「お義父さん」
氷室尚人はにこやかに氷室真司を見る。
「ちょうどよかった、将人がくれた絵を見てごらん」
氷室真司は私から視線を外し、彼のそばに行って絵を眺め始めた。
天宮雪奈が私の隣にやってきた。
「お姉ちゃん、将人さんがもうすぐ行っちゃうって聞いたけど、お姉ちゃんも一緒に行くの?」
彼女はさっき話をちゃんと聞いていなかったの?
私は微笑みながら「私は行かないわ」と答えると、雪奈もほっとしたように微笑む。
「よかった、お姉ちゃんがいなくなるのは寂しいよ~」
「私もあなたと離れるのは寂しいわ」
私は彼女を優しく見つめる。
食事の席では、私たちはいつも通りの席順で座った。
氷室真司は私の斜め向かいに座り、今夜は何度も私の方を見ていた。
食事後、氷室真司が提案してきた。
「お義父さん、久しぶりに囲碁でもどうですか?」
「いいぞ、二局やろう」
氷室尚人は嬉しそうに応じた。
前に千歳と菜々が氷室尚人を怒らせて以来、天宮雪奈は彼女たちをここに連れて来なくなった。
彼女は囲碁に興味がない。むしろ、氷室真司が囲碁をするのをあまり好ましく思っていないみたい。
それでも、何も言えずについていくだけだった。
氷室真司が将人に声をかけた。
「兄貴もどうですか?」
「お前たちだけでいい。俺は少し横になる」
将人は断り、私も将人と一緒に席を立ちたかったけど、氷室真司がすぐこちらを見て「汐里さんは囲碁できる?」と聞いてきた。
前に氷室尚人が私のことを「お嬢さん」と呼ぶのをやめて以来、真司も「汐里さん」と呼ぶようになった。
私も気兼ねなく、彼を名前で呼んでいる。
「少しは打てる」
「ちょうどいい、汐里も一緒に……」
氷室尚人が笑顔で私を誘った。
「この子はなかなかの腕前でな、ワシはもう長いこと勝てていない」
私はうなずいて参加することにした。
囲碁室に入ると、使用人がすでにお茶と果物を準備してくれて。
氷室真司と氷室尚人が向かい合い、私は自然と氷室尚人の後ろに立ち、天宮雪奈は氷室真司の後ろに立つ。
少し見ていると、氷室のおじいちゃんの腕前がそれほどではなく、真司がかなり手加減しているのがわかった。
私にとっては一目瞭然だったが、囲碁にまったく興味がなく、むしろ嫌気すら感じている天宮雪奈には、まるで読めない魔法書のようで、何が起きているのか全くわからない様子だった。
だから、私が冗談交じりに氷室尚人にアドバイスして場が和やかになる中、雪奈だけがどこか浮いていた。
「ここに置いちゃダメですよ……真司が罠を準備して待っています」
「おっと、危なかった」
氷室尚人は慌てて手を引いたた。
「ここに置いてください」
私が指差すと、彼はその通りに打ち、相手の石を大量に取り、尚人は大喜びで笑う。
「はは……真司、今のは読み間違えたか?」
「そうですよ。あと、二人がかりはずるいですよ」
氷室真司も思わず笑って冗談を返す。
「お前が強すぎるから、助っ人を呼んでもいいだろう?」
氷室尚人は年を重ねても勝負ごとには熱くなるタイプのようで、勝つためなら手段を問わない子どものようだった。
氷室真司もこんなに嬉しそうな氷室尚人を見るのは久しぶりだったようで、自然に笑顔を浮かべていた。
そして、私に向ける視線はだんだんと好意が混じるようになっていた。
最後は尚人が決め手となる一手を打ち、
「勝ったぞ!」
私とハイタッチして喜び、氷室真司も微笑みながら私たちを見ていた。
「雪奈、早く真司を慰めてあげて」
私はずっとスマートフォンをいじっていた天宮雪奈に声をかける。
天宮雪奈は私たちのやり取りに全く気づいていなかったようで、きょとんとした顔で真司を見上げた。
「どうしたの?」
彼女の無関心さと私の盛り上がりは対照的だった。
氷室真司は少し表情を曇らせた。
「何でもない、負けただけ」
