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冬の彼方で、君を待つ
冬の彼方で、君を待つ
小鳥遊ちよび
恋愛スクールラブ
2025年06月20日
公開日
3,705字
完結済
 冬を知らない世界で、君だけが雪を描いた。  この世界には、冬が存在しない。 それでも少女は、白い雪の降る風景を描き続けた。 少年はその姿に惹かれ、たった一年の恋をした。 やがて彼女は姿を消し、季節は巡り続ける。 残された彼が手にしたのは、一枚の真っ白なキャンバス――。 喪失と記憶の中で、少年は「冬の意味」を探し続ける。 これは、 この世界に存在しないはずの季節を、 たしかに生きたふたりの物語。 遥(はるか):静かな瞳を持つ少年。絵を描くことに意味を見出せずにいるが、ある少女との出会いをきっかけに、冬という概念に魅せられていく。 千紗(ちさ):遥が恋をした少女。なぜか“冬”を知っており、存在しない季節を描き続けていた。ある日突然、この世界から姿を消す。

白いキャンバスの向こう側 ――見えない季節を描くために


 少年は、空を見上げるような静かな眼差しで、遠くを見つめていた。

 黒曜石のように澄んだその瞳は、時折、今ここにない何かを捉えていた。


 肩にかかるか、かからないかの黒髪は、どこか風に馴染むように柔らかい。

 髪の毛が風に揺れた。ほんのかすかな動き。

 触れたら壊れそうで、壊れない――

 そんな、誰かの記憶みたいな存在だった。


 この世界の人々のように、どこか穏やかで、そしてどこか違う。

 春の終わりの霞がかる日差しの中に、彼の輪郭は溶け込んでいるように見えた。


 無駄のない肢体、肩の力を抜いた歩き方。

 それなのに、ふとした瞬間に滲む影。


 はるかという名の通り、彼はいつも、何か遠くを見ていた。


 けれど、

 本当に遥か彼方を見つめていたのは、

 彼ではなく、千紗ちさだったのかもしれない。



 * * * * * * *



 はるかは、白いキャンバスを見つめ、筆を握る。


 けれど——やはり、何も描けない。

 筆先は、白の上をただ滑っていくだけだった。



 彼が愛した、千紗ちさ先輩が描き続けた「冬」。

 それが何だったのか、遥にはわからなかった。


 けれど、一つだけ確かなことがある。



「冬は......嫌いだ」



 何もない、真っ白で、

 それでも、人々が見惚れてしまう景色。


 そんな、美しい絵を、ついぞ、彼は描くことができなかった。



  *  *  *  *  *  *



 たった一年の恋

 はるか千紗ちさは、違う学校に通っていた。


 距離にすれば、電車で40分。会おうと思えば、すぐ会える。……でも、それでも遠かった。


 それでも、二人は休日のたびに会った。千紗と遥にとっては、それは一つの季節ぶんの距離だった。


 とある日、いつものように画材屋でスケッチブックや新しい画材を眺めたり、喫茶店で絵を描いたりして過ごした。


 喫茶店の片隅、二人並んで座りながら、千紗はスケッチブックを開いていた。

 指先が真っ白なページの上を滑る。



「私の彼氏君かれしくん



 千紗はいつも、少しからかうように遥をそう呼んだ。


 遥は、そんな彼女の無邪気な笑顔が好きだった。


 春の終わり……午後の風にほどける光のような少女だった。


 陽の光を受けてきらきらと揺れる長い黒髪。

 その一筋一筋が、夜の静寂を溶かす星のように儚い。


 漆黒の瞳は、遥よりも深く、

 しかしその奥には、どこか透明な何かが揺れていた。


 微笑むたびに、そこには何かが消えていくような、

 けれど、何かが生まれそうな——そんな曖昧さを持っていた。


 彼女は、絵を描くとき、ほんの少しだけ眉を寄せる癖があった。

 まるで、何かを思い出そうとしているように。


 千紗は、"冬"というものにとり憑かれていた。



「冬って、どんな匂いがするんだろうね」



 千紗は、何かを懐かしむようにそう言った。



 ——でも、遥にはわからなかった。



 彼女の言葉の奥にあるものが。


 ただ、その瞬間、


 彼女の目に映る景色は、


 この世界のどこにもないものなのかもしれないと、


 そんな予感がした。


 千紗は遠くを見つめるように、静かにこう言った。



「ねぇ、はるか君」


「はい?」


「もし、この世界が"違う形"だったら、私たち、どうなってたと思う?」


「違う形、ですか?」


「うん。もし、この世界に"冬"があったら」



 その言葉の意味を、遥はその時、深く考えなかった。



「そしたら、僕も、千紗先輩と一緒に雪を見に行ってみたいかな」



 千紗は、それを聞いて静かに笑った。

 そして、真っ白なスケッチブックを閉じる。



「そっか。それはとても……いいなぁ」



 遥は、そのとき深く考えなかった。



 ――はるかくん、と呼ぶときは、彼女と彼にとって大切な時だと分かっていたのに。



 けれど、それが千紗と交わした最後の言葉だった。


 二人で未来を描いたはずだった

 彼女にとって高校最後の秋。


 千紗は大学受験を控えていた。

 彼女が目指すのは、この町より北にある、美術大学。



「受かったら、はるか君の町の近くに引っ越すから」


「そしたら、今よりもっと会えるね」



 そう言って微笑んだ千紗の瞳は、どこか遠くを見つめているようだった。


 遥もまた、千紗との未来を信じて疑わなかった。


 けれど——。


 千紗は、受験を前にして突然、姿を消した。


 電話も、メッセージも、何も返ってこない。


 遥は千紗の学校を訪ねた。

 しかし、そこで聞かされたのは——



「千紗先輩?



