目次
ブックマーク
応援する
5
コメント
シェア
通報

第四章 椿の香に、別れを知る

 太郎に抱かれてから、薫は自分の身体に起こった変化に戸惑っていた。触れられるたびに、腹の奥がじんと疼き、落ち着かなくなったのだ。甘い疼きが、体内に、ゆっくりと染み込んでくるようだった。それからというもの、立場は逆転し、薫は太郎に抱かれるようになった。


「ぅ、ふ……っ、は……ぁ」

「薫……薫……っ、もっと声聞かせろ」


 太郎の言葉に、薫はふるふるとかぶりを振った。――だが、それは逆効果だったらしい。


 すると太郎はますます責め立ててくる。薫はたまらなくなり、声を上げてしまう。


 ――このままでは駄目だ。


(籠絡するつもりが、籠絡されるなんて……っ)


 薫は声を押し殺す為に、太郎の肩口に噛み付いた。一瞬、太郎は呻いたが、責める速さが落ちることはない。――かえって興奮を助長したようだった。この熱が、いったいどこまで続くのかと、怖くなるほどだった。


 そして暫くすると、視界がチカチカと明滅し、薫は何も考えることができなくなった。


「た、ろうく――っ、ん」


 薫の悲鳴は太郎の口腔内に吸い込まれ、すべてが溶け合っていくように、やがて燃えるようだった熱が徐々に冷めていった。


 放課後の教室に、二人分の荒い呼吸音が満ちる。外からはツクツクボウシの鳴き声が聞こえ、息が整う頃には、ジー……という音に変わっていた。


 ――今日こそは言わねばならない。


 薫は気だるい身体を机の上から起こしながら、それを支えようとする太郎の腕を強く握った。


「……僕たち。もう、終わりにしよう」


 もっと毅然と言うつもりだったのに、喉の奥が震えてしまい、囁くような弱々しい声になってしまった。


 けれど、静まり返った教室の中。太郎の耳にはしっかりと届いたらしい。彼は、すぅと息を吸って飲み込むと、息を吐き出すと同時に「わかった」と一言だけ言った。――あまりにも素直な返答に、薫は一瞬、心の支えを失った感覚に襲われた。


 まさか、そんなにあっさりと納得されるとは思っていなかったので、薫は弾かれたように顔を上げた。するとそこには、ただただこちらを静かに見つめる、焦げ茶色の瞳があった。まるで、こうなることが、最初から分かっていたとでも言いたげな悟りきった視線に、薫はカッと頭に血が上るのを感じた。大きく息を吸い込んで、『本当にそれでいいの!?』と叫ぼうとした。だが――


 槍輔に似た、チョコレートのような焦げ茶色の瞳が、薫に言葉を飲み込ませた。


 ――なんの為にここまでやってきたんだ。


 ――お前が愛しているのは、絹依だろう?


 ――これまでのことは全て、槍輔を落とすための下準備だったはずだ。


 教室の外から入ってきた、少しだけ冷たい空気。服装を整えている太郎の身体から、ふわりと、椿の甘い匂いが香った。その瞬間、薫は、自分自身に頬を打たれたような気がした。――ぬい姉様をけがしてしまった。


 薫の頭に上っていた熱は、急速に冷えていき、冷静さを取り戻した。そして、何も言わずに立ち去ろうとした太郎の背中に向かって、「今までありがとう。太郎くん」と穏やかな声をかける。太郎は振り返ることなく、ただ一度だけ頷いて、静かに教室から出ていった。


 ほんの少しだけ開けられたままの扉の隙間から、土と雨の匂いを含んだ風が入り込んできた。――どうやら、雨が降るらしい。


 薫は「ははっ」と、小さく笑ったのち、板張りの床に足を下ろした。その場から一歩も動かず、教室のガラス窓から見える曇天を睨みつける。


「……今日、ぬい姉様とあの人は、夜会に出かけるはずだったな」


 そうひとごちて、薫は鞄を手に取り、廊下に向かって一歩を踏み出したのだった。





 ――小雨が降る中。


 薫は迎えの車を断って、歩いて邸へ帰ることにした。すると帰路につく頃には、土砂降りの雨になり、薫は冷たい雨に打たれながら帰宅した。


「……ただいま戻りました」


 するとそこに、タイミングよく、夜会服に身を包んだ絹依と槍輔が現れた。


「かおくん!? どうなすったの、びしょぬれじゃない!」


 きゃあ、と小さく悲鳴を上げた絹依が、急いで近づいてくる。そして、冷たく冷え切った頬に触れようと、すんなりとした指を伸ばしてきた。それを薫は、あからさまに避けた。


「かおくん……?」


 喉を震わせながら呟くように呼ばれ、薫の胸がツキンと痛んだ。


「……絹依さん。とりあえず、何か拭くものを。このままでは、風邪を引いてしまう」

「え、ええ……そうですわね」


 はっとした様子で、絹依は女中と共に脱衣場に向かった。玄関ホールに、薫と槍輔の二人が残され、重い沈黙が落ちる。


「……薫くん。ここに立ったままは良くない。早く中に――」


 言って、こちらに背を向けた槍輔の袖を、きゅっと握りしめた。


「薫くん……?」

「――かおくん! 拭くものを持ってまいりましたわ」


 絹依が戻ってきたことで、反射的に腕を引きそうになった槍輔の袖を、薫は手放さなかった。それに驚いた槍輔が、こちらを振り返る。微妙な雰囲気に、流石の絹依も違和感を感じたのか、戸惑う空気が漂った。


「……絹依さん。申し訳ないが、先にひとりで会場に向かってくれないだろうか?」

「え?」

「男同士でしか話せないことがあるんだ」


 絹依は暫しの間、逡巡したのち、しぶしぶ頷いて女中と共に車へと向かった。


「……さあ、薫くん。これで身体を拭いて。着替えに部屋へ行こう」


 柔らかい声音で言って、槍輔は薫の手に自身の手を添えた。


(今度こそ、かかった……!)


 薫は口元が緩みそうになるのを必死で堪え、こくんと頷いて、槍輔と共に自室へと向かったのだった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?