氷室真司は自分が幻でも見たと思った。何度も自分に言い聞かせた、天宮雪乃はもうこの世にいない、彼女は亡くなってから、もう五年も経った!
どうにか気持ちを落ち着かせ、子どもたちの墓の前で足を止めた。
しかし、そこで彼は再び息を呑んだ。墓の前には、白いチューリップの花が供えられていた。
それは、天宮雪乃が一番好きだった花。
この五年間、ここを訪れたのは自分だけのはず!
やっと、落ち着いた彼の心は、再び乱れていく。周囲見渡しながら、次第に目が赤くなり、握りしめた拳が震え始めた。
「誰だ?誰がやったんだ?」
まるで無数の視線が彼に向けられているような気がしたが、誰一人として顔が見えない。
「出てこい!出てきやがれ!」
首筋の血管が浮き出て、狂ったように怒鳴り散らした。
私は木の陰から取り乱す氷室真司の様子を見ていた。やはり、彼を驚かせた。
ここ数年、彼が精神不安定になっているという噂は本当のようだ!
私は彼をそのままにして、静かにその場を離れた。
墓石に刻まれた文字が、ふいに思い出される。
「最愛の妻、最愛の息子、最愛の娘の墓」
「
吐き気がする!
山を下り、車に乗り込むと、私は黙ったまま窓の外を見つめた。
涙が静かに頬を伝う。
五年経っても、一人の母親が子どもを失った痛みは消えない。しかも、子どもが自分たちを殺した憎き相手と向き合うのだと思うと、胸はさらに苦しくなる。
「もう泣きやんだか?」
将人の冷たい声が耳に入った。
私は顔を向けると、彼と目が合った。
「感情を抑えられないなら、すぐに気付かれてしまうぞ」
と彼はそう叱った。
「あなたって本当に冷たい人ね」
私は彼を睨みつけた。しかし、彼は薄く笑う。
「弱い人間は泣くことしかできない!」
私はさらに彼をきつく睨んだ。
「あなたは一度も失ったことがないからよ。氷室さん、そのままずっと、失う苦しみを知らずにいればいいですね。」
涙を止めて、それ以上は何も言わず、彼にも背を向けた。
車が止まると、私は無言でドアを開けて降りた。
そこはまた墓地だった。前の違い、ここは花や木々が美しく手入れされた、山と川に囲まれた個人墓地だった。
「中に入ってみよう」
男が低く言った。
「俺はここで止まる」
きっと彼の親族が眠る場所なのだろう。
でも、私が行ってどうするの?
しかし、次の瞬間、彼は私の手を引き、無理やり中へと連れて行った。墓石に蒼汰の写真が刻まれているのを見たとき、私は呆然と立ち尽くした。
「これ、は……」
「あんたの家族をここに移しておいた」
将人はさり気なく伝えたが、私の心のどこかが熱くなり、彼には「ありがとう」とつぶやいた。
彼はかすか微笑みを浮かべながら背を向け、ここを離れ、私に子どもたちとの時間を与えてくれた。
私は墓石の前に座り、そっと腕を回して墓石を抱きしめ、蒼汰の写真に頬を寄せた……
涙が止まらなかった。
「ただいま、私の子どもたち……」
その夜、氷室真司が帰宅したのはかなり遅い時間だった。天宮雪奈は彼がひどく落ち込んでいるのに気付き、傍に寄り添いながら声をかけた。
「真司、五年も経ったのよ。もう自分を責めないで。お姉ちゃんだってきっと後悔しているわ。もし自分の不倫が原因で、子どもたちを失ったことを知っていたら、絶対にあんなことしなかったはずよ……」
「もういい!」
氷室真司は眉間を押さえ、低い声で遮った。
天宮雪奈は一瞬言葉を失った。あの時、真司がDNA鑑定をした結果、二人が彼の子だと分かり、彼女は自分に疑いの目が向くのを恐れた。そこで、父親と共に「天宮雪乃は若い頃からボディガードと付き合った」と嘘をでっち上げた。
昔の恋人を忘れられず、結婚後もそのボディガードと関係が続いていたと。
かなりのお金でとあるボディガードに罪を着せた。そのせいで、彼は氷室真司に殺されかけたが、最終的に自分が止めた。
こうして氷室真司は天宮雪乃の不倫を疑うことなく、天宮雪奈は彼と結婚し、ぜいたくで華やかな生活を手に入れた。
だが、今日の氷室真司の様子はどこか違っていた。
「真司、何かあったの?」
氷室真司は首を振る。
「いや、何でもない!」
しかしその夜中、氷室真司は悪夢を見て、天宮雪奈が起き上がり、彼を起こそうとすると、
「雪乃、行かないでくれ。雪乃……」
彼女の手が止まった。
どうして、自分の夫は夢の中で天宮雪乃の名を呼んでいる?
