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第70話 雪奈の頼み事

凛音はきょとんとした。


「氷室社長、今回は補足契約の書類だけなので、ご自身で行かれなくても……」


だが真司はすぐ立ち上がり駐車場に行こうとした。


「相沢社長と他にも話がある。」


凛音は眉を寄せる。


「でも午前十時には村上社長との会談がスケジュールに入っており、もうこちらに向かっている最中です。」


氷室は振り返らず低い声で言った。


「適当な理由をつけ予定をずらしてくれ。」


「氷室社長!」


思わず呼び止めた凛音に彼は不機嫌そうな表情を向けた。


「佐倉凛音、自分の仕事にだけ集中しろ。」


その冷ややかな声に凛音は言いかけた言葉を飲み込むしかなかった。





エレベーターのドアが閉まるのを見届けてから、凛音はふっと小さくため息をついた。


この五年間、彼の秘書として常に近くで仕えてきたけれど、氷室真司がこれほどひとりの女性に心を乱される姿を見たのは初めてだった。


そのとき、雪奈から連絡が来た。


あの日、一緒に実家に戻って以来の連絡。

正直、あのとき突き飛ばされたことは今でも胸に残っている。ましてや、相沢汐里とは友人ですらなかったのに、なぜか助けられた。


そして、あのとき彼女が言った言葉がずっと耳の奥に残っている。

ほんの小さな棘のように、心に刺さったまま。


しばらくためらい、凛音は電話を取った。


「もしもし、凛音?あのね……ずっと凛音に連絡したかったけど、なんだか怖くて……まだ怒ってる?」


雪奈は申し訳なさそうな声が届かれた。


「怒ってなんかないよ。なんでそんなふうに思うの?」


「この前は私が悪かった。本当にごめんなさい。今日のお昼ラクサレストランで一緒にご飯しよう?相談したいことがあるの。」


「ごめん、今日はちょっと忙しくて……あのことは気にしないで、ほんとに平気だから。」


もし、以前だったら。凛音はきっと断らなかっただろう。

けれど今日彼女は知らずのうちに拒んでいた。


その沈黙に、雪奈の不安の声が返ってくる。


「凛音が来てくれないってことは、やっぱり怒ってるんだよね……?」


「違うの、本当にただ忙しいだけ。」


「じゃあ私から真司に声をかけて、凛音に休みを取ってもらうよう頼むから」


そのひと言に凛音は観念した。


「わかった。」





昼休み


雪奈は人より早くレストランに入り、静かな個室を押さえていた。


どんな目的か分からないけど、天宮雪乃が亡くなった後、真司は密かに佐倉凛音を探していた。


それを知った雪奈はすぐに真司にこう言った。

「凛音はお姉ちゃんの唯一の親友、今は足も不自由で可哀想すぎる。どうか助けてあげて!」


真司はすぐに了承し、凛音に仕事を用意した。

さらに雪奈は真司のアシスタントになるよう頼み、真司は快くも受け入れた。


もちろん、すべてが善意からだったわけではない。

真司が元々その考えがあると雪奈は気づいた。


最初は嫌な気持ちで一杯だったが、母の言葉が彼女の背中を押した。

――借りっていうのは貸すもの。凛音に恩を着せておけば、いざという時真司のそばで目になってくれる。


その言葉で、雪奈は凛音を見つけ出し、何度も天宮雪乃の代わりに頭を下げ、涙まで流した。

やがて、凛音は感謝の気持ちを持ち、真司の秘書になった。


本当のところ、雪奈は未だに凛音のことを嫌がっている。





凛音が到着した。


雪奈はすぐに立ち上がり、涙を浮かべながら彼女の手をつないだ。


「凛音、本当にごめんなさい……この前のことずっと謝りたくて……」


凛音はかつて自分を救ってくれた雪奈の恩ずっと肝に銘じていて、雪奈が謝ってすぐ彼女を許した。


二人は向かい合って席につき、ゆっくりとランチを始めた。


しばらくして、凛音は雪奈の頬に薄く残る赤みを見けて小声で聞いた。


「また氷室社長と喧嘩したの?」


雪奈は弱々しく笑い、潤んだ瞳を伏せた。


「もう負けた、あの女には敵わない。真司は私と離婚しようとして、もう家にも帰ってこないの。」


こういう男を凛音は誰よりも嫌っている。

かつて自分を裏切った元恋人の姿がそんなクズ男だった。


「氷室社長がそんな人とは思えない。第一、相沢汐里は氷室将人の婚約者、そんな間抜けことするはずがない。」


慰めるようにそう言うのが精一杯だった。


雪奈は静かにため息をつき、涙を指でぬぐいながらつぶやいた。


