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住居不定の祈り
住居不定の祈り
四森
文芸・その他純文学
2025年06月20日
公開日
1.9万字
完結済
ホームレスが殺害される事件に興味を持った大学生ふたりは・・・

『住居不定の祈り』(短編全文一挙掲載)


 *


 昨年十二月、東京都練馬区の河川敷で、路上生活者の男性が遺体で発見された事件で、

警視庁は十三日、都内の男子高校生二人を死体遺棄の疑いで逮捕しました。警察は男子高

校生二人の認否を明らかにしていません。


 *


 多元渉(たもと・わたる)。それが死んだホームレスの名前らしい。

 俺は大学に通っていないから、四六時中スマートフォンでインターネット掲示板の< ま

とめサイト> と睨めっこをしていた。

 本来、大学へ通うという立派な「やるべきこと」があるわけなのだから、それをすれば

よいのだけれど、その選択肢を排除してしまった先には「暇」という「暇」が、俺の生活

空間である実家の子供部屋を埋め尽くしていた。勉強机の上にも、カーテンの表面にも、

本棚の一番下の段にも、暇という暇が横たわっていた。それは、本来あってはならない暇

なのである。なぜなら、大学へ通ってさえいれば、暇なんかではないはずなのだから。正

確性を高めて表現をするならば、大学へ通うべきところを通わないでいるので、大学へ通

う時間の穴埋めが出来ないでいて、だから暇だ、ということだ。

 そんな暇ばかりなのだから、スマートフォンの充電が減るのも早い。掌に世界はない、

と知りつつ、そこにはあたかも世界が存在するのだと信奉するよりほかになかった。スマ

ートフォンが俺と世界とを繋ぐ糸であるから。本来、大学の講義室かなにかに足を運ぶこ

とにより、俺は世界と接合できるはずなのだけれども、つまり、陰と陽、ゼロか百か、天

と地、ネガとポジ、表と裏、そういった極端な局面に俺自身が追い込まれていることを、

追い込んでいるのは俺自身に他ならないのだが、俺はそれを自覚できているかといえば、

きわめてそうではないかもしれない。だから、俺は自分が大学へ通うべきだということを、

大学の講義室に足を運んでみることでようやく自覚できるところを、大学に通わないでい

るのだから、その状況に自分を置くことが出来ないでいるという、だから俺は俺自身のこ

とを形而上学的キメラとでも思ってい……

 まあ、俺のことはどうでも構わないじゃんかよ。

 捕まった男子高校生二人の顔写真、いわゆる「ご尊顔(そんがん)」と称した中学校の

卒業写真も見た。彼ら二人は、どこにでもいるような顔であったが、それはつまり、どこ

にもいないような顔であるともいえるのかもしれない。彼らは卒業写真が撮影された数年

後に、ホームレスを死体遺棄して逮捕されることになるなんて夢にも思っていないような

表情ではある。

 みんな、そうなのだ。自分が犯罪を起こすってことは想像しない。加害者バッシングば

っかり。法律で禁止されている私刑(リンチ)を、表現の自由を楯にして書きたい放題。

そして、被害者への過剰な同情。それはいつか、自身が被害者になる懸念があるからそう

しているのであって、自身が加害者になることなんてまったく想像していないのである。

 自身が被害者になる可能性は頭の中にあっても、加害者になる可能性は頭にうまく馴染ま

ないのだ。もっとも、数年後に死体遺棄で逮捕されるような表情というのは一体どういう

ものであるのかと問われれば、俺は答えに窮してしまうことは間違いないのだけれど。こ

れから犯罪を起こすような顔なんて存在しないだろう。そして、何より、数年後に死体遺

棄で捕まることを自覚しているのだとしたらいっこう怖い。そうならないように、人生を

改めるべきだ。まあ、俺は大学に行くべきだと分かっているのに、行けてないからさ、人

にアドバイスできる立場でもないわけだけれども。

 死体遺棄、死体遺棄って、いったいどういう罪なの、って。まあ、正当な手続きを経ず

に、死体をどこかにうっちゃってきちゃうのが死体遺棄であって、そしてそれは死体遺棄

という罪単品で検挙されることはなく、ほとんどの場合、殺人罪もついてまわるわけだ。

 死体遺棄と殺人のアンハッピーセットといったところか。つまり、警察は男子高校生二人

について、死体遺棄にとどまらず、多元さんを殺害した疑いもあると見ているわけだ。そ

して、死体遺棄の疑いがあると警察が発表すれば、それがニュースに出て、そうなれば、

世間は殺しもしたんだろうと思い、そしてそれは既定事項のように、男子高校生二人は殺

人犯であると、たとえ裁判ではそうならなかったとしても、彼らを取り巻く世間の顔をし

た顔のない怪物は二人をそう決めつけ、まるで中世の魔女狩りのようにこの世の「普通」

から排除してゆくことになる。最近、一度死刑判決を受けた人が再審で無罪を勝ち取ると

いう事例を目の当たりにしている俺たち。それは、誰か本当の犯人を見つけることではな

く、誰かを犯人にしなければ引っ込みがつかないという社会の理不尽さをあらわしている

と俺は思ったね。そして、それは魔女狩りとなんら変わらない。魔女狩りも、当時の科学

としてなんらかの根拠に基づいておこなわれたわけで、そして、二十一世紀の俺たちが見

繕った根拠ってやつも、二十三世紀あたりには、現代人が魔女狩りのことを野蛮な眼で見

るのと同じ目で、非科学的だと糾弾されるかもしれない。もうすぐ二十二世紀になるって

のによー…… 。ドラえも~ん!!