すると天宮雪奈は氷室真司を抱きつき、ほっぺにキスして「あなた、がんばって!」と励まし、彼は作り笑いしながら天宮雪奈を軽く押しのけた。
彼女は気まずそうに姿勢を直した。
「お義父さん、もう一局どうですか?」
氷室真司が聞くと、彼は断った。
「いや、この勝ちを残しておきたい」
「もっと自信を持ってくださいよ。それに、このまま終わるのは…」
氷室尚人は頑として譲らず、最後には「汐里に代わってもらったらどうだ」と私を促した。
氷室真司はそれを待っていた。
「汐里さん、いいですか?」
「汐里、おじさんを助けてやってくれ。真司に勝つんだぞ」
氷室尚人はさらに促し、私は対面の席についた、
「真司さん、手加減してね」
「汐里さん、それは謙遜しすぎです」
この対局は、かなり長引いた。
氷室尚人は先に部屋を出て休みに行き、天宮雪奈も途中で立っているのが辛くなってきた。
私と氷室真司はほとんど言葉を交わさず、ひたすら碁盤に集中していた。
囲碁にまったく興味のない雪奈には、これ以上は耐えられなかった。
「真司、菜々が寝たくないて使用人が言うから、帰って様子を見てくるね」
「運転手に送らせるから先に帰って」
「お姉ちゃん、また今度家に遊びにきてね」と笑いながら、天宮雪奈は離れ。
「うん、またね」
私は彼女に手を振った。
囲碁室には私と氷室真司、二人だけが残った。
静まり返った空間で、お互いの息遣いまで聞こえるほど。
これが私と氷室真司の初めての本格的な対局だったが、彼の腕前は想像以上だった。
慎重に打ち進めながらも、本当の攻めを隠しているのが伝わってくる。
私もあえて攻めを急がずに進み、お互いに簡単には勝たせず。
もちろん、負けるのも嫌だった!
私がまたしても勝負手を見送ったとき、氷室真司が顔を上げた。
「汐里さん、もしかしてわざと譲っているですか?」
私はすぐに碁盤を見る。
「私、チャンスを逃したかしら?」
彼は微笑みながら、一手で私の石を大きく囲んで取る。
「今ここに打っていたら、あなたを攻めるチャンスもなかったですよ」
彼がそう言い終わり、私は黙っていた。
顔を上げると、頬が赤くなっていることに気づいた氷室真司は、先ほどの発言が少し曖昧だと悟ったのだろう、気まずそうに咳払いをした。
そのとき、彼が一手ミスをした、私は思わず笑った。
「これって逆転勝ちってことになるよね?」
氷室真司は私の笑顔を見て一瞬固まった。様々な人を接触してきた彼にとって、こんな無邪気な笑顔は久しぶりだったのかもしれない。
「真司さん、まだ続ける?」
彼の視線がどこか見惚れたみたいで、私はまた顔を赤らめ、下を向いて小さい声で彼の名前を呼んだ。
「ごめん、どう攻めるかを考えていた」
彼はすぐに我に返ってと謝って、私は笑って彼の噓を破らなかった。
私たちはこの勝負を心から楽しんでいた。特に彼はそうだった。
一局終えて、結果は引き分けだった。
「もうこんな時間か」
氷室真司が時計を見て呟いた。
「ぐぅ~」
私のお腹が鳴った。
「お腹すいた?」
「囲碁ってすごくエネルギー使うのよね」
私は照れながら笑い。
「囲碁でお腹が空くなんて初めて聞いたけど」
彼も笑いながら冗談を言った。
「人間のエネルギーは全部胃から来るのよ。あなたが強すぎて、全身の力を使っちゃったから」
「じゃあ、何かおごろうか?」
私は少しためらった。
「この時間に二人だけで出歩くのはよくないかも……」
「そうだね」
「それに、使用人たちも皆休んでるし……まあ、我慢するしかないね」
「俺が作るよ」
私は驚いて体が固まった。
彼は料理が得意ではない。でも昔二人で駆け落ちして苦労していた頃贅沢はできず、彼はあり合わせの具材でインスタントラーメンを作ってくれた。
私はそれを「世界一豪華なラーメン」とも呼んでいた。