差出人が天宮雪奈であることに気づくと、氷室真司は少し眉を寄せた。
「無理して行く必要はない。行きたくなければ断ってもいい。」
私は少し困った表現を見せる。
「大丈夫かな?雪奈さん、怒ったりしない?」
「大丈夫だ。」
そう言うと、彼は秘書に向き直る。
「お断りするようお願いします。」
秘書は一度こちらに視線をよこし、私が何も言わないのを確かめると、静かに部屋を出ていった。
仕事に戻ろうとしたが、氷室真司の様子は明らかに先ほどまでと違い、どこか落ち着きがない。
正直に言うと仕事に集中することは流石にもうできない 。
天宮雪奈が私に天宮家への招待をしてくるとは、まったく予想していなかった。
彼女はいったい何を企んでいるの?
考え込んでいると、秘書が再びノックしてから入ってきた。
「相沢社長、天宮さんがどうしても帰らず、ぜひ一度お会いしたいとおっしゃっています。」
そう言って、氷室真司の方をちらりと見た。
氷室真司の表情は沈んだ。おそらく彼にとっても完全に予想外の展開だったのだろう。
しかも、天宮雪奈は氷室真司がここにいることを知らないはずだ。
「一度私が会いに行きましょうか?」
私は彼の様子をうかがいながら、そう声をかけた。
けれど真司は首を横に振る。
「いや、雪奈はすぐに帰るさ。」
その口調は固く、揺らがなかった。
私は秘書に目を向く。
「承知いたしました。対応いたします。」
そう言うと、彼女は静かにうなずいて部屋を後にした。
私は再び資料に目を落とし、仕事に意識を向けようとした。
けれど真司はソファに座ったまま、どこか複雑な表情で黙っている。
しばらくして、もう天宮雪奈は帰っただろうと思った時、突然下のフロアから大きな声が響いた。
「お姉ちゃん!」
まだ帰っていなかった!
私は思わず手にしていたペンを置いた。
「お姉ちゃん、本当にごめんなさい! すべて私の勘違いだったの。どうか許して……!」
「私が悪かったの!本当にごめんなさい!」
「お願い、一度だけでいいの。謝らせて……」
「お姉ちゃん……!」
天宮雪奈は、何度も私の名を呼んでいた。
本当に謝るために来たの?
そんなはずがない。
私は微塵も信じていない。
窓際へ歩き、外を見下ろす。
三階建てのオフィスビルの前、強い日差しの下に雪奈の姿がはっきりと見える。
氷室真司はソファから動かず、何を考えているのか、その表情からは読み取れなかった。
私は彼に背を向けたまま、静かに問いかける。
「あなたが雪奈さんに謝りに来たの?」
彼は首を振った。
「いや、俺じゃない。」
まだ何も言ってないのに、どうして突然来たのか ……
私はうなずき、それ以上は何も言わなかった。
しばし沈黙が流れた後、真司がぽつりと口を開いた。
「昨日……俺はかなり頭にきてて、彼女のことほとんど無視してた。今日帰ってからちゃんと話すつもりだったんだ。」
え?それは私への説明?
私を怒らせたくないから?