 ま、その俺ですらこの二人は多元さんを殺したと思っている。そう思うのも仕方はないと自

分を正当化するけれども、世間ってのはそういうもので、裁判とはまた別だ。日本の法律

では私刑は禁止されているはずだけれど、精神的私刑は、なんだか規制されることがない。

規制のしようがないのかもしれない。

 こいつらはどうして多元渉さんを殺したのか。今のところ容疑は死体遺棄だけれど、い

ずれ殺人に切り替わるのだろう。ホームレスなら殺しても構わないと思ったのか。いま、

SNS上の誹謗中傷問題が叫ばれている。

そーしゃるねっとわーきんぐさーびすじょうのひぼうちゅうしょうもんだい。 

―― 諸悪の根源は、スティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグ、イーロン・マスク

か。いや、もっとさかのぼればアラン・チュ― リングということになるのかもしれないが、

飛行機が墜落してライト兄弟が責任を問われないのと同様に、それは使い手の問題である

らしかった。

「芸能人や、アスリートへの誹謗中傷をやめましょう」みたいなムーブメントがある。

 でも、相手が誰であろうと誹謗中傷はしちゃいけないんじゃないの、って。「〇〇へは

やめましょう」ってことは「〇〇以外には、まあ、やってもしょうがないか」ってことに

なるじゃん。これって、言いがかりかな。

 それは誹謗中傷だけに限った話じゃない。殺人とかだってそうだ。元総理大臣も殺しち

ゃいけないし、ホームレスだってもちろん殺しちゃいけない。それは、殺された人の社会

的立場によって、世間の反応は変わる。でも、ホームレスなら、まあ、殺されていっか。

なんてことはないはずだ。死んでも別に構わない命なんてないなんて綺麗事をいうつもり

はないよ、俺は。だけどさ、「この人達は死んでもいい人たちなんだ」っていう区分に、

いつか自分が含まれるかもしれない心配もあるわけじゃないか。

 死んでもいい人間を定義していたら、いつの間にか定義していた側の人間もそこに含ま

れるということがわかるかもしれないじゃないか。その時になって、「いやいや。自分は

対象外だ」なんていう話は通用しない。

 だから、そもそも死んでもいい人間なんかを定義するべきじゃないんだって。


 多元渉さん。あんたは、何が出来なくて、何が出来た?多元渉さんの遺体が遺棄された河川敷の雑木林の隅っこに、俺は花をたむけた。バイオハザードでゾンビがいかにも出て

きそうな雑木林だけれども(ちなみに、俺はバイオハザードなんてプレイしたことがない

んだけれどね)、真っ昼間ならそう怖くはない。ここからすぐ行った高架下に、多元渉さ

んは、日夜暮らしていたわけか。虫も群がってくるだろうし、風だってぼうぼうに音を立

てるだろう。とても住み心地が良いとはお世辞にも言えないはずだ。今はもう、事件後に

ホームレスの人たちの簡易的な住居は撤去され、彼ら彼女らは施設へと送られたわけだけ

れども。

 施設…… まあ、施設やらどこへやらへの転居が決まったとか決まってないとか聞く。で

も、そういうところの居心地が悪くて、結局路上生活に戻ってしまう人もいるのだとか。

行政はここまで面倒見ましたよ、っていうお題目さえあれば、あとは個々人の自由を妨げ

てまで支援できないということだろうか。

 でも、その草木は、雑草というにはあまりに強い生命力を帯びているように見えた。自

分らはちゃんと生きているのだという主張をしていた。雑木林なんて、脇目に見られる脇

役にもなれない存在かもしれないけれど、しっかりと地に根をはって、二酸化炭素を吸収

し、酸素を排出しているんだぞっていう態度だった。だから、人の背くらいまで高さのあ

る草木は、まるでカマキリが鎌を構えて立っているようでもあった。この領域に軽々に足

を踏み入れたら、鎌で切り付けてしまうぞと脅しているような。そして、ホームレスの人

たちは軽々に近寄ったわけではないから、しっかりと雑木林の草木のほうからも仲間扱い

されていたのかもしれない。「雑草という名の植物はない」と誰かが言った。同じように、

ホームレスと称されるべき存在も本当はないのではないか。ホームレスもそれ以外(ホー

ムフルとでもいおうか)も、同じ「人間」という存在であって。

 この地は、あまりに人の亡骸が安置されるのには程遠い場所に思えた。そう思うことは、あるいは草木への侮辱なのかもしれなかったが、墓地埋葬法とかどうとか理屈抜きに、ここは遺体が安置されるべきではない、安置という言葉が相応しくない場所に思えた。ここでは安らかには眠れない。それは、酔いつぶれて、前後不覚になり、何かの拍子で突っ伏

して、ここで一晩を明かすということはあるかもしれない。でも、ここに魂が休める場所

はない。草木やら地中や中空に蠢く虫やら、モグラなどの小動物やら、吹きすさぶ風やら、高速道路から漏れてくる車の喧騒やら、とてもここは心が安らげる場所ではない。そんな

場所に、あの高校生二人は、多元さんの死体を遺棄した。遺棄したというからには遺棄と

いう行為がなされたのだろう。たしかに、遺棄という言葉は相応しいように思えた。安置

とか埋葬とか、この場所には全然似合いでない。

 俺は花をたむけると同時に、心の中で手を合わせた。肉体的に合掌をしても全然構わな

いわけだけれども、肉体的に手を合わせたところで、それは多元さんに届かないような気

がしたのだ。心の中での合掌のほうが、今は亡き多元さんへの心理的距離が近しいような

心持ちがした。

 その祈りは、あまりに住居不定だった。多元さんが住居不定だったということではない。この俺の中の祈りは、あまりに住居不定で、居所が定かではなかったのだ。

 だから、肉体的に手を合わせるのでは、その祈りを捕まえることは出来なかったのだ。心

の中で手を合わせることで、俺の中の波長と、その住居不定の祈りがうまく馴染むような

気がしたのだ。

 既にいくつかの献花がおこなわれていたようなので、俺もそこに自分の花をたむけようと思った。献花がおこなわれていたのは、多元さんの遺体が発見された現場とみられる場所で(もっとも、そこに確実に遺体があったという保証はなく、だいたいそこらへんということだろう)、草地の中で少しく小ぎれいに平らに土が出て、いくらか整った場所だっ

