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第71話 苦肉の策

差出人が天宮雪奈であることに気づくと、氷室真司は少し眉を寄せた。


「無理して行く必要はない。行きたくなければ断ってもいい。」


私は少し困った表現を見せる。


「大丈夫かな?雪奈さん、怒ったりしない?」


「大丈夫だ。」


そう言うと、彼は秘書に向き直る。


「お断りするようお願いします。」


秘書は一度こちらに視線をよこし、私が何も言わないのを確かめると、静かに部屋を出ていった。


仕事に戻ろうとしたが、氷室真司の様子は明らかに先ほどまでと違い、どこか落ち着きがない。


正直に言うと仕事に集中することは流石にもうできない 。

天宮雪奈が私に天宮家への招待をしてくるとは、まったく予想していなかった。

彼女はいったい何を企んでいるの?


考え込んでいると、秘書が再びノックしてから入ってきた。


「相沢社長、天宮さんがどうしても帰らず、ぜひ一度お会いしたいとおっしゃっています。」


そう言って、氷室真司の方をちらりと見た。


氷室真司の表情は沈んだ。おそらく彼にとっても完全に予想外の展開だったのだろう。

しかも、天宮雪奈は氷室真司がここにいることを知らないはずだ。


「一度私が会いに行きましょうか?」


私は彼の様子をうかがいながら、そう声をかけた。

けれど真司は首を横に振る。


「いや、雪奈はすぐに帰るさ。」


その口調は固く、揺らがなかった。


私は秘書に目を向く。


「承知いたしました。対応いたします。」


そう言うと、彼女は静かにうなずいて部屋を後にした。


私は再び資料に目を落とし、仕事に意識を向けようとした。

けれど真司はソファに座ったまま、どこか複雑な表情で黙っている。


しばらくして、もう天宮雪奈は帰っただろうと思った時、突然下のフロアから大きな声が響いた。


「お姉ちゃん!」


まだ帰っていなかった!


私は思わず手にしていたペンを置いた。


「お姉ちゃん、本当にごめんなさい! すべて私の勘違いだったの。どうか許して……!」

「私が悪かったの!本当にごめんなさい!」

「お願い、一度だけでいいの。謝らせて……」

「お姉ちゃん……!」





天宮雪奈は、何度も私の名を呼んでいた。


本当に謝るために来たの?

そんなはずがない。

私は微塵も信じていない。


窓際へ歩き、外を見下ろす。

三階建てのオフィスビルの前、強い日差しの下に雪奈の姿がはっきりと見える。


氷室真司はソファから動かず、何を考えているのか、その表情からは読み取れなかった。

私は彼に背を向けたまま、静かに問いかける。


「あなたが雪奈さんに謝りに来たの?」


彼は首を振った。


「いや、俺じゃない。」


まだ何も言ってないのに、どうして突然来たのか ……


私はうなずき、それ以上は何も言わなかった。

しばし沈黙が流れた後、真司がぽつりと口を開いた。


「昨日……俺はかなり頭にきてて、彼女のことほとんど無視してた。今日帰ってからちゃんと話すつもりだったんだ。」


え?それは私への説明?

私を怒らせたくないから?


