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第20話 餌にかかった魚

しばらくして氷室真司が現れ、案内役に導かれ、私の目の前に立つ。


そのとき、私は見知らぬ強敵と激しく囲碁を打ち合っている。

人だかりができ、普段賑やかな囲碁クラブは今や息をひそめたような静けさ。


氷室真司は私をひと目見たけど、顔が見えずそのまま碁盤へ視線を移す。


この対局はすでに一時間以上続いており、碁石もほとんど埋まっている。


盤面は相手が優勢で、彼は得意げに笑みを浮かべ始めた。周りの観客も興奮した様子。


この男たちにとって、これまで無敗だった私がついに負ける瞬間を目の当たりにできると思っているでしょう。


男としてのプライドと優越感が一気に解き放たれ、男が女に負けることなどあってはならない、とでも言いたげるように。


私はちらりと氷室真司方へ見て、彼は無表情のまま静かに観戦している。


周囲の男たちは、にわかに口々に話し始めた。まるで今にも私が負けると決まったかのように。

「お嬢ちゃん、もう勝ち目はなさそうだね」


「そうだな、あと二手が限界」


「今回の賭け、結構な額だったろ?お嬢さん、痛い目見るぞ!」


向かいの男はますます自信満々で、ついに挑発しにきた。


「女をいじめてるなんて言われたくない、今降参したら、夜一緒に食事でもどうだ?賭けはなかったことにしてあげるよ」


私は微笑み、美しい瞳を彼に向ける。


「もし私が勝ったら、どうするの?」


「俺が倍額払う!」


私は首を横に振った。


「賭けは正々堂々がいい。これならどうですか?もしあなたが負けたら、犬の鳴き声を十回真似してください。」


男の顔色が変わり、周囲の男たちは「びびるな、この女の負けが決まっている!賭けに乗れ!」と囃し立てる。


男は鼻で笑う。


「もしお前が負けたら、今夜は俺の酒に付き合え!」


「いいよ」


私は即答した。


このとき、氷室真司がようやく碁盤から私の顔に視線を移した。


多分私の声に何か気付いたみたい。

でも、今日はしっかりと顔を隠しているから、すぐに私だとバレないはず。


男はさらに一手を打ち、白石を十二個も取った。

彼らには、私はもう完全に追い詰められているようにしか見えない。


対局相手の男は面白そうに私を見る。


「お嬢さん、そのマスクの下、どんな顔なのか見てみたいね」


観客が騒ぎ出した。


「その目つき、どう見ても男を惑わす色気たっぷりだ!」


そんな中、氷室真司が初めて言葉を出した。


「喜ぶのはまだ早い!」


彼は、私がひそかに仕掛けていた一手に気づいた。


観客の多くは氷室真司が誰なのかを知っている。


「氷室社長、つまりこの女にまだ勝ち目があると言いたいですか?」とざわめく。


私は彼に返事をさせる間もなく、最後の白石を打ち込んだ。

盤面は一気に逆転、見事な勝利を収めた。


囲碁クラブの中は一瞬で静まり返り、全員呆然とし、私の見事な逆転劇に誰もが驚きを隠せなかった。


特に向かいの男は、眉をよせ頭を抱え、自分の油断を悔やんでいる。


「どうして見抜けなかったんだ…」


彼は私に「もう一局頼む!」と懇願する。


「ごめんなさい、今日は一局だけです」


私は微笑みながら断った。


賭け金をすべて回収し、淡々と彼に言った。


「いつ始めるの?」


対局した男もそれなりの地位があって、目つきが冷たくなった。


「冗談を本気にするつもりか?」


「負けを認められないのですか?」


私は皮肉に鼻で笑った。


彼の顔色がみるみる険しくなり、私は椅子にもたれたまま続ける。


「犬の真似ができないなら、私をと三回呼んでもいいですよ」


「小娘、調子に乗るな!」


それを聞いて彼は怒りだした。


私は相変わらず余裕の笑顔を見せる。