た。

 花をたむけるといっても、オシャレな花屋で買うような立派なやつじゃない。河川敷で

生えていた黄色いタンポポを十数本集めてきたんだ。もちろん、献花のために。それは、

あるいは非常識なのかもしれないけれども。たむけるのであれば、仏花のほうがいいとか

贅沢なことは言わないでくれ。これでも、頑張ってタンポポ集めたんだ。あんまり文句を

言われるようではタンポポがかわいそうだ。気持ちだよ気持ち、こういうのは。それに、

多元さんのほうだって、立派な花束貰ったんじゃあ、困ってしまうかもしれない。仏花な

んかより、ワンカップ酒のほうが喜ばしいかもしれない。だとしたら、タンポポでじゅう

ぶんだ、という理屈だ。どういう理屈だ、俺。

「ねえ」

 急に背後から声をかけられても、俺は驚くような繊細な心の持ち主じゃない。振り返る

と、詰襟の学ランを着て、立派な花束を持った男子がいた。俺と同じく、大学一年生みた

いな年頃の男子だ。うん?じゃあ、なんで制服?というか、俺もなんで男子が学ランを着

ているのに、高校生と思わなかったんだろう。ちなみに、タイ王国では大学生も制服を着

るらしい。一時期ブームになったタイドラマでそんなような知識を俺は得た。

「汚さないでください」

「はあ?」

 どうやら、俺が泥だらけのタンポポをたむけたのが気に入らなかったらしい。傍から見

て、泥をかけて汚しているように思われたらしまったのだろうか。かわいそうなタンポポ

ではあるが。まあ、ホームレスが亡くなった場所にいたずらしていると傍から見えてしま

ったとしたら、ごめんなさい。

 午前一時。お巡りさんが来たら面倒だ。でも、少なくとも俺は高校生じゃないから、な

んたら条例とかには引っかからないはずだ。

「俺だって、花供えてたんだよ。お前みたいな立派な花束じゃなきゃダメか?」

 恫喝するような口調になる。俺はふだんそういうヤンチャな人間をやってるわけじゃな

いってのに、これじゃあまるで手を焼く親に対してキレる引きこもりの怒り方みたいでは

ないか。

「あ、そ、うなんだ」急にその男子の声がトーンダウンした。そして、俺の体格の良さに

気づいて今更怖気づいたのかもしれない。別に、俺は体に恵まれただけで中学高校文化部

だったのだけれどね。

「あなた。多元渉さんのお知り合いとかなんですか?」

 おそるおそるその男子は聞いてきた。亀みたいにちょっと首が肩の中に沈んでいたかも

しれない。

「多元さんが死んでから、俺は知ったよ。お前はそうなのかよ?」

「僕も知っていたわけじゃなくて」

「はあ?おかしいだろうが。じゃあ、なんで花なんか」

「それは、あなたも…… 」

 うるせえなあ。と声には出さなかったけれど。俺は地面に供えたタンポポを集めて、そ

の男子の口に突っ込んでやった。俺はそういう行動を実際におこなった張本人としていう

のもなんだが、自分で自分がおそろしかった。他人の口に泥のついたタンポポを押し込む

だなんてことをなんで、俺はやってしまえるのか、と。そして、もしかしたら、俺は、人

の遺体を遺棄したり、人を殺したりとかも、もしかしたら、やってしまえる部類の人間か

もしれない、と、でも、ほんの一瞬だけそんな懸念が頭をよぎっただけで、俺は夢中で男

子の口にタンポポを詰め込んだ。理論とか、どうとか、そういうのではない。物理として、

男子の口の中にタンポポが収まった状態を作り出したかった。不思議と、男子は自身の口

にタンポポが詰められることに抵抗していないように感じられた。けれど、実際のところ

は、彼のほうでも、しっかりと抵抗しているのであろう。つまり、俺の自分勝手な加害者

側の思い上がりでしかないわけだ。

 でもすぐに、男子は汚ねえタンポポを口から吐き出す。そして、口の中に入った、タン

ポポに付着していた泥を自分の口の中のツバによって体外に排出させようと試みている。

 男子には、それほど生命力を感じなかったのだ、俺は。だから、本来であればタンポポを

口に詰められて黙って窒息してしまってもおかしくないように思えるのだ。でも、体って

のは不思議なもんで、心が生命に無関心であっても、体はどこまでも生きたいという態度

をとる。だから男子が無抵抗だったとしても、彼の体は自然と口に入れられたタンポポを

体外へと吐き出すように設計されているわけだ。もちろん、彼のほうとて、こんなタンポ

ポごときで死にたくはないだろうよ。でも、別にタンポポ詰められたら死んでしまっても

しょうがないかというような。積極的に生きようというではない態度が見て取れたのは何

故だろう。

 そんな状況で、なんかもう一周まわったってやつなのかもしれない。タンポポの被害を

受けた男子のほうが、タンポポを吐き出したついでに言葉もぶちまけようと思ったわけで

もなかろうが、言葉を口にした。

「僕は継島京(つぐしま・けい)」

「はあ?」

「後継者の継ぐに、島で継島。京都の京をケイって読んで京」

 どのタイミングで自己紹介してるんだよ、と思いつつ「ややこしい名前だな。覚えらん

ねえよ」と一応、応対していた。

「あなたは?」

 こいつは、なんでタンポポを口に入れられて、自分の名前を名乗り、俺の名前を知ろう

と思ったのか。

「教えないよ。ナナシだ」

「長島くん?」

「もう、それでいいよ」

 俺は別に、こいつに長島と思われたままで構わないと考えた。俺はいつもまとめサイト

で見るネット掲示板の「名無しさん」のオマージュのつもりでナナシと名乗ったんだが。

それでも、こいつには長島と聞き取られた。ちなみに、俺はナガシマの漢字について、長

嶋ではなく長島であるような気がしてならない。継島はその漢字を当てているのだろうな

と俺は決めつけた。

 あるいは、日本はニホンでニッポンでジパングでジャパンでヤポンで、どれも一緒だ。

似たようなもんだ。

 ようは、ナガシマでも長島でも長嶋でも、そして極論、名無しでも、どうだって構わない。


 *

 寝て起きたら昨日のアイツのことは忘れていた。って認識できるってことは、本当は忘

れていないわけで。けれど、ぼんやりと、ある男子という人間存在と邂逅したといううっ

すらとした記憶が残っているばかりで、肝心の彼の名前も思い出すことは出来ない。って

ことは総合的には「忘れた」って認識でオケだよね?

