予想していた通り、天宮雪奈は何の説明も聞かずに私へ襲いかかってきた。
その瞬間、氷室真司の怒りは明らかに頂点に達した。
特に、私が怯えたように傷ついた様子でいるのを見たとき、彼の中に眠っていた庇護欲が刺激出された。
天宮雪奈の前に立ちふさがると、容赦なく平手で二発叩きつけた。
「もうやめろ!」
天宮雪奈は呆然とし、何かあったか分からないように、その場でふらつきながらぐるぐると回ったあと、突然大声で泣き出した。
「氷室真司!この女のために手をあげるなんて!」
涙を浮かべながら、半ば錯乱したように叫ぶ。
「どうせもう恥なんて捨てたんでしょ!?だったら私だって遠慮しない!今すぐ氷室将人に全部バラしてやる。自分の婚約者たる女が他人の夫を誘惑し、どれだけ下劣かってこと教えてやる!!!」
彼女は怒りに任せて建物中へと歩き出そうとした。
だが、氷室真司がそれを許すはずもない。
彼は無言で雪奈の腕をつかみ、力任せに引き戻したかと思うと、そのまま床へ突き飛ばす。
「……ふざけるな、天宮雪奈!」
空気が凍りつく。二人の間に漂うのは、今にもぶつかり合いそうな剣呑な気配。
それを感じ取り、私は静かにその場を離れることにした。
「……雪奈さんとちゃんと話してあげて。手は出さないでね、私は先に中に戻っる。」
そう言い残し、離れようと決め。
天宮雪奈はそれでも追いかけてきて、私を止めようとしたが、すぐに氷室真司が彼女を押さえ込み、後へ連れて行った。
私はゆっくりと光がある方へ歩き出した。
胸の奥には、ほんの少しだけ満足感が残っている。
ほどなくして、将人が近づいてくる。じっと私を見つめながら尋ねた。
「……ケガはしてないか?」
私は首を振った。
「あなたの一発以外は、何もないわ。」
将人は一瞬ぽかんとした顔をして、それから慌てるように私のあとを追ってきた。
「怒っていた?」
私は答えなかった。
正直、少し腹が立っていた。
あの場で手を出す必要なんてなかったのに。
自分はもう氷室真司を十分にコントロールできていたと思う。
もう、この場にいる気分ではなくなっていたから、私は将人と会場を離れることにした。
「まだ会食残ってるでしょう?私に付き合わなくてもいいよ。」
そう告げると、彼は「出してくれ」と運転手に言い、車は静かにホテルを離れていった。
車内、私は一言も話さなかった。
どう考えても将人の芝居は少しやりすぎだったと思う。
あのときの平手打ち、今でも頬にうっすら痛みが残っている。
将人も何も言わず、黙ったままスマートフォンをいじっている。
誰かにメッセージを送っているようだ。
別荘に着き、私は静かに車を降りた。
指紋認証でドアを開けると、ふわりと甘く濃厚な香りが漂ってきた。
家の中に漂う花の香りとは思えないほど強い。
明かりをつけた瞬間、目に飛び込んできたのは、
色とりどりのチューリップに埋め尽くされたリビングだった。
チューリップは本来、ほのかに香る程度の花。
けれど、これほど大量に集められれば、空気そのものが変わる。
見たことのない珍しい品種も多く、私の庭でも育てたことのないものばかりだった。
後ろにを振り返ると、将人はすぐ背後に立っていた。
「今日は事前に相談もせずに手を出してしまって、悪かった。」
私は肩掛けを脱ぎ無言で渡すと、彼は自然な手つきでそれを受け取った。
ヒールを脱ぎ、スリッパに履き替えて中へ入ると、テーブルには私の大好きなシーフード料理が並べられていた。
アロマキャンドルの炎がゆらゆらと揺れ、まるで「お疲れさま」と囁くように、優しく揺れている。
思えば、今夜はほとんど何も食べていなかった。
ちょうどお腹すいた。
私は階段に足を向けようとしたが、将人がそっと手を取った。
「まだ怒ってる?」
「着替えてくる。」
短くそう答えた私に、彼はまっすぐな目で言った。
「そのままでいいよ。その服、よく似合ってる。」
私の返事を聞く間もなく、将人は手を引いてテーブルへ向かう。
振りほどこうとする私の手を、彼はさらに握り締め離さなかった。
将人は椅子を引いて私を座らせ、自分は向かいの席に静かに腰を下ろす。
彼の顔を見ていると、不思議と怒りが和らぎ、かわりに戸惑い始めた。
その瞳の奥に、たしかに 偽りのない真剣な想いを感じた。
「……ボス、別にこんなことしなくてもいいのに。」
「まだ痛いか?」
静かにそう尋ねられ、私は首を横に振る。
