崖下の海、それは神が私にくれた生き残させる機会。
再び目を開け、必死で体を起こそうとした私を、見知らぬ人たちが次々と止めた。
彼らが誰なのか知らない、知りたくもなかい。私はただ狂ったようにもがいた。
「離して!復讐しなきゃ、あいつらを殺してやる……!」
そのとき、扉が開き、背の高い男性がゆっくりと入ってきた。
「彼女を放せ。」
低い声が響き、私を押さえていた使用人たちはその男の命令に従い、次々とこの部屋から出た。
その男は私の前に歩み寄り、ナイフを差し出し、その眼は冷ややかで、どこか皮肉げでもあった。
「復讐してみたら?」
私はそのナイフを握りしめながら、歯を食いしばって、弱々しい体を起こしここから出ようとした。
けれど、部屋を出る前に力尽きて、床に崩れ落ちた。高熱で肺炎、今ちゃんと呼吸できるだけでも幸いのことだった。
私は床に座り込んで、悔しさのあまり自分の足を叩き、突然声を上げて泣いた。
男はしばらく黙ったままそんな私を見つめ、やがてゆっくりと近づいてき、低くゆっくりと口にした言葉に、鋭い何かが潜んでいた。
「復讐はな、刃を振るうだけがすべてではない。死は一番安っぽい復讐だ。」
私は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて彼を見つめた。
「なら、どうすればいいの?」
彼は少し体を前に傾け、その瞳がふいに暗く沈んだ。まるで真夜中に荒れ狂う海のように―、その底知れぬ黒さに思わず息を呑む。
「剣と一体になるって言葉、聞いたことあるか?自分自身を極めろ。いずれ強者となり、あんたの心が最も鋭い刃になる。」
そして、深く澄んだ目に、かすかな笑みが浮かぶ。
「その時、近づく者すべてに、何をするか全部あんたの思いのままだ。」
私は震える手で彼袖を掴んで懇願した。
「教えてください!」
「俺がやれと言えば、理由を尋ねずすべてやる。それができるか?」
彼は私を見下ろしながら条件を出した。
私はうなずく。
「はい、できます!」
復讐のためなら、私は何でもする。
その日から、私は必死に療養し、食事をし、できる限り早く回復しようと頑張った。
彼が心理学を学べと言えば寝食を忘れるほど勉強し、園芸を学べと言われれば、昼夜を問わず植物たちと向き合う。
教員免許、経営、多言語、囲碁や芸術……
復讐のためなら、彼の言うことは何でも従い、一度も理由を聞いたことはなかった。
五年間、私はいくつもの学位を手にし、囲碁や絵画で国際賞をいくつも受賞し、業界で名を知られるようになった。
体と心の傷を癒し、あらゆる技術をひたすら磨き続けた。
毎日が、帰国して復讐を果たすための準備。そう、私は一度も諦めなかった。生きている限り、あの裏切り者たちを絶対に許さない。
私は必ず帰る。そして、子供たちのために必ず復讐を果たす!