 ――もう学校には来ていませんよ」



 その瞬間、遥の時間は止まった。



   *   *   *   *   *



 あれから数年が経ち、はるかは大学を卒業した。

 都会の生活に追われながらも、ふとした瞬間に千紗ちさのことを思い出す。


 久しぶりに地元へ帰ると、遥は無意識に昔よく訪れたモール へ足を向けていた。


 あの頃、千紗とよく一緒に行った場所。


 二人で通った雑貨屋の片隅にある画材コーナー。



「これ、いいなぁ」


「でも、お小遣いないんですよね?」


「むぅ。はるか君、買ってくれない?」


「僕もお金ないですよ」


「大人になったら、私、もっと大きなキャンバスに描くんだ」


「どんな絵ですか?」



「——冬の絵」



 そんな会話が、あまりにも鮮明に蘇る。


 けれど、大人になった今、遥は画材を買おうと思えば何でも買える。

 それなのに、手を伸ばす気になれなかった。



「受かったら、はるか君と一緒に過ごす時間がもっと増えるね」


「そしたら、もっとたくさん絵を描ける」


「……一緒に、冬を見に行こう」



 ——けれど、彼女は消えた。



    *    *    *    *



 はるかが千紗の学校を訪ねると、

 千紗ちさが消えたという話を聞かされた。



「消えたって……?」


「もう、いないってことだよ」


「……どこへですか?」


「わからない。でも、千紗のいた場所には枯葉が舞っていたって」



「だからきっと、次の命に繋いだんだよ」



 そう言った親友の瞳に、涙はなかった。

 千紗がこの世界から去ったことを、彼女なりの言葉で伝えてくれたのだと、遥は思った。





 誰にも告げずいなくなった人は、世界にける。


 この世に生まれた生命は、


 人は、


 "神様に選ばれ"、


 生を全うした後、


 枯葉となって風に乗り、次の命を繋ぐ。


 そして、その枯葉が積もった分だけ、

 次の春には桜が満開になり、緑が生い茂る。そして、三つの季節が循環し、世界が廻る。


 遥は、千紗が消えたことを聞いた時、

 悲しいとは思わなかった。


 けれど、寂しいとは感じた。



 神様は、


 いや、


 "冬"は、僕の大切なものを奪っていった。



 けれど——

 もし、千紗先輩が繋いだ先で"冬"を見つけていたのなら。


 もし、そこに彼女の“真実”があったのだとしたら。



 ……僕も、先輩と一緒に消えたかったなぁ。



     *     *     *



 遥は、白いキャンバスを見つめる。

 筆を握る。


 けれど、やはり、何も描けない。


 遥の記憶の中で、千紗の声が響く。



『冬って、まだ誰も見たことのない世界でしょう?』



 それもそのはずだ。


 だって、



『この世界には、冬なんて存在しない』


 言葉も。

 風景も。

 物も。

 季節も。


 千紗は、それを知っていた。

 それなのに、彼女は、冬を描き続けた。


 ——なぜ?


 遥は、その答えを知っている。


 千紗が求めた「冬」とは、

 この世界にないもうひとつの世界。


 千紗は言っていた。

 『この世界が“何かを失った後の世界”なんじゃないかなぁ』


 この世界の人々が持たない、

 失われた何か。


 それは、本当に白い”雪”というものが降る景色だったのか?

 それとも、彼女が心の奥に見た、まだ誰も知らない景色だったのか?


 遥にはわからない。

 けれど、千紗は「冬」を求めて旅立った。


 遥は、静かに目を閉じる。


 冬の彼方に、千紗先輩がいたことを、

 彼は決して忘れないだろう。



     *     *



 美術部の合同展で、遥(はるか) は一枚の絵に心を奪われた。


 壁にライトアップされ、白く輝くように展示されたその絵は、「存在しないはずの冬の風景」 だった。


 ”雪”というものに覆われた街並み。


 冷たく澄んだ空気。


 遠くに霞む、暖かな光。


 それは、遥が今まで見たことのない、美しくも幻想的な世界だった。


 思わず、遥は傍で作品の説明をしていた絵の作者である千紗ちさに話しかけた。



「千紗この景色は、本当にあるんですか?」



 彼女は、ふっと微笑んだ。



「あるよ。少なくとも、私は知ってるの」



「“冬”って、ほんとうにあったんだよ」



 千紗の瞳には、どこか遠くを見つめているような光 が宿っていた。


 遥は、その不思議な雰囲気に惹かれた。

 それが、二人で過ごす一年の......春の始まりだった。



     *



 遥が晩年になってようやく描き上げた一枚の絵。


 絵に描かれていたのは、あの日、千紗と喫茶店で過ごした、あの午後の続きだった。

 冬のないこの世界で、彼だけが“冬の記憶”を描けた理由。

 それは、彼女