「もう大丈夫。」
将人は深く息を吐いた。
「男の庇護欲は……自分の好きな女が他の男に叩かれた時に爆発するんだ。
どうせやるなら徹底的にやるべきだと思った。あんたは手を出さなくても氷室真司を操れるかもしれない。
でもな、雪乃……
あの一発は彼の心に棘のように残る。血肉に食い込んで、もう抜けない。夜中に夢を見たって、きっとあの場面が蘇る。
あんたが彼のために叩かれた、その理由が、彼の妻だったということを。」
私はその言葉にはっと息を呑んだ。
本当の意味で人の心を打ち砕くということ、私はまだまだ目の前の男には程遠い。
もし彼が私の立場だったら、氷室真司はもっと容赦なく壊されていたはずだ。
「じゃあ、これは何のつもり?」
私は花とキャンドルディナーを指さして問う。
将人はほんの少し唇を噛みしめる。
「女性に手をあげたのはこれが初めてだったんだ、まして……」
「ちょっと不安だった」
それ以上、彼は言葉を続けなかった。
私も、まして何?っと聞くつもりはなかった。
「まさか、私に仕返しされるのが怖かったの?」
冗談めかしてそう言うと、彼は静かに笑った。
「違うよ。ただ申し訳なかった。償いをさせてくれ。今夜は、ろくに食べていないだろう?しっかり食べて、ゆっくり休んだ方がいい。」
本当に彼がそう思っているのかは分からなかった。
けれど、食事中ずっと彼は私のためにエビやカニの殻を黙々と剥き続けてくれた。
こんなふうに尽くされたことなんて、一度もなかった。
しかもそれが、ボスであり、命の恩人である彼。
私は夢中で食べてしまった。
美味しい料理で心もお腹も満たされて、あの平手打ちされたことなどすっかり忘れてしまった。
けれどその夜、真司と雪奈にとっては、静かでありながら、眠れない一夜となった。
雪奈はベッドに座り込み、膝を抱えて泣いていた。
何度も思い返してしまう、ビーチでのあの出来事、真司が自分を海に引きずって行った場面を。
「もし余計なことを言うとしたら、今ここで一緒に死ね!」
冷たい目で、そう告げた彼。
最初は、どうせ脅しだと高を括っていた。
でも、本当だった!
本当に海に引きずり込まれ、溺れさせられそうになるとは思っていなかった。
あの時の真司の目はこれまで見たことのない、底知れぬ恐怖に満ちていた。
怖い!
怯えて何度も必死に謝った。ようやく、彼はそれ以上手を出さなかった。
それでも、帰り道の車内で真司は一言も話さなかった。
そして今は、書斎にこもったまま、出てくる気配もない。
壁の時計を見上げると、すでに午前二時四十分。
このまま、今夜は戻ってこないのだろう。
自分はどうすればいい?
真司とあの女の関係はどこまで進めているの?
この後、自分は何をすればいいの?
今、頼れるのは……お母さんだけ。
翌朝
雪奈は子どもたちを送り出し、朝食も摂らず自室に閉じこもった。
真司の車が出ていく音が聞こえた瞬間彼女は失望した。
彼は離れた。
自分のことなんて、きっと何も気にしていない。
雪奈は静かに荷物をまとめ、実家へ戻る準備を整えた。
自分を無条件に守ってくれると信じていた両親。
外の世界がどうなろうと、父と母だけは味方でいてくれると疑わなかった。
……けれど、今回ばかりはその“味方にする家”が音を立てて崩れていく。
天宮家に戻り、お母さんに泣きつくように話していたそのとき、玄関からお父さんが怒りを噛み殺したような足音で入ってきた。
「お父さ……」
涙を浮かべて近づく雪奈に、拓郎は何のためらいもなく平手を打った。
「真司を怒らせて、お前は一体なにをやらかしたんだ!」
怒鳴る声は低く震えていた。
「何十億もかけてた土地を渡さないって言われたぞ!」
雪奈は呆然と立ち尽くした。
これまで、どんな時も自分を甘やかしてくれた父が、たかが土地のことで自分に手をあげるなんて。
「お父さん、その土地は私より大事なの?私がどんな目に遭ったかも聞かないで、いきなり叩くの?」
雪奈は泣きながら叫んだ。
隣にいた津紀子も、怒りを堪えきれずに言った。
「娘がこんなに傷ついてるのに、話も聞かずにいきなり手をあげるなんて……父親としてどうなの?」
拓郎は顔を歪め、声を震わせながら怒鳴った。
「あの土地の事業はもう売ってしまったんだ。今さら引き上げられたら、天宮家はお終いだ、丸ごと潰れる。もう、どうやっても払いきれない……!俺に崖から飛び降りろうと言うのか――!」