私は感情を抑え淡々と返す。


「もともと謝らせるつもりなんてなかった。」


「君には……嫌な思いをさせたのは分かってる。」


そして私を見上げて、真剣な眼差しで続けた。


「彼女が謝るのは当然だ。でも……こんなやり方はよくない。」


これでは無駄に注目を集めるだけだ。


たぶん、それこそが天宮雪奈今日来た狙い、周囲に見せつけたいのだろう。

少しでも事情を知っている人間なら、要するに女同士の揉め事、しかも男を巡る厄介なトラブルだとすぐ察する。

そうなると、悪くなるのは私の評判。


氷室真司ほどの男がそれに気づかないはずがない。

けれど、天宮雪奈は叫ぶのをやめ、ただじっと日差しの下に立ち尽くしている。


私はかえって戸惑いを覚えた、彼女は一体何を図っているのかを。





その後、私の指示で二時間ほどしてから法務部から契約書が届き、署名して氷室真司に手渡した。


「ペンを貸してくれ。」


私は無言でペンを差し出す。

彼は一切目を通すことなく、スラスラとサインした。


「氷室社長、確認もしないでサインして大丈夫なんですか?」


そう問いかけると、彼は私を真っ直ぐに見る。


「君を信じている。」


「ありがとう。」


今日は雲ひとつない快晴で特に暑い。


天宮雪奈はもう外で三時間近くも立ち続けている。


「氷室社長、雪奈さん……あのままだと倒れてしまいます。下に行って彼女を家に連れて帰った方がいいかと……」


すこし止まって言い続けた。


「それに、あなたは契約のために来ているのだから、彼女も誤解しないでしょう。」


真司は何も言わず、窓際に歩み寄って下を見下ろした。

照りつける太陽の下で、天宮雪奈の長い髪は汗に濡れて頬に貼りついている。

さすがに氷室真司も動揺した。どんなに腹が立っても、一度は自分が大切にしてた女だ。


「雪奈を連れて帰る。今日は迷惑をかけた。」

と、私にそう言った。


この言葉が彼自身のためなのか雪奈のためなのか、私には分からなかった。


私は彼を玄関まで見送り、ちょうど秘書が駆け寄ってきた。


「相沢社長、天宮さんが倒れました!」


氷室真司の表情が一変して、急いで階段を駆け下りていく。


私も少し遅れて後を追った。

これだけの騒ぎになって、顔を出さないわけにはいかない。


一階に降りると、氷室真司が天宮雪奈を腕に抱きかかえていた。


天宮雪奈は必死に彼の服をつかみ、私を見つめて言った。


「真司、私は帰らない……お姉ちゃんにどうしても伝えたいことがあるの。」


また「お姉ちゃん」と呼び始めた。

彼女は氷室真司に支えられながらこちらに歩き、彼の焦りがひしひしと伝わってくる。


天宮雪奈はふらつきながらも彼に寄りかかり、スタッフもすでに傍で日傘をさしかけている。

顔は青白く、汗でびっしょり。完全に消耗しきってるみたい。


彼女は私に手を伸ばしてきたが、私はその手を取らなかった。


「お姉ちゃん、この前は本当に私が悪かったの。昨日は一睡もできなくて……やっと気づいたの。私、真司のことが失いたくなかったから、お姉ちゃんを疑ってしまった。」


彼女は熱中症で体が震えている。


「もういい、早く病院に連れていって。」


私はそれ以上関わりたくない。


氷室真司は彼女を抱え立ち去ろうとするが、彼女は拒んだ。


「真司、お姉ちゃんがまだ許していない、私は帰らない、帰っちゃダメ!」


氷室真司は彼女を止めた。


「謝るのはまた今度にしよう。今は自分の体が大事だ!」


そして彼は天宮雪奈の頬の痕を見て、さらに胸が苦しくなった。

私もそれ気づいていた。それは昨晩彼が叩いたんだ。


作業員たちもこっちの様子をうかがい、上の階の社員たちも窓越しに視線を送っている。

これ以上騒ぎが広がるのは避けなければならないと私は判断した。


「私も一緒に病院へ行くわ。車の中で話しましょう。」


天宮雪奈は慌てたように首を振る。


「そんな、ご迷惑なんて……」


私は真司に視線を向け、「早く行きましょう」と促した。


天宮雪奈の目はすでに虚ろで、意識が遠のきかけていた。

氷室真司は彼女を抱えて車に乗り、私は助手席に座った。


車が動き出すと、雪奈はか細い声でぐったりしながら口を開いた。


「お姉ちゃんがあまりにも優秀だから、自分が何もできないように思えて……羨ましくて、ちょっと嫉妬たの。」


「真司に嫌われるのが怖かった。捨てられるんじゃないかって思うと、怖くて……娘たちにも父親が必要なの……」


「でも……お姉ちゃんがそんなことをする人じゃないって、ちゃんと分かってた。

あんなに頭が良くて性格もいい人が、他人の夫なんて奪うはずないよね。将人さんだって素敵な人だし……」


「だから……全部、私が悪かった。本当に……ごめんなさい、お姉ちゃん……許してくれる?」


そう言いながら、彼女はバッグの中から招待状を取り出し私に差し出した。


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