氷室真司と駆け落ちしてからしばらくの間、彼は本当に優しかった。
天宮雪奈にそそのかされて家を飛び出したあの日、慌てていたせいで何ひとつ貴重品も持たず、貧しい暮らしが始まった。
美味しいものがあれば必ず私に先に食べさせ、私の食べ残しをやっと自分が口にする。
あの頃、この世界で一番私を大切にしてくれる人だと信じて疑わなかった。
でも今なら分かる、世の中の男は苦しい時ほど身近な女を手放さない。そう、まるで暗闇なかの光 。
裕福な家の生まれのお嬢様という立場を捨ててまで、私は彼と一緒になる道を選んび、彼の愛が本物だと信じて疑わなかった!
何て愚かだ!
今思えば、あの時の氷室真司は既成事実を作ってしまえば、両親も諦めて結婚を許してくれるだろうと図っていた。
そうなれば、記憶も財産もない彼が、一気に人生を逆転できる。
最初から彼自身のためだった、私は踏み台に過ぎない。
ただ彼も思わなかった、まさか自分は財閥の養子だと。
彼がどん底の暮らしをしていた頃から、氷室尚人のもとへ戻るまでの道のりをずっと私がそばで支えてきた。
人生で最もみじめだった時期を、私は誰よりもよく知っている。だからこそ、あとになって彼は私を人前に出さなくなり、だんだんと冷たくなっていった。
今キッチンの中で忙しそうな彼を見つめていて、
なんとも皮肉な光景だろう……
袖をまくってトマトを切るその姿、きっと天宮雪奈にもこんなことをしてあげたことがあるに違いない。
私が近づくと、彼は顔を上げ、額に汗が出た。
「待っててくれればいいよ」
そう言いながらも、私が彼の前に立ち、ネクタイを掴んでぐっと引き寄せると、彼の耳がほんのり赤く染まった。
私を見つめるその目は、まるで昔うちで療養していた頃の彼に戻ったみたい。薬を塗っている時も、彼の耳は赤くなっていた。
「しお……」
声を絞り出す彼の喉は少し枯れている。
私はさりげなく彼のネクタイに触れた。
「汗かいてるよ、ネクタイ外しておいたら?」
手早くネクタイを外し手に持つ。
彼は腰をかがめたまま、じっと私の目を見つめている。
「真司さん……」
「うん」
彼の優しく名前を呼ぶと答えてくれた。
「お湯、沸いてるよ。そろそろ麺を入れる?」
鍋の方を指差すと、彼は一瞬で我に返り、麺を入れ始めた。
私はその背中を見つめ、体はわずかに息が揺れている。
私に惹かれていた?
もし本当に私を愛したことがなければ、この顔にそんな反応はしないはず。
それとも、昔は本当に私を好きだったのだろうか?
まあ、そんなこともう重要ではない。
沸騰するお湯を見ていると、腕がむず痒くなる。
皮膚を移植したけど、時々生理的にかゆくなる。
みんなは、私の腕の傷は治らないと思っている。どんなに整形しても、昔のような白い肌には戻らないと。
実際、私は整形でなく皮膚移植をしたことを彼たちは知らない。
私は彼が切った肉を手に取り、鍋の上で高く持ち上げて落とすと、肉がスープの中に落ち、水しぶきが跳ねた。
私は思わず声を上げて後ずさる。
飛び散ったお湯が氷室真司の手や腕にかかった。
彼はすぐに私の方を向く。
「やけどしてないか?」
私は腕を押さえて首を振った。
「大丈夫。あなたこそやけどしてる!」
もちろん私は準備していたから、やけどなんてするはずがない。
でも彼は避けられず、油が浮いた鍋から跳ねたスープは、肌に当たってすぐに水ぶくれになった。
彼は自分の腕をちらっと見て、冷水で流しても、赤みは残ったまま。
「平気だよ」
私はひどく申し訳なさそうに謝った。
「ごめんなさい。私、余計なことしちゃったせいで……」
「料理とかしたことないんだろ?」
「うん。両親がキッチンに立たせてくれなかったから」
彼は麺をすくって器に盛り、
「ラーメンも茹でたことない?」
「ないよ」
「それなら納得だ」
彼はふっと笑った。
ラーメンがテーブルに並び、私たちは向かい合って座った。
