拓郎の一言で津紀子と雪奈二人は一瞬言葉を失った。
津紀子は信じられない様子で夫を見つめた。
「どういうこと?土地がなくなったって?昨日手続きに行ったんじゃないの?」
拓郎は顔をこわばらせ、つかえたように答える。
「確かに手続きには行った。今日は最後の、しかも一番大事な名義変更だけが残っていたんだ。朝約束通りに行ったのに、真司が来なかった!電話で確認したら、向こうはなんて言ったと思う?」
拓郎は憤然と雪奈を見つめた。
津紀子が急いで尋ねる。
「なんて?」
「氷室社長は昨夜怒りで倒れてしまい、今は手続きできない!」
拓郎はその言葉を発した瞬間、怒りをあらわにし、声が震えていた。
津紀子は眉をひそめ、再び彼を見つめる。
「誰のせいで怒ったか聞かなかったの?真司に直接電話してみたらどう?」
「向こうがはっきり言った。夜に怒って倒れたって、家で誰に怒るって言うんだ?俺だって何があったか分からない、どう聞けばいいんだ?」
そう言って、拓郎は雪奈を見る。
「今回は一体何があった?」
雪奈はもともと納得のいかない気持ちでいっぱいだったのに、幼い頃から甘やかされてきた父に怒鳴られ、堪えきれずに泣きながら昨晩の出来事を全て話した。
雪奈の話を聞き終えた拓郎と津紀子は険しい顔になった。
「つまり、あの女が真司を誘惑したって?真司がそんなことをする人間とは思えないが……」
拓郎が言うと、津紀子は冷たく鼻で笑う。
「あの男は昔、あなたの長女を連れて駆け落ちしたでしょう。まともな人間だとでも?自分の義姉にまで手を出して、本当に恥知らずだわ!」
拓郎は津紀子に目を向けた。
「それで?娘を離婚させたいのか?今どき、男の周りにちやほやする女がいないわけないだろう。氷室真司みたいな男なら、なおさら一人の女だけを愛し続けるわけがない。」
津紀子は黙り込む。
「私は離婚なんてしたくない。負けたくないの。私は氷室家の嫁よ、この先もずっと!」
雪奈は泣きながら訴えた。
津紀子は深呼吸して気持ちを落ち着かせた。彼女もまた娘を真司と離婚させたくはなかった。日本で氷室真司ほどの財力と地位のある男はいない。
ここ数年、彼女が氷室真司の義母であることで、誰もが彼女に敬意を払い取り入ろうとしてきた。
天宮家も山德グループの後ろ盾があったからこそ、今の地位と財産を手に入れたのだ。
考えを巡らせた津紀子は、すぐに策を思いついた。
「離婚したくないなら、これ以上真司と揉めちゃダメよ。男はやきもち焼く女が一番嫌いなんだから。」
雪奈は母をじっと見つめる。
「でも、真司があの女とあんなに親しくしてるのに、どうして私のせいになるの?」
「たとえそうでも、騒ぎ立てちゃダメ。むしろ真司にあなたの良さをもう一度思い出させて、彼の心を取り戻すのよ。あの女から真司を取り返してみせなさい、わかった?」
津紀子は何かを図っているような顔をした。
雪奈は唇を噛んで尋ねる。
「じゃあどうすればいいの?」
「あの頃真司をどう魅力したのかを思い出して。彼はあなたのどこを好きになったの?」
「優しくてや美しい見た目、気配りや多才なところを、いつも褒めてくれた。」
津紀子はうなずき、更に続ける。
「じゃあ、あの恥知らずな姉がどうやって真司に嫌われていったかも考えて。」
「何が姉だ。家には雪奈しか娘はいない。あんな恥をさらす人のことなんてもう話すな!」
拓郎が突然口を挟んだ。
雪奈は拓郎を一瞥くれた。
「真司は、面白みがなくて、男に依存しているアリみたいで、すごく嫌だったって言ってた。しかも浮気までした!」
「だから、あなたは絶対に同じ道を歩んじゃダメ。優しく、思いやりがあって、さらに美しくにいないと。
真司があの女を気に入ってるなら、あなたもあの女を気に入るふりをして、少しずつ彼女の仮面をはがすのよ。真司が本当の姿を見た時、まだ彼女を好きでいられると思う?