「ちょっと言い過ぎたわね。じゃあ、今日はここまでにしましょう。」


そういいながら賭け金をバッグにしまう。


彼はただ氷室真司をおびき寄せるための餌、わざわざ敵に回す必要はない。


周囲の人たちは乗りに乗った。


「男なら負けを認めろ、彼女は堂々と勝ったじゃないか!」


「そうだ、お前が自分で決めたルールだぞ」


「そんなことばかりしてたら、今後誰もお前と打たなくなるぞ!」


男もさすがに面目が立たず、テーブルを叩いて叫んだ。


「男に二言はない、負けは負けだ!」


私はバッグを肩にかけ離れようとした。


犬の鳴き声を真似するかどうかはどうでもよかった。彼が見せた動揺と葛藤、そして人前であの情けない姿……さっきの侮辱に対する代償としては十分。


私は出口へ向かう途中、背後から男が犬の鳴き声を真似る声が聞こえた。


「ワンワンワン……」


私は思わず口元が緩んだ。


痛快なものだ。


皆は自然と道をあけてくれて、私は氷室真司とすれ違った。


彼の興味津々な視線があまりにも露骨で、私は彼が必ず追いかけてくると踏んでいた。


道端でタクシーを待っていると、後から足音が聞こえた。


「お嬢さん、ちょっとお待ちください……」


氷室真司が私のそばに立った。


私は彼を見上げ、無言で問いかける。


彼は低い声で対局を誘う。


「よければ、もう一局お相手願えませんか?」


「ごめんなさい、用事があるので」


私はやんわり断る。


「それなら、時間を決めて…」


「私は気が向いたときだけ打つんです」


ちょうどタクシーが来たから、ドアを開けて乗り込む。


バックミラー越しに彼がずっとこちらを見つめているのが見えた。


この一局は、氷室真司のために長い時間をかけて準備したもの。

師匠直伝の秘策を使い、全員を驚かせる、もちろん氷室真司も含めて。





帰った後、将人が荷物をまとめていた。


彼は帰ってしもう!


「どうだった?」


「みんなびっくりしてたよ。」


私はコーヒーを飲みながら結果を伝えた。


「真司はあんただと気づいたか?」


「どうでしょうね……でも、もう長くは隠せない」


彼はスーツケースを閉じて私を見る。


「隠す必要もない。今夜にはきっと彼も気づくだろう」


「そうだね、私もそう思う。」


私はうなずいた。

今夜は、氷室家で食事会があって、氷室真司と天宮雪奈も来る予定。


確認できなくても、きっと何か感じるでしょう。


でも、それはもうどうでもいい。





夜、氷室家。


私と将人は手土産を持って氷室家を訪れた。


氷室尚人は美術品収集家で、将人はそれに合わせて美術品を贈り、彼はとても喜んでた。一人でしばらくその書を見つめる。


「この絵師の作品は焼失したものが多く、残っているものはまさに至宝だ。将人、よくぞここまで気を遣ってくれたな」


彼らのような人にとって、こうした無二の価値ある品しか目に入らない。


将人は笑った。


「伯父さんに喜んでもらえて嬉しいです」


「汐里もお前と一緒に帰るのか?」


「ちょうどそのことをお話ししようと思っていたんです。汐里はしばらく帰らないので、もし何かあれば、どうかよろしくお願いします」


「それは当然だ。ならこうしよう、お前が帰ったら、汐里はうちに住んでくれ。ワシも一人じゃ寂しいからな」


ちょうどそのとき氷室真司が入ってきて、この会話を耳に私をじっと見つめる。


私は微笑みながら、偶然を装って彼と目を合わせた。


彼の視線が私とぶつかった瞬間、明らかに動きした。そしてその刹那、彼は気づいたみたい。


おそらく、これまで私の目をちゃんと見たことはなかったでしょう。昨日の囲碁クラブでも、私に強く興味を抱いたのも、結局見えたのは布の隙間から覗くこの目元だけ。


それが、彼を惹きつけた。


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