「私、役立たずだと思う?」
「なんでそんなこと思うの?」
彼は笑いながら私の手を見る。
「こんなに綺麗な手で、しかも囲碁も強い。君は台所仕事なんてしなくていいんだよ」
「本当に?」
私は目を輝かせて、彼は真剣なまなざしで頷く。
「できる女性は、台所に縛られなくてもいい」
「でも、男の人って料理上手で家事もできる女性が好きなんじゃないの?子供や夫をしっかり支えるような……」
私は首をかしげて問いかけた。
「家事ができるからって、それだけで好きになる男はいないよ。家のことだけなら使用人で十分だ」
「じゃあ、男の人はどんな女性が好きなの?」
そう聞くと、彼は少し考えてから答えた。
「賢いけど純真無垢の自分を保ち、世間に染まらず、多才で自分らしさがある女性かな」
「ふーん、じゃあ雪奈さんはそんな女性なんだね!」
氷室真司は一瞬動きを止め、黙って私の手つかずのラーメンを見つめた。
「冷めちゃうから、早く食べよう」
「うん」
なるほどね、
昔、子供と料理だけに時間をかけ、彼の胃袋を掴もうと必死だったけど、彼にとってはただの使用人だったんだ。
「美味しい?」
彼が尋ねると、私は頷いた。
「こんなに美味しいラーメン、初めて食べた」
その瞬間、彼の目に久しぶりの満足そうな輝きを見た。料理を作り、誰かに褒められることも久しぶりだったでしょう。
さっきの様子からして、天宮雪奈も私と同じ道を辿ったみたい。念願叶って氷室真司と結婚したものの、家で良き妻良き母を演じ、二人の娘の世話に明け暮れている。
結局、彼の言う「使用人」に成り下がった。
その夜、ラーメンを食べ終わるともう深夜になっていた。氷室真司は帰らず、次の朝私と一緒に将人を空港まで見送りに行った。
彼は少し離れたところで、私と将人の別れをじっと見ていた。
「じゃあね。何かあったら連絡して」
将人は小声で私に告げた。
「うん、行ってらっしゃい!」
「あいつが見てるが」
私は少し迷ったけど、彼がゆっくり両手を広げたのを見ると、そのまま彼の腕の中に飛び込んだ。
「あいつとのボディータッチはダメ、調子に乗らせな、分かったか?」
彼は優しく耳元で囁く。
「うん、分かった」
将人が入った後、私は氷室真司と一緒に車に乗った。
運転手が前に座り、私と彼は後部座席に並ぶ。
私はずっと窓の外を見ていたが、彼は私をじっと見つめていた。
「兄貴と離れるのが寂しいの?」
しばらくして彼が話しかけてきて、私は頷くだけで、何も言わなかった。
彼の目には、私がとても悲しんでいるように映っていたのだろう。
「じゃあ、なぜ一緒に帰らなかったんだ?」
ラブラブなカップルなのに、どうして一人にしたのか、彼には理解できなかったのかもしれない。
「まだやることがあるから」
私は曖昧にそう答えた。
氷室尚人は本家で一緒に住むよう言われたけど、私は行かなかった。
一人の方が気楽で好きだから。
氷室真司は普段ならこの時間、とっくに会社に行っているはず。でも昨夜は着替えもせず、そのまま家に戻ってきた。
玄関に入ると、すぐに苛立った声が聞こえてきた。
「千歳、早く支度しなさい。遅刻するわよ!」
天宮雪奈の声だ。
「じゃあ髪を結んでよ!」
ソファに座ったまま千歳は動こうとしない。
「自分でやれるでしょう?」
「やだ!菜々には結んでくれたから私も!」
千歳は不機嫌そうに言い返す。
「妹より年上でしょう?なんで私にばかり頼るの?お手伝いさんにやってもらいなさい!」
「嫌だ。お母さんじゃなきゃ嫌!」
食事中の菜々の髪を結んでいる雪奈は、このまま遅刻そうと気づいて切れた。
「氷室千歳、いい加減にしなさい!さっさと髪を結ばないと叩くわよ!」
そして妹を見下ろした。
「服にご飯こぼして……朝着替えたばかりなのに、なにやってるの?このクズ!」
氷室真司は眉をよせていた。こんなに大声で叫ぶ雪奈を見るのは初めてだった。