私は感情を抑え淡々と返す。
「もともと謝らせるつもりなんてなかった。」
「君には……嫌な思いをさせたのは分かってる。」
そして私を見上げて、真剣な眼差しで続けた。
「彼女が謝るのは当然だ。でも……こんなやり方はよくない。」
これでは無駄に注目を集めるだけだ。
たぶん、それこそが天宮雪奈今日来た狙い、周囲に見せつけたいのだろう。
少しでも事情を知っている人間なら、要するに女同士の揉め事、しかも男を巡る厄介なトラブルだとすぐ察する。
そうなると、悪くなるのは私の評判。
氷室真司ほどの男がそれに気づかないはずがない。
けれど、天宮雪奈は叫ぶのをやめ、ただじっと日差しの下に立ち尽くしている。
私はかえって戸惑いを覚えた、彼女は一体何を図っているのかを。
その後、私の指示で二時間ほどしてから法務部から契約書が届き、署名して氷室真司に手渡した。
「ペンを貸してくれ。」
私は無言でペンを差し出す。
彼は一切目を通すことなく、スラスラとサインした。
「氷室社長、確認もしないでサインして大丈夫なんですか?」
そう問いかけると、彼は私を真っ直ぐに見る。
「君を信じている。」
「ありがとう。」
今日は雲ひとつない快晴で特に暑い。
天宮雪奈はもう外で三時間近くも立ち続けている。
「氷室社長、雪奈さん……あのままだと倒れてしまいます。下に行って彼女を家に連れて帰った方がいいかと……」
すこし止まって言い続けた。
「それに、あなたは契約のために来ているのだから、彼女も誤解しないでしょう。」
真司は何も言わず、窓際に歩み寄って下を見下ろした。
照りつける太陽の下で、天宮雪奈の長い髪は汗に濡れて頬に貼りついている。
さすがに氷室真司も動揺した。どんなに腹が立っても、一度は自分が大切にしてた女だ。
「雪奈を連れて帰る。今日は迷惑をかけた。」
と、私にそう言った。
この言葉が彼自身のためなのか雪奈のためなのか、私には分からなかった。
私は彼を玄関まで見送り、ちょうど秘書が駆け寄ってきた。
「相沢社長、天宮さんが倒れました!」
氷室真司の表情が一変して、急いで階段を駆け下りていく。
私も少し遅れて後を追った。
これだけの騒ぎになって、顔を出さないわけにはいかない。
一階に降りると、氷室真司が天宮雪奈を腕に抱きかかえていた。
天宮雪奈は必死に彼の服をつかみ、私を見つめて言った。
「真司、私は帰らない……お姉ちゃんにどうしても伝えたいことがあるの。」
また「お姉ちゃん」と呼び始めた。
彼女は氷室真司に支えられながらこちらに歩き、彼の焦りがひしひしと伝わってくる。
天宮雪奈はふらつきながらも彼に寄りかかり、スタッフもすでに傍で日傘をさしかけている。
顔は青白く、汗でびっしょり。完全に消耗しきってるみたい。
彼女は私に手を伸ばしてきたが、私はその手を取らなかった。
「お姉ちゃん、この前は本当に私が悪かったの。昨日は一睡もできなくて……やっと気づいたの。私、真司のことが失いたくなかったから、お姉ちゃんを疑ってしまった。」
彼女は熱中症で体が震えている。
「もういい、早く病院に連れていって。」
私はそれ以上関わりたくない。
氷室真司は彼女を抱え立ち去ろうとするが、彼女は拒んだ。
「真司、お姉ちゃんがまだ許していない、私は帰らない、帰っちゃダメ!」
氷室真司は彼女を止めた。
「謝るのはまた今度にしよう。今は自分の体が大事だ!」
そして彼は天宮雪奈の頬の痕を見て、さらに胸が苦しくなった。
私もそれ気づいていた。それは昨晩彼が叩いたんだ。
作業員たちもこっちの様子をうかがい、上の階の社員たちも窓越しに視線を送っている。
これ以上騒ぎが広がるのは避けなければならないと私は判断した。
「私も一緒に病院へ行くわ。車の中で話しましょう。」
天宮雪奈は慌てたように首を振る。
「そんな、ご迷惑なんて……」
私は真司に視線を向け、「早く行きましょう」と促した。
天宮雪奈の目はすでに虚ろで、意識が遠のきかけていた。
氷室真司は彼女を抱えて車に乗り、私は助手席に座った。
車が動き出すと、雪奈はか細い声でぐったりしながら口を開いた。
「お姉ちゃんがあまりにも優秀だから、自分が何もできないように思えて……羨ましくて、ちょっと嫉妬たの。」
「真司に嫌われるのが怖かった。捨てられるんじゃないかって思うと、怖くて……娘たちにも父親が必要なの……」
「でも……お姉ちゃんがそんなことをする人じゃないって、ちゃんと分かってた。
あんなに頭が良くて性格もいい人が、他人の夫なんて奪うはずないよね。将人さんだって素敵な人だし……」
「だから……全部、私が悪かった。本当に……ごめんなさい、お姉ちゃん……許してくれる?」
そう言いながら、彼女はバッグの中から招待状を取り出し私に差し出した。