「雪乃!」
氷室真司は飛び起き、汗びっしょりで、目は怯えたように見開かれていた。天宮雪奈はベッドサイドのライトをつけ、何も知らないふりをして問をかけた。
「悪夢でも見たの?」
男は何も言わず立ち上がった。
「ちょっとシャワーを浴びてくる!」
天宮雪奈の拳を握りしめた。死んだはずの人間が、まだ自分の夫を奪おうとするなんて!
彼女は悔しさに歯を食いしばり、心の中で天宮雪乃に、死んでも安らかになんてさせない。地獄に落ちろと呪った。
シャワーを浴び終えた氷室真司は、そのままベッドに戻ることはなかった。
「もう少し寝たら?まだ早いわよ」
天宮雪奈が優しく声をかける。
「いや、いい。書斎で碁を打つよ。君はもう少し寝ていて」
天宮雪奈は彼の手を取る。
「明日は義父の誕生日なのよ。忙しい一日になるし、ちゃんと休まないと!」
氷室真司は彼女の頭を軽く撫で、「心配しないで」とだけ言って書斎へと向かった。
天宮雪奈は分かっていた。ここ数年、彼は囲碁に夢中になっている。書斎にこもって一人で碁を打つことが増え、自分と過ごす時間はほとんどなかった。
翌日、氷室尚人の七十歳の誕生日。
岡江市の名家・氷室家。氷室尚人の代になってから、子は少なくなった。
妻を早くに亡くし、その後は再婚せず、子どももいない。
氷室真司は友人の息子で、両親を早くに亡くしていたため、氷室尚人が養子として迎え入れた。
ここ何年間、氷室尚人は徐々に表舞台から身を引き、誕生日にも親しい友人だけを招くようになっていた。
朝早く、氷室真司は天宮雪奈と二人の娘を連れて氷室家の本邸へと出向き、氷室尚人の誕生日を祝った。
広間では、氷室真司が用意した贈り物を渡しながら挨拶した。
「お義父さま、いつまでもお元気で、長生きしてください!」
氷室尚人は笑顔でそれを受け取り、後ろの執事の中田さんさんに手渡した。
天宮雪奈も二人の娘を連れて祝いにやってきた。
「お義父さま、これは千歳と菜々が心を込めて作ったプレゼントです!」
氷室尚人はにこやかに「ありがとう、おじいちゃんからお年玉だ」と言い、二人の女の子にそれぞれ渡した。
今年十歳になる千歳は、少し不満だった。
「私の友だちのおじいちゃんはヘリコプターやダイヤモンドをくれるのに!」
天宮雪奈は慌てて千歳を引き寄せ、頭を下げる。
「子どもの言うことですから、お気になさらないでください!」
氷室尚人は笑った。
「気にしなくていい。さあ、外で遊んでおいで」
天宮雪奈は急いで子どもたちを連れてその場を離れた。
中田さんさんさんがそっといった。
「昔、真司坊っちゃんは頭を下げてお祝いしていたものですが……」
氷室尚人は変わらない表情で小さい声で答えた。
「今や立場も変わった。ああいうことはもう似合わないさ」
「おっしゃる通りです」
中田さんがうなずいた。
そこへ氷室真司がやってきた。
「お義父さま、今日は貴重なお客様がいらっしゃるとお聞きしましたですが?」
氷室尚人は彼を見て答えた。
「そうだ、将人が帰ってくる!」
さらに微笑みながら続いた。
「今回は恋人も連れてくるそうだ!」
氷室尚人の弟は南米で名を馳せており、その息子・氷室将人は若くして二つの上場企業を持ち、近年ではグループの中心的存在やリーダーにもとなっている。
この氷室家の御曹司は謎めいており、縁談話も数知れないが、彼の心を動かせた者はいない。
氷室真司も、いったいどんな女性が将人の心を射止めたのか興味津々だった。
「旦那様、将人様がご到着です!」
中田さんが嬉しそうに報告すると、氷室尚人は立ち上がった。
「さあ、出迎えにいこう!」
氷室真司もその後に続いた。