慮が足りなくてすまなかったね。てっきり今日も課題の手伝いを頼まれるとばかり……」


 はは、と短く切りそろわれた黒髪を掻いて、薫から視線をそらそうとした槍輔がふと動きを止めた。そして、こちらに手を伸ばしてくる。


「……薫くん。その、首の痣……」

「え?」


 何を言われているのか分からず、一拍おいてから、はっとして首を押さえた。


(太郎……! あいつ……!)


 どう釈明しようと視線をうろうろと彷徨わせて、これは使えるのではないか? と思いつく。槍輔に問い詰められる前に、瞳を潤ませて、その男臭い胸の中に飛び込んだ。


「か、薫くん?」


 たたらを踏みながらも危なげなく薫を抱きとめた逞しい腕が、一瞬だけ戸惑う様子を見せてから、薫をすっぽりと抱きしめた。


 いける、と思った。


 薫はすんすんと鼻をすすり、槍輔に抱きしめられたまま、上目遣いに見上げた。槍輔のチョコレートのように甘そうな瞳が、動揺したのがわかった。


「槍輔さん……僕、怖い目にあって……」

「説明しなくてもいい。……恐ろしかっただろう」

「……はい。でも、僕、そ……槍輔さんが相手なら……」


 そう言って、槍輔のシャツを、ぎゅっと握りしめた。それから、軽く力を込めて、槍輔をベッドへと誘導する。槍輔は抗うことなく、ベッドへと横たわった。


 薫は硬い腹筋の上にのしかかり、ゆっくりと上体を倒す。そして、唇と唇が触れそうになった時――


 コンコン、と部屋の扉が叩かれた。


 その瞬間、槍輔の瞳が夢から覚めたように見開かれ、「す、すまない」と言って薫の身体を押しのけた。


 薫は槍輔の後ろ姿を見つめながら、心の中で舌打ちをする。だが――


(あと、もう少しで……)


 ようやく手応えを感じたことに、口元が緩むのがわかった。

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