何度目かの関係を重ねたあと、太郎は薫の友人として、吾桑邸に招待された。その頃には、薫に対する独占欲が大きく膨らんでおり、自分でも怖くなるほどの感情を抱えていた。
しかし、その想いも、ぽっきり折られてしまう。
「まあ! かおくんがお友達を連れてくるなんて、初めてのことですわ! 太郎さん、でしたわね? わたくしはこれからお稽古に行かなければならないのですけれど、どうぞゆっくりしていってくださいな」
そう言って、美しく微笑んだ女性――薫の義姉である絹依に会ったことで、太郎は、自分の存在がいかに取るに足らないものなのかを思い知らされた。
何より、薫の義姉を見つめる眼差しは、心の底から愛おしい存在を見る目だった。
薫と共に絹依を見送ったあと、太郎は置き去りにされたこどものような気分で、玄関ホールに立ち尽くしていた。それに気づいているのか、いないのか。薫は何事もなかった様子で、太郎を振り返った。
「さあ。僕の部屋はこっちだよ。案内するからついておいで」
二階に上がる階段の手すりに手を置いて微笑む薫に、何も答えることができず、ただ無理やり口角を引き上げるのが精一杯だった。
――吾桑邸、薫の部屋。
開け放たれた窓から流れ込んできた風が、風鈴の軽やかな音色を運び、薫の肌から立ち上る椿の香りを室内に漂わせた。
(……この香り――ずっと薫のものだと思っていたけど、違ったんだな。絹依さんの匂いだったんだ……)
そう思った瞬間、視界がぼやけて、涙がこぼれそうになった。
女中が置いていった、麦茶にも茶菓子にも手を付けようとしない太郎を心配してくれたのか、薫が鉛筆を動かす手を止めた。
「太郎くん? 大丈夫かい? 気分が悪いようだったら――」
「お義姉さん」
「うん?」
「……お義姉さん、凄く綺麗な人だったな」
「だろう? ぬい姉様は――いや、姉上はね。僕の自慢の……家族、なんだよ」
「だから、褒めてもらえて嬉しいよ」と、笑った薫の顔は、今にも泣き出してしまいそうに歪んでいた。その表情を見て、太郎の胸に、鋭い痛みがはしった。
――いつからか、ほんの少しの素を見せてくれるようになった薫。
それは、自分が特別な存在だからだと思っていた。
(だけど、違った。きっと、いつでも切り捨てることができる存在でしかないからだ)
――薫の【特別】でありたい。
「なあ、薫」
「うん? どうしたの、太郎くん」
「……今日は、俺が、抱いてやる」
「え――?」
大きく目を見開いた薫の手から、鉛筆を取り上げる。そしてそのまま、細い指を絡ませて、ベッドへ押し倒した。稲穂のように美しく輝く髪が、白いシーツの上に散らばる。薫は抵抗すらしなかった。――まるで、こうなることが分かっていたかのように。
(……やっぱり全部、薫の掌の上、か)
太郎は喉の奥でクッと笑って、吸い寄せられるように、桜色の唇に吸い付いたのだった。
――初めて薫を抱いた日の夜。
重なった体温と肌の感触が忘れられない。――こうなることを、ずっと夢見ていた気がした。太郎はずっと、薫の中に、自分を刻み付けてみたかったのだ。
けれど、それが現実になった瞬間に、どれほど虚しい行為だったかを思い知らされた。
薫は、何も言わずに、太郎に身を預けた。呻きも、嘆きも、求めもせずに。――ただ、一方的にされるがまま。
太郎の動きに従って、腕を背に回し、足を開いたのだ。そのすべてが機械的で――冷たかった。
(こんなはずじゃ、なかったのにな)
もっと自分を求めてほしかった。困ってほしかった。傷ついて、苦しんで、啼いて――「太郎くんが欲しい」と泣いて懇願してほしかった。
けれど、現実の薫は、ただ微笑んだだけ。「いいよ」とも「やめて」とも言わず、唇の端を少し上げて、花咲くように笑った。
まるで、太郎の存在など、己を慰めるための道具でしかないと告げられているようだった。
快楽の海に沈みながら、太郎は泣いた。押し殺した声が、喉を震わせ、薫の耳に届いたはずなのに――彼は、何も言わずに、微笑んでいた。
この果てのない快楽の先に、何かがあると信じたかった。
けれどそれは、太郎を優しく抱きしめてくれる海ではなく、深く落ちていくだけの底なし沼だった。
お互いを高め合った熱が引いても、薫は何も変わらなかった。すでに冷えてしまったシーツの上。腕を伸ばせば届く距離にいるというのに、その背中は遠い。
「……なあ、薫」
「うん?」
「お前はさ、……俺のこと……どう、思ってる?」
薫はしばらく黙ったまま、天井を見つめていた。そしてぽつりと、
「太郎くんは……優しいね」
と言った。ただ、それだけ。まるで、それ以上の言葉は必要ないとでも言うように。
太郎は何も言わずに、背後から薫の身体を抱きしめた。腕の中の身体は、まるで人形のように細く、脆く、頼りない。それでも――
(どうしても手放せない)
その気持ちが愛なのか、執着なのか、苦しみなのか――分からなかった。
けれど確かに、太郎の心は――静かに、確実に、壊れていっていた。
太郎の寝息が首筋をくすぐりだしてから、薫はそっとベッドを抜け出した。
素肌の上に浴衣を羽織り、ゆるく結んだ帯が、夜風でかすかに揺れる。
カーテンの隙間から差し込む満月の光が、薫の白く透き通るような肌を、淡く照らした。
(ああ、やっぱり……太郎くんを選んで、正解だった)
心中で、静かに呟く。が、微かな罪悪感が、心の隅をじわりと黒く染めていく。
薫は、それを押し潰すように、ほのかな笑みを浮かべる。
(……僕が、あの人に――槍輔に抱かれる前に、誰かに触れられる感覚を、確かめておきたかっただけ――)
最初に目をつけたときから、太郎は……利用するには、申し分のない男だった。けれど――
(思っていたよりも、心の奥まで入り込まれてしまった)
頑なに閉ざしてきた、心の扉をこじ開けられそうになって、少しだけ怖くなった。
(でも……負けるわけにはいかないんだ)
絹依の心は、綺麗なままでは奪えない。絹依の身体も、まっさらな身体のままでは奪えない。――この恋は、綺麗なものじゃない。
彼女が愛する赤薔薇の棘を握りしめるように、痛みを伴って、血を流しながら手に入れるものだ。
「ぬい姉様のためなら――僕は、修羅に堕ちるよ」
吐息と共に呟いた声が、月明かりに溶けていく。
――たとえこの胸に、小さな【好き】が芽生えてしまっても。
それすらも、道具にしなければならないのだ。