「行ってきます」と大学用の鞄だけ持って、大学に行くふりだけを親には見せた。大学の

場合、高校までとは違って、講義に出席していなくても、親には連絡がいかないからね。

なにせ、親に、俺が大学に通っていると思わせることは大事だよ。どうせ、親のほうでだ

って、俺が大学で勉学に励んで、一つ大きな研究の成果を持ち出してほしいなんて思っち

ゃあいないんだ。明央大学卒っていう学歴をゲトさせるためだけに、俺を大学に行かせた

といっても過言ではないくらいだ。実際に大学の講義へ通うことなんて全然、本質じゃあ

ない。

 俺は練馬区の区民センターを拠点に活動しているボランティア団体< 積木の会> 、に所

属するホームレス支援者のもとへと向かった。

区民センターには、行政って感じの、ちょっと気だるげな鈍足の慌ただしさが漂ってい

た。ザ・お役所って感じ。前に裁判所に傍聴をしに行ってみたことがあるけれど、裁判所

は行政と違って、だって三権分立の司法と行政じゃ違うわけだし、一貫した冷徹さがあっ

た。無機質な、その物質でいうと大理石みたいな冷たさの司法。行ったことはないけれど、

拘置所とかも映画で見る限り冷たい感じだ。冷徹の具象が横たわっているかのような。

 ま、区民センターは区役所のような機能も兼ねていて、裁判所よりも人の温かみがある

感じだった。もっとも、裁判所も事務局とかそういったところにはもうちょっと人の温も

りがあるのかな。そこまで立ち入ることは出来ないからちょっとわからないや。

 何日か前に窓口で「大学で路上生活者の実態をテーマにレポートを書きたいんです」と

矢沢早香(やさわ・はやか)っていうぽっちゃりした三十五歳から四十五歳くらいの女性

に告げたら、後日喜んで対応してくれた。「大学生は時間がたくさんあって、いいわよね

え」と俺の不通学を疑いもしなかった。

路上生活者に興味を持ったキッカケがまさに、多元渉さんの事件であることを明かすと、こうも綺麗に物事が進むものかと驚いてしまうほどに、すんなりと彼女は彼について話を

始めてくれた。

「うん。ふたりが興味を持ってくれたこと、うれしいわ。こういうことはね、語り継いで

いかないと。多元さんのことを覚えている人が一人でも多く、長く、この世界に残らない

とだからね」

 どこか、矢沢さんは多元さんの死を、自身たちの存在意義を明確にするための道具のよ

うに使っていやしないか。と、感じもしたのだけれど、もちろんそんなことは口に出して

は言えるはずもない。

 うん?ふたりが?あれ、矢沢さんは、「ふたりが?」と言った?矢沢さんが視線を向けた俺の隣のほうに、俺も首を動かして見てみると、何某がいた。

 矢沢さんに不審を抱かせないように、俺は小声でヤツに聞いた。

「名前なんだっけ?」

「ツグシマ・ケイ」

 俺はこいつと二人で< 積木の会> を訪問したんだっけか?よく考えれば、俺は俺一人で

< 積木の会> を訪問するなんて大それたことをする勇気なんて持ち合わせてないものな。

 あと、初めてツグシマ何某に会ったのは昨日なんかじゃなくて、もっと何日も前だってい

うことにも思いを致す。俺の中で誰かと行動を共にするということにあまり現実味がなく、

うっかりツグシマ何某の存在を忘れかける。どうだったんだろう。なんだか、ツグシマに

付きまとわれたような記憶もある。こいつはしつこいんだって、まったく。でも、俺はそ

んなツグシマのことが嫌いではないらしい。俺は、自分にはそぐわない人間には温度を感

じないから。少なくとも、一緒にいたことを忘れかけてはいたものの、彼からはちゃんと

人間の温度を感じているわけだ。継島の声で、< 積木の会> についての説明が脳内再生さ

れる。そもそも、< 積木の会> を知ったのも、訪問計画を立てたのも、実は継島の実績で

あったりする?俺は、自分自身の認識の信憑性のなさに愕然とする。まあ、そういう部分

も含めて、継島に頼ればいいとも言えるのかもしれないけれども。

『< 積木の会> 。貧困や依存症に苦しんでいる方々に寄り添います。どれだけ生活環境が

改善されても、ちょっとした弾みで振り出しに戻ってしまう方々は多く存在するのです。

そんな方々にも根気強く向き合う。積木が崩れてしまっても、また一から一つ一つ積み上

げていけばいい。そんな思いを込めて、< 積木の会> はスタートしています』

 これは、もしかしたら継島がスマホで探し出して、俺に教えてくれた文面かもしれない。

そんな気がする。そして、二人して区民センターに向かい、矢沢さんとのアポイントメン

トをとりつけたんだっけか。

 矢沢さんは、街角で宗教の勧誘にでも立っているような、顔に笑顔の表情を貼り付けて

いるような人だった。優しそうな人だとか、温もりのある人だとか、そういう印象を相手

に与えるのかもしれないが、そういう印象を与えることを目的としてそういう表情を作っ

ている、つまり、本当の表情ではない、そんな感じがした。福祉顔といったら、あまりに

失礼だろうか。こういう人が仕事の合間の休憩時間なんかに、気が抜けて、完全に「無」

の表情になり、目の光りが消えるんだ。そんな思いを俺は抱いた。

「多元さんですね。この絵は多元さんが描いてくれたんですよ」矢沢さんはA4の大きさ

の一枚の真っ赤な絵を見せてくれた。

「紅葉の絵なんだけどね。新座(にいざ)に平林寺(へいりんじ)ってあるじゃない。多元さんがそこで、昔見た綺麗なモミジを描いてくれたのよ。ほら、施設の方たちなんかね。私たち、路上生活者の方たちだけじゃなく、施設のレクリエーションなんかにも協力させていただくんだけど、多元さんが色々な風景の絵をお描きになられたから、施設のほうで、外出が難しい方なんかに見せるとすごい喜ばれるのよ。こういうのって、写真よりもよっぽど、絵のほうが情景が伝わるでしょ。多元さんはこういう美しい絵をお描きになったんだから、やっぱり、澄んだ心で世界を見ていないと、こういうものは描けないんだと思うわね」