「彼がどう思うかは知らない……私は絶対に離婚できない、子どもたちにお父さんが必要なの!お願い凛音、助けてくれない?」


「私に何が……? それはあなたと氷室社長のことでしょ?」


戸惑う凛音に、雪奈はそっと彼女の手を握った。


「無理は言わないわ。ただもしあの二人がどこかで会ってたり何かあったなら、前もって知らせてほしいの。心の準備だけでもしたい。」


そして、雪奈の目が凛音をまっすぐに射抜いた。


「私はどうしてもこの生活を守りたい。凛音のことは実の姉のように思ってる。もしそうじゃなかったら、前科があって足の悪いあなたを真司のアシスタントに推薦したりしなかった。」


それは凛音にとって一生返しきれない恩、彼女はどうしても断ることができない。


「親友って助け合うものでしょ? 自分の大切な友達がいじめられ、幸せな家族がバラバラになるのを黙って見ていられるの?」


雪奈はさらに彼女の手を握締めた。


やがて凛音は同意した。


「……わかった。」


ようやく雪奈は自分の目的を果たした。


「氷室社長……今会社にはいない……」


凛音の曖昧な言葉に雪奈はすぐ分かった。


「相沢汐里に会いに行ったのね?」


凛音はなずいた。


「どこに?」


「彼女の会社!」





氷室真司は予想通りここへ来た。


植物の面倒を見終わった後、駐車場に氷室真司の車が停まっていることに気づいた。


彼は車を降りそのままビルの中へと姿を消す。

オフィスに入ると秘書がタイミングよくコーヒーを用意して彼に差し出していた。

私を見かけた瞬間彼は立ち上がり、何とも言えない複雑な表情にいた。


その目は深く、何かを確かめるような暗い色を帯びていた。


「ただの補足契約なのに、氷室社長自らいらっしゃるとは……どういう風の吹き回しですか?」


日焼け防止の帽子と上着を外し、手際よくたたみながら彼の前へ歩いた。


「昨日帰ってから氷室将人は君を困らせるようなことをしなかったか?」


もう「兄貴」ではなく、フルネームで呼び捨てか……


「もうありません。」


短く答えると、彼は何も言わずにポケットから塗り薬を取り出した。


「これ、昨夜買っておいて……」


「傷はもう大丈夫です!」


私はその薬を受け取ることなく手を振った。


けれど、彼は手を引っ込めることなく、むしろ真剣な眼差しで私を見つめてきた。


「受け取れ。それとも、俺が塗ってやろうか?」


「こ、ここ会社です……!」


私は思わず声をひそめ視線を逸らした。

その私の反応に、彼は口元を緩め、まるで私が慌てる様子を楽しんでいるかのように。


「それで契約書はどこですか?」


塗り薬を手に持ち、話題を変えるようにして尋ねる。


彼は鞄の中から契約書を渡し、私は秘書を呼んできた。


「これを法務部に確認してもらうように。」


秘書が契約書を受け取って部屋を出て行った後、私は氷室真司に視線を戻す。


「氷室社長は先にお戻りなっても大丈夫です。こちらが確認済み次第署名してお送りします。」


けれど彼は首を振り微笑んだ。


「ここで待つよ。」


「氷室社長はお忙しいのでは?」


「その後スケジュールはないんだ。ちょうど苗木の様子も見に行こうと思う。」


それ以上追い出すこともできず、受け入れるしかいない。


「ではご自由に。私はまだ仕事がありますので、失礼いたします。」


とだけ返し、自分の机に戻り仕事し始める。




真司はソファに腰を下ろし、ゆったりとコーヒーを飲みながら無言で女性の方をじっと見つめていた。


女性が仕事をしている姿を見るのは、氷室真司にとってこれが初めてのこと。


これまでどんなに有能な女性であっても、どうせ男には敵わないと心のどこかで決めつけていた。

女は男の付属品、顔さえ良ければいい。


だが目の前で仕事をこなす相沢汐里を見て、その認識が少しずつ揺らぎ始めた。


広い視野、冷静な判断力、明確な指示……

そのひとつひとつが普段の彼女とは全く違って、彼の中にある女性像を覆していった。

段々と生き生きした彼女は、彼の世界を変える存在なのだと。




その時、オフィスのドアがノックされた。


「相沢社長、外から招待状が届きました。」


秘書が一礼して入ってきた。


私はそれを受け取り、封を開けると視線が自然と氷室真司へ向かった。


彼は違和感を覚え、招待状の内容をじっと見つめた。


差出人――天宮雪奈


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