ついに、その日がやってきた。
将人が日本へ戻ると知ったとき、私は舞い上がった。
氷室将人は私を救ってくれた命の恩人。
今では私のボスでもある。
彼は南米のビジネス界の頂点に立つ人物。なぜ私を助け、支えてくれるのかについては、心当たりがない、自分から尋ねたこともなかった。
彼の目的が何であろうと、私には関係ない。復讐の助けになってくれるのなら、それでいい。
今、私は二つの会社を任されている。ひとつは教育に関連の会社、もうひとつは園芸関連の会社だ。
何も知らなかった私が、今ではプロとしてやっている。この五年間、私はすべてを賭けてきた。氷室将人も私にたくさん教えてくれた。
私はノックして彼の書斎に入り、単刀直入に切り出した。
「あなたと一緒に日本へ戻りたいです。」
彼は思慮深い眼差しで私を見つめる。
「本当にいいんだな?」
「はい!」
彼はタバコに火をつける動きをし、初めて下の名前で私を呼んだ。
「雪乃、人にはいろんな生き方がある。今のあんたは、すでに上流社会の頂点にいる。前を向けば、素晴らしい人生が待っている。」
彼はタバコに火をつけられずに、じっと私を見ていた。目の奥がどんどん深くなっていくのを感じた。
「誰もが自分のために、正しい選択をする権利がある。前に進むのも、復讐のために戻るのも、全部あんた自身の選択だ。誰に説明する必要もない、わかるな?」
「はい!」
私は焦りながら返事した。
どうしても帰りたい、復讐したい。
「急ぐな、よく考えて後答えろ。」
彼はゆっくりタバコに火をつけた。
私は迷いなく自分の決意を示す。
「ちゃんと考えました。必ず復讐を果たします!」
彼は息を深く吸い、ゆっとりと煙を吐き出しながら、その茶色い瞳に隠れた気持ちが何か見分けれなかった。
「一度戻れば、もう後戻りはできないぞ!」
「わかっています。後悔はしません。」
この五年間、私はこの日をずっと待っていた。
彼はタバコをもみ消し、ゆっくり立ち上がった。
「準備をしておけ!」
抑えようとしても胸の鼓動は速まるばかりで、私はそのまま彼のオフィスから離れた。
三日後、私は再び岡江市に戻った。
故郷は依然として変わらない。でも、私はもう昔の天宮雪乃ではない。
今の私には、新しい名前がある――相沢汐里。
帰国して最初に向かったのは、息子と娘の眠る場合。
今日は私の命日でもある。この数年、毎年この日には氷室真司が墓参りに来てくれていると聞いた。
彼ほど情に厚い人には、私も何か恩返ししなければならない。
ただ、驚きのあまり死ぬかもしれないね!
その頃、真司と雪奈の家。
黒い服に黒い靴を履いた氷室真司が出かけようとすると、天宮雪奈が祭壇用花などを渡した。
「この花は私が姉ちゃんのために選んだの。気に入ってもらえるかな?」
彼は受け取った。
「とてもきれいだ!」
そして彼女の頬にキスをし、「いつも準備してくれてありがとう」と微笑んだ。
天宮雪奈は穏やかに笑顔を見せた。
「お礼なんていらないよ。姉ちゃんたちも私の大切な家族だから、当然のこと」
氷室真司の眼が優しくなり、「じゃあ、行ってくる」と言って家を出た。
天宮雪奈は微笑みながら彼を見送り、車が見えなくなるとその笑顔はすっと消えた。
雪乃の死後、彼女は念願叶って氷室真司と結婚し、彼も以前と変わらない優しさで接してくれた。
彼女の連れ子である二人の娘にも愛情を注いだ。
だが、夫婦となって五年、彼は一度も彼女に触れなかった。
心の中にはずっと、死んだ二人の子どもを思っている。
毎年この日になり、彼は必ずその子供たちの墓参りに出かける。
いつか、あの雑種たちの墓を掘り返してやると、天宮雪奈はそう心の中で誓った。
霊園。
氷室真司は階段を一歩ずつ上っていった。
あの日、DNA鑑定の結果を見たとき、彼は狂いそうになった。自分が間違ったと信じられず、何度も何度も鑑定を繰り返した。
間違いなく、自分の子供だった。
後悔しても、死んだ人は戻らない。
だからこそ、一番いい墓場を選び、雪乃と子ども三人を一緒に葬った。
一歩踏み出すごとに、心が重くなる。
過去の記憶が鮮明によみがえり、そのひとつひとつが今も彼の心を突き刺している。
あの時、きちんと調べていれば、自分の子供たちを死なせることはなかったと、激しい後悔に苛まれる。
空からふいに雨が降り出し、山腹には霧が立ちこめ、視界がぼやけていく。
突然、見覚えのある人影が遠くに現れた。
あの淡い黄色のワンピースは、彼女が一番好きだった。
氷室真司は足を滑らせ、階段に倒れ込んだ。
だが、そんなことも気にせず、傘を捨てて必死に追いかける。
淡い黄色のワンピース、婚姻届を出した日に彼女が着ていた服……
「雪乃、君なのか?行かないで、行かないでくれ!もうわかった、二人は俺の子だ。あれは、俺たちの子供なんだ。頼むから行かないでくれ……」
足元は滑りやすくて、また転んでしまった。必死で立ち上がると、そこにはもう誰もいなかった。
墓石だけがずらりと並び、みじめな彼だけがその場に残された。