それに、あの女は氷室将人の婚約者よ。真司は分別のある人だから、どんなに夢中になっても本気になることはないわ。男って、凧みたいなもの。糸を締めすぎると逃げたくなるけど、少し緩めて自由にさせておけば案外戻ってくるものよ。」
雪奈は津紀子の言葉を聞いて安心した表情になった。
「やっぱりお母さんは頼りになるわ。」
突然、拓郎は険しい顔で雪奈に向けた。
「とにかく、早く真司と仲直りしろ。あの土地は三日以内に名義変更しなきゃ、うちは破産だ!」
「わかった!」
彼女は津紀子に向き直る。
「お母さん、これからどうしたらいい?私一人で家に戻ればいいの?」
津紀子は少し考え込んだ。
「もちろん、ただ戻るだけじゃダメ。真司にあなたの大切さを思い出させるのよ。彼があの女のことで気が気じゃないなら、まずはその女から攻めるの。」
「どうやって?」
津紀子はにっこりと笑って答える。
「あの女、天宮雪乃にそっくりなんでしょ?だったら私が主催で彼女を招待する。ちょうど、どんな女か見極めてやる。」
雪奈は心配そうに言う。
「でも、もし来てくれなかったら?」
津紀子は雪奈を見て冷静に言った。
「それはあなた次第よ。真司のいる前で、自分で彼女を招待しなさい。本気でお願いして、断られても外で待ち続けるの。彼女が承諾するまで、一日でも二日でも!その姿を真司に見せて、あなたの誠意を伝えるのよ。」
雪奈はうなずいた。
「わかった、お母さん!」
津紀子は考え込みながら言った。
「それと雪奈、早く真司の子ども、特に男の子を産みなさい。ああいう家は跡取りがいないと落ち着かないものよ。あなたが息子を産めば、もうあの小娘のことなんて気にしなくなるから。」
雪奈は困った顔になる。
「お母さん……」
真司に子どもを作れない事情は、雪奈が津紀子にだけ打ち明けていた。
だが、拓郎はそのことをまだ知らない。
津紀子はそれに察し、雪奈の手をそっと撫でた。
「大丈夫よ。お母さんがなんとかしてあげる。」
雪奈はその言葉に安心した。
この世で、お母さんが解決できないことはない!
山德グループ
この日、朝早くから真司は会社に出勤していた。
オフィスに着き腰を下ろすと、しばらく携帯を手にしたまま画面を見つめていた。
通話履歴をスクロールしながら、指先は彼女の名前のところで止まる。
それでも、なかなか通話ボタンを押せない。
「社長、皆さんお集まりました。」
「……わかった。」
携帯を机に置き、無言のまま会議室へと向かう。
約二時間にも及ぶ会議だったが、彼はほとんど口を開かなかった。
頭から離れないのは、昨夜の彼女の怯えた目、こぼれる涙。
胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
会議を終えた氷室はオフィスに戻り、再び携帯を手に取る。
だが、画面に並んだ不在着信と未読メッセージのどれも、彼女からのものではなかった。
失望とどうしようもない不安が重くのしかかる。
迷いながらも、彼はようやく短いメッセージを送った。
「元気か?」
その頃、私は庭の花壇で黙々と土いじりをしていた。
着信音が鳴り、手に取った携帯の画面には「氷室真司」が見えた。
メッセージを読んで、私は何もせずに携帯の電源を切った。
返事を待ち続けていた真司はひたすら返信を待ち続けている。
昨夜、氷室将人が彼女を叩いてしまった瞬間が何度も脳裏に浮かんでは消えない。
思わず拳を握りしめる。
あんなに優しい彼女に、どうしてあんなことができる!
もし氷室将人がまた同じようなことをしたら……
彼女は今度こそ夜中に家出しまうかもしれない。
ここで彼女を守ってくれる者は誰もいない。
そう考えると、胸がまた締めつける。
でも、彼女からの返信は来ない。
そんな時ドアがノックされた。
「氷室社長、森島グリーンとの追加契約書です。法務部の確認も済んでおりますので、ご確認の上で担当者に森島グリーンに行って手続きを進めます。」
凛音が手にした書類を差し出す。
真司は一通り目を通し机の上に置いた。
「俺が直接行く。」