 美しい絵が描けるからといって、それが描き手の心と一緒に語られるのは疑問ではあったけれど、確かに多元さんが描いたというその紅葉の絵が見事であるのは疑いがなかった。

 真っ赤に燃える、灼熱の炎のような紅葉だった。それでいて、燃え盛る炎ではなく、植物

であることがしっかりと伝わってくる。その描き分けはとても素人に真似できるものでは

ない。芥川龍之介の『地獄変』で、地獄の様子を描くために、実の娘が焼け死んでいると

ころを写した画家がいたっけな。あれ、俺の記憶ちがいか?なんにせよ、小説のなかの

話で、フィクションだけれども。

 まだ夕方にもなっていない。< 積木の会> からの帰り道に、俺は継島に意見を求めた。

「良い絵が描けると、それを描いた人は良い人間だって、方程式成り立つと思うか?」

 俺は継島のことをよく知らないし、本当はどう接していいのかも戸惑ってしまうくらい

なのだけれど、そういう物怖じした様子を悟らせまいと、旧知の仲みたいに接するように

つとめた。

「そう思いたいんだろうね。逆に、別に絵が上手じゃなくたって、あの人たちは何かしら

理由をつけて、多元さんらしい温かみのある絵だとかなんとか言うんだよ」

「ちょっとうがった見方すぎないか?」

「長島くんはさ、多元さんが良い人だったって思いたい?」

 そうだ。こいつは俺のことを、長島って呼ぶんだ。だから、俺はこいつと一緒にいると

きに、本当の俺ではない、長島という誰かが俺のところにいるような気になる。こいつと

の記憶は俺ではなく、長島という想像上の誰かに属しているかのような錯覚にも陥る。そ

して、俺は長島に属した記憶の呼び起こし方を知らない。俺は自嘲気味に苦笑いをした。

こんな思念は、あまりに妄言の誹りを免れない。

「絵見ただけじゃ、そんなの分かるわけねえよ」

「でも、< 積木の会> の人はそう思いたがってるみたいだったよね」

「まあ、死んだ人を悪く言わねえってのが、日本人のいいとこなんじゃねえの?」


 *


 その矢沢さんの抱いている多元さん像はネットの書き込みにおいては否定されることに

なる。

 かつて、< 積木の会> でボランティアを経験したと称する人間の書き込みを俺は見つけ

た。事実かどうかは定かじゃないけれど、ネットでそんな嘘ついたってどうしようもない。

いくぶん、差別的な表現もあったので、俺なりに手を加えて、その書き込みを再編集する

と、こういうことが書かれていた。


 多元さんには知的障害があった。絵のセンスなどが優れている一方で、言語や数字の整

理に問題を抱えていた。ホームレスを支援するうえでは、近隣住民からの理解が重要だ。

「ゴミを放置しない」とか「頻繫に服を着替える」とか、< 積木の会> のスタッフが、根

気強くホームレスの人たちと取り決めをおこなって理解をしてもらって、指導していた。

 でも、多元さんたちは、そういうことを理解することが難しい。異臭を放つ生ゴミなどを

集めてきて、それが近隣の住宅街まで匂ったという。近隣住民が多元さんたち本人に言っ

てもどうしても分かってもらえないので、苦情は< 積木の会> に回ってくる。多元さんを

含む一部のホームレスは、文字も書けないし、計算もできない。ほとんど獣のようだ、と

いう投稿者による差別的な論評が綴られていた。逮捕された高校生は、そういう迷惑な獣

を退治したのだから、熊や猪を駆除する猟友会と同じで、称賛に値するものではないか、

と。

 その人の書き込みのなかで、熊や猪を駆除する猟友会という言葉があったけれど、昨今

は動物保護の観点から、猟友会の人たちにも苦情が一定数くるといい、必ずしも、称賛さ

れる対象とばかりは限らないと俺は思ったね。まあ、外野はやいのやいの好き勝手なことを言いたがるもんだよ。自分の身に降りかかってこないぶんには、綺麗事を通したいもん

なんだろ。で、自分の身に降りかかってきたときには綺麗事なんて並べていらんない。法

律にだって、正当防衛とか緊急避難とかあるだろうよ。


 この書き込みのことを、継島に伝えたら、彼は喜ぶだろうか。「ほら、やっぱりね」と

いう得心のいった表情を見せるだろうか。彼は矢沢さんが持つ多元さん像に懐疑的だった

ようだし。とはいえ、しょせんネットの書き込みだ。矢沢さんとのように顔を突き合わせ

て、個人としての証を明かしたうえで彼女が開示してくれた情報と、ネットの書き込みと

では純粋に天秤にかけられないような気もする。


 *

 午前中だったから、ちょっとうっすら寒気すら感じるのは気のせいだろうか。高架下の

ホームレスの住居にやってきていた。車がびゅんびゅん通る下に暮らす彼ら彼女ら。もっ

とも、彼女らと言っても、女性のホームレスは男性よりも危険から身を守る懸念が多いら

しく、そう易々と姿を見せるものではない。高架上では、運送会社のトラックやら、車の

ディーラーのキャリアカーやら、旅行会社のバスやらが社会を回すために駆け走っている

けれども、高架下はあたかも生活が停滞しているようであった。でも、それは偏見で彼ら

彼女らの生活は停滞なんかしない。あくまで、立ち止まっているように見えるだけで、着

実に前に進んではいるのだ。前に進むしかない。立ち止まることは許されない。

 < 積木の会> が路上生活者に古着やタオルを配るというので、俺は継島と一緒に、矢沢

さんたちの活動に混ぜてもらった。例の河川敷は事件後にホームレスが居続けられなくな

ったので、別の場所だ。住処は奪われ、そしてまた顕れる。もしかしたら、住居が安定し

ている俺たち(ホームフルとでもいおうか)のほうが、実は異質なのかもしれないね。世

界的に見れば、遊牧民って人たちだっているわけだし。ずっと同じ場所に留まり続けている俺たちホームフルのほうが、実はおかしいのかもしれない。

 本物のホームレスの人たちは、もっと生きる力強さが失せていて、死んだように生きて

いるのかと思っていたけれど、彼ら彼女らなりに、出来る範囲のことは自分でやる覚悟が

