「じゃあ、薫くん。私は部屋の外に出ているから着替えを――」
部屋から出て行こうとした槍輔の背に、薫はふっと小さく息をのみ、すがるように抱き着いた。
「行かないで……」
ただ一言、囁くように呟く。
肌に張り付いたぬれたままのシャツが、槍輔と薫の体温で生温くなり、粘つくような不快感が、じわりと皮膚の内側に染み込んでくる。その感覚に、ぶるりと身体が震えた。すると槍輔はゆっくりと振り返り、
「……分かった。ここにいる。だから早く着替えなさい。さっきから酷く震えているじゃないか……」
そう言って、薫の二の腕を擦った。薫はその右手を取り、詰襟シャツの第一ボタンに触れさせた。それからただ黙って、槍輔の瞳を見つめた。身長差があるせいで、薫はややつま先立ちになる。ぐっと顔と顔の距離が近づいて、鼻先同士が触れそうになった。
お互いに、黙ったままだった。
ただひたすらに、見つめ合う。――あなたを愛しているのだと。心の底から欲しているのだと。口にできない真実を、瞳の底に沈めて。焦げ茶色の瞳の向こうに、絹依の姿を思い浮かべながら。
すると、槍輔は「ははっ」と笑って、髪を掻き上げた。突然変わった雰囲気に、流石の薫も戸惑いを隠せない。
「そ、槍輔さん?」
槍輔は仮面を外すように、大きな手のひらで顔を拭い、次の瞬間には冗談のかけらもない、獣のような目つきでこちらを射抜いた。
「……そんな目で見られたら、我慢なんてできるはずがないだろう」
「槍輔さ――んっ」
力強い腕が、ぐっと薫の腰を引き寄せる。布越しに伝わる体温が、だんだんと熱を帯びていく。まるで獲物を仕留めるような手つきだったけれど、その手はどこか、迷いを孕んでいるように感じた。
(やっとここまで来たんだ。逃がさない)
薫は、槍輔の太い首にしがみついて、ただ触れるだけの口づけをして恥じらってみせる。唇が重なると、どちらからともなく深く口づけあった。
互いの息遣いと鼓動の音だけが、雨音に交じって室内に響く。
――当然、絹依とは清い関係だろうが……。
(二十二歳の陸軍中尉殿が、童貞なわけがないか)
そう冷静に分析できたのもここまでで、槍輔の手に導かれるまま、薫はそっとベッドの縁に座らされた。
気づけば身体は熱を持ち、まともに思考が回らない。
何を言っているのか、自分でもよくわからなかった。
「も、むりぃ……! ん、はぁ……っ」
「無理、じゃないだろう?」
「ちっ……ちがぁ……あ!」
「違わない」
鼓動の波が重なり合い、薫はただ、槍輔の腕の中に身を委ねるしかなかった。
「……っ!」
「大丈夫だ。私がそばにいる」
苦しいほどの鼓動を訴える薫の声は、静かに、槍輔の胸元へ吸い込まれていった。
――この日から、槍輔と薫は恋人――いや、愛人関係になった。
何度も何度も、両手では足りないほどに夜を重ね、薫の身体は槍輔に支配されてしまった。
けれど、薫の心だけは、槍輔のものにはならない。
(そうだ。これでいい)
愛する義姉――絹依を奪うために、自分はこの蜜のような檻を仕掛けた。
甘く、優しく、けれど決して逃れられない檻を。
そして、彼女を奪うその日まで。薫は今日も、美しい毒として微笑みながら、槍輔に口づけを贈る。