あるからなのか、決して死んでいるようであったり、何もかもをやる気力がないようには

見えなかった。俺も継島も、ホームレスたち本人に話しかける勇気はなかった。矢沢さん

が気を遣って、矢沢さんたちとホームレスの人たちの輪に俺と継島を混ぜてくれようとす

るのだけれど、そういう空気を感じとって、俺と継島はシャイな猫みたいに輪から離れて

ゆくのだった。ホームレスの人たちへの直接の支援活動を終え、< 積木の会> の拠点があ

る区民センターまで戻ってくると、継島は急に饒舌になって、矢沢さんに話しかけた。な

んでか継島はけんか腰だった。

「やっぱり、ゴミの問題とか、異臭のこととか、ネットでも悪い評判を見ました」

 俺がネットで見たような情報を、継島も見たのだろうか。それでも、矢沢さんはそうし

た批判の声には慣れているようで。それはそうだ、こういう支援をやるときに、住民説明

会やらなにやらで散々ホームレス支援反対派とやりあっている立場なのだ。

「まあね。できないことは別に、私たち、普通に暮らしてる人間にだってあるわけだから、

出来ることをみなさんには頑張ってもらって、出来ないことをサポートしていくことが大

切よね。ねえ、実際に古着を渡したりしてるわけだし」

「でも、古着を渡しても、ずーっと昔からのを着ることにこだわって、洗濯もしないで、

臭いままの人もいるってネットに書いてありました」

「そう、ねえ」矢沢さんはため息というではない呼吸の一環の息をはいた。

「そうねえ。まあ、時間をかけて、ね」

 矢沢さんは継島に明瞭に反論をするということをしなかった。もちろん、やろうと思え

ば出来たはずだ。矢沢さんが土俵から下りたことにより、大人の矢沢さんと意地になって

いる子どもの継島という図になってしまった。外の人間がこの会話を聞いていて、ディベ

ート対決で勝敗のジャッジが下されるわけではないのだけれど、あからさまに継島は敗北

していた。それが証拠に、彼の顔は真っ赤になっていた。

「お茶いれてくるわね」矢沢さんはどこまでも大人だった。


 *


 まだ夕暮れには早い。例の河川敷は俺たちの定番散歩コース兼帰路になっていた。遊ん

でいる子どもたちの姿なんかもチラホラ見かける。彼ら彼女らもここでは一生懸命に球遊

びをしているけれども、家に帰れば食うものにも足りていない貧困が待っているのかもし

れなかった。空腹をまぎらわすために、体を動かして、その場しのぎをしているのかもし

れなかった。いや、食うにも困る親ならば、運動すると腹が減るからジッとしているよう

に言いつけるだろうか。河川敷の土手から見て、こちら側にもそして川を挟んだあちら側

にも人間が粒のように見えた。そこそこ距離をとれば、こんなに小さい粒のように見える

人間も、その等身は、なみなみならぬ問題を抱えているのか。「人間は近くで見ると悲劇

だが、遠くから見ると喜劇だ」と言ったのはチャップリンだったか。時々、自分の視点か

ら離れて、第三者の目線みたいなものを自分自身も文字通りの意味で持つことが出来れば、自分の悩みのちっぽけさにもっと気が楽になって、自殺をしたり、ホームレスを殺したり

する人間が減るものなのだろうか、と感慨にふける。

 夕暮れ時は、遊園地か何かであれば、これからイルミネーションやショーが始まる楽し

い時間だけれども、ここにいる人たちが夕方の後に待っているものは、切実な家計だった

り、孤独だったりするのであろうか。

 < 積木の会> からの帰り道、俺も継島も、特にやるべきこともないのか、示し合せたよ

うに、ホームレスがいる一帯とは離れた河川敷を散歩する。白球を追いかける野球部やら、

ジョギングをするランナーやらの光景と喧騒が、俺たちの五感を刺激する。俺は継島に聞

く。

「なあ。せっかく話をきかせてくれたり、活動に混ぜてもらったりしてるのに」

 もっとも、ホームレスと接触する活動は避けていた二人であったが。俺たちのやってい

ることは、もしかしたら冷やかしの誹りを免れないのかもしれなかった。

「あんなけんか腰じゃよくないぞ」

「けんか腰だったかなあ?」

 なんでだ、継島、なぜとぼける?

「お前はさあ、矢沢さんから、多元さんが嫌な人間だっていう感想を引き出そうと必死に

見えたけどな」

「僕はただ、多元さんのことを知りたかっただけで」

「死んだ人のことを知ってどうする?」

「え?」

「お前は俺のことをなんにも知ろうとしないよな。生きてる人間には興味ないのか?考古

学者か?」

「長島くんは何も教えてくれない」

 まず、長島っていう名前も間違ってるんだけどな。それに、継島に俺のことを教えるつ

もりは、あんまりない。

「逆に聞くけど、長島くんは僕のこと知りたいと思う?」

「いや」噓だ。俺には継島のことをいくらか知りたがっている欲求がある。

「長島くんが興味なくても、僕は僕のことを長島くんに知って欲しいな」そうか。勝手に

してくれ。なんか、愛の告白の台詞みがあるけど、そんなわけではないんだろうな。きっ

と。愛の告白なんてものだったとしたら、ちょっと困ってしまう。

「僕は大学生。明央大」

 マ?俺も明央だよ。でも、それは俺の口から発されることはない。

「でも、通ってない」

 マ?俺も明央大生で、しかも入学してから通学していないんだよ。でも、それは言わ

ない。二人のあいだで共有されるべきこととは思えないから。

「同級生だったんだ」

「うん?」

「逮捕されたの」

「ああ」

「別に、ちゃんと話したことがあるってわけでもなくて。ただ、同じ学校に通ってた同い年の人たちってだけで」その境遇は俺とは全く異なる。俺は継島が通っていた高校とは別の学校を卒業している。意外に、同じ学校に通っていても、卒業するまで邂逅せずということもありそうなものだが、そういう卒業後に初めて親交を持った二人というわけではなさそうだ、俺たちは。なんといっても、俺の同級生は逮捕されていないからな。そんなことになれば、全校が大変な騒ぎだろうし、継島の高校では実際に大騒ぎになったのだろう。

 全校集会やら、報道陣への対応の仕方やら、命は大切にしましょうやら、誰の命も平等に重いやら……

「まあ。僕が大学通ってないのと、殺人犯が同級生だったことに関係なんかないんだと思

う」

「だろうな」俺はちゃんと言葉を発するために声帯を震わすことが出来ているだろうか。

「多元さんが悪い人だったらと思って。そしたら、同級生にもちょっとは同情できる。同

級生が一方的に悪い存在だと思いたくなかった。だって、同級生が同情の余地なく人を殺

したってことは、自分もそうしちゃうかも、ってそういう類の人間かもってことを自分で

ちゃんと否定したくて」

「別に、継島は継島で、逮捕されたやつらは逮捕されたやつらで、それぞれ別の個人だろ

う」

 俺は思わず、本音を口に出していた。それまで適当な相槌を打っていただけだったのに。

 継島が多元さんを否定したいのと同様に、俺は俺で継島のことを否定したいのかもしれな

かった。もしかしたら、俺は、多元さんのことを擁護したいわけなんかではなく、継島を

ただ否定したいだけなのかもしれなかった。しかも、性質が悪いことに、俺には継島のこ

とを否定したい明確な理由なんかなくて、ただ否定しなくてはいけないような気がするから否定しようとする。そういう、もう後には引けないような、どこか継島の否定に意固地になっているというような。そして、それは、日本中で、世界中で、あるいはありとあらゆるネットワークのサーバーというサーバーのなかで起こっていることと同様のことかも

しれなかった。

 そーしゃるねっとわーきんぐさーびすじょうのひぼうちゅうしょうもんだい。

 俺は心底おそろしい気持ちになる。継島を否定したい根拠のあまりの不確かさに。継島

を否定しないといけないような気がするからとしか言いようがないのだ。

 継島は俺の意見に真っ向から反論してきた。生意気だ。

「いいや。どこどこ高校の生徒Aと生徒Bは一緒なんだよ。逮捕された生徒Aと、逮捕さ

れてない生徒B、ってことにはならない。どこどこ高校には生徒Aと生徒Bがいて、その

うちの誰かが逮捕されたってことになる。だって、実名報道もされないわけだし。検索す

ればいくらでも名前なんか出てくるんだろうけどさ。そんなの意味ないよ」

 でも、どこか、俺は継島の意見にも腑に落ちるところがあった。都内の男子高校生が逮

捕されたという報道には、逮捕されていない生徒への配慮がなく、あまりに逮捕された生

徒を組織に一体化させているようだ。成人だったらこうはいかない。まだ、判決が確定し

ない段階で、逮捕された状況だけでも組織から解雇され、あくまで元組織内の異質分子が

エラーを起こしたかのように、世間は態度をとる。やはり、未成年者の法律による裁かれ

方の違いや社会からの擁護の側面を見るに、未成熟であることによる同情の余地があるの

はわかるのだけれども。

 でも、俺は感じたことを声には出さなかった。代わりに、継島を睨みつけた。俺は継島

の目の中に俺の目を見つけ、それは合わせ鏡のように異質で邪悪な感じがした。きっと、継島は、俺が継島を否定してくることにいら立っているだろう。内心では少し理解していることなど、露とも知らないで。俺は、自分が心の中で思索していることを決して継島に打ち明けまいと思った。なぜだろう。自分の中で、これこれこういう理屈があるから、こう思うんだという論理を継島に示して、それを彼から論破されるのが怖かったのだろうか。


 *


 白球を追う球児。涼を求める人影。うだるような暑さが、空気をおかしくさせ、まるで

蜃気楼かのように河川敷の土手も宙に浮いていくかのようだ。空間が熱気によって捻じ曲

がるさまについて、俺がもっと物理やらの勉強に熱心であったなら、暑さによって空気が

ゆがむ現象のことを解説できるのかもしれなかったが、あいにく俺はそうではなかった。

俺は継島と、棒アイスを一本ずつしゃぶった。手に持っているうちからどんどん棒アイス

は溶けてゆく。俺たちがマダムタッソーに置かれているような蠟人形であったなら、この

暑さでドロドロに溶けゆくのだろうか。いや、マダムタッソーの蠟人形は高級だろうから、

溶けないのか?俺の想像しているのは、もっと低級の蠟人形なのかもしれない。蠟人形

について詳しくないから、語れることはあまりにも少ない。あるいは、人間は、この暑さ

によって熱中症にこそなれど、溶けださないということのほうが、実はおかしいのかもし

れないのだ。そういう目に見えて深刻な被害が訪れないから、人間は危険な暑さと忠告さ

れても、水分を補給しなかったり、運動をしてしまったりするのかもしれなかった。外が

暑いと、体が溶けてしまうという現実がもし存在していたならば、いくらか人間は外に出

ることを躊躇うのではないか。そして、俺はふと思い到る。こんな暑さのなかで、野球の

練習が行われているはずがないことに。白球を追う球児たちなどというものは、幻覚ある

いは春に見たものの残像かもしれなかった。そうして、でも、ノコノコと出歩いて死んだ

ホームレスのことを嗅ぎまわっている俺と継島についても、決して褒められたものではな

かった。きっと、エアコンの効いた部屋の中で、ニンテンドースイッチのマリオカート8

でもやっているのが似合いなのだ。それにも関わらず少なくとも俺は、「こんな暑さを多

元さんたちは屋外で味わったのだ」という感慨にふけるのだった。継島にもそれくらいの

思いを致す人間性があってしかるべきであるけれども。

 俺は、もしかしたら、隣にいる継島が、蜃気楼やら幻覚やら残像やらである可能性も検

討した。とはいえ、実在であってほしいものだが。そう思える継島に対し声をかけた。

「杉原千畝って知ってるか?」

「女?男?」

「オトコ」

「知らない」

「第二次大戦のときに、迫害された多くのユダヤ人に、緊急でビザを出した。命のビザっ

て言われてる」

「聞いたことあるような気がする」

「杉原千畝は、戦後五十年以上英雄視されてた。でも、最近になって叩かれてるらしい」

「なんで?」

「イスラエルが戦争してるからだよ。ユダヤ人の国だからな。杉原千畝がユダヤ人を助け

たせいで、今度はユダヤ人に命を奪われる人々が出てしまっているってな」

「そんな、何年も経ってから、そんなこと言われるんだ」

「多元さんもそうだと思うんだがな」

「え?」

 俺は論理の飛躍を重々に承知している。それを承知しつつ、できるだけ継島を騙せるよ

うに口を動かした。説得という行為には、本質的に騙すという側面があるかもしれない。

「多元さんも、良い人とか、悪い人とか、そういうの、まだ、判断できないと思うんだよ。

何年か経ってみないと、歴史になってみないと事実は出てこない可能性が。あれ、俺、な

んか変なこと言ってる?」

「うん」

 蝉の声なんてものは聞こえないのかもしれない。もはや、ボウボウという熱気が立てる

音と熱気そのものが肌にまとわりつく。そして、耳にも空気を揺らして鼓膜に圧をかけて

くる。

 ただ、川だけは、正直に流れてゆく。川のうわべはいくらか蒸発していくのだろうけれ

ど、川はしっかり海に向かって流れてゆく。川が流れていく方向に海があると分かってい

ることは、人間にとって有り難いことだ。いままで右から左に流れていたものが、いきな

り、左から右に流れたりしないから。そして、右から左へ、左から右へということは世論

とかいうやつにはありがちなことだ。だから、信用ならない。川の流れより信頼できる現

象はこの世にない。あれ、なんか悟りに入っているのか、ちょっと熱中症気味になってい

るのか。

「ま、とにかく。多元さんの事件の裁判もまだだし、俺たちが学生のうちには、多元さん

の評価って定まらないと思うんだよな」


 *


 昨年十二月に、東京都練馬区の河川敷で路上生活者の男性の遺体が発見された事件で、

殺人と死体遺棄の疑いで東京地検に起訴された元男子高校生二人のうち一人が「死亡した

男性から性被害を受けていた」との供述を始めたことが、関係者への取材でわかった。

 警視庁による取り調べの段階では、性被害に関する供述は出てきていなかったとみられ、

地検は新供述についてその真偽を含め慎重に取り調べを進めるものとみられる。


 *


 継島に会うなり、「ね。それ見たことかってこれだよ。やっぱり、悪人だったんだ」と

意気揚々と話し掛けられた。多元さんに性加害者の側面があった可能性が報じられたこと

により、自分たちの属性にはやっぱり悪いことなんかないという免罪符を得たみたいで、

得意になっていた。

「多元さんが悪者で良かったな」俺は皮肉を込めて言ったつもりだった。

 継島は、河川敷の雑木林を意気揚々と駆け抜ける。なぜだか、俺もあとを追いかけるこ

とにした。足の裏で雑草を踏む感触を得て、半袖の腕に草が触れて、チクチクとする。生

い立つ草木は墓場に立つ墓標のようでもあった。一本一本が生きている。たしかに、生き

ているのだけれども、何百年もそこに居続けられるわけではないはずだ。でも、草木は墓

標のように、半永久的に何千年でも何億年でもそこに存在していられるんだぞというよう

な意志みたいなものを少なくとも俺には感じさせるのだった。

 開けた、草木のない土の広場というほどには広くない小広場に出る。継島は服が汚れる

ことも気にせず、そこで寝転んでいた。

「裁判所の前で『無罪』って紙を見せつけるくらい晴れやかな気持ち」

「それはよかったな」否定しない。元男子高校生とやらの新しい供述は苦し紛れのものか

もしれない。でも、警察でおこなわれた取り調べと整合性のとれないことを後からしゃべ

ると、裁判官からの心象は悪くなると聞いたことがある。ということは、性加害は本当に

あったことなのか。警察では黙っていたけれど、検察では耐えかねて真実を述べた。そう

いうストーリーもあるのかもしれないし、やっぱりただの苦し紛れなのかもしれない。ど

うなんだい、多元さん、と空に向かって聞いてみても、むろん答えなんか返ってくるはず

もない。

「僕、大学受け直す」

「え?」

「そもそも、第一志望じゃなかったんだ、明央。長島くんもそうでしょ?」

「いや、俺は明央第一志望」

「マ?そうなんだ。草。実際の草場で草って言うと、マで草だね」

 これは俺が知っている継島なのか。そもそも、俺は継島のなにを知っているというのか。

「え。じゃあ、同級生が逮捕されたから学校行ってないわけじゃなくて、元々行きたい大

学じゃなかったってこと?」

「そだよ。察せし」

「でも、同級生を理由にしてたじゃ…… 」

「そりゃさ。行きたくない大学だから、行かないってダルいじゃん。だから、それっぽい

理由考えたんだよ」

「でも、多元さんが悪人かもってことに喜んでたじゃん」

「あー。後押し。同級生に同情の余地があるって分かったら、今の行きたくない大学に見

切りをつけるのに、運命も味方してるって思ったんだよね。はあ。やっと、自分の気持ち

に正直になれる」

 あー、なんか、俺と継島ってやっぱり全然違うし、元々継島とは違うって思ってたけど、

その違いのベクトルも以前思っていた違いと今思う違いとでは全然違う。やべえわ、こい

つ。あ、俺もか。なんだか、継島は吹っ切れたみたいだけれど、俺は全然。もう継島は多

元さんの情報収集には付き合ってくれないんだろうな。でも、俺は何も変わらない。これ

からも、しばらく大学には通えそうにないし、多元さんの情報収集もやめられそうにない。

しばらくは。まあ、こういうのがいかにも人間っぽくて、その無駄な紆余曲折への讃美と

いうか、それも決して無駄なんかじゃないんだよ的な。うん。まあ、俺の負けだよ。継島

は勝ち。勝ち逃げだ。そして、俺はいつになったら、今の俺から逃げられるのか見当もつかないけれども。俺は逃げたいのか?俺は自分に立ち向かいたいのか?俺が俺にどのように向かい合うべきか、そもそも俺はどこにいる俺と向き合うなり逃げるなりすればよいのか、俺ん心ってあまりに住居不定で、多元さんに合わせる顔も、そして祈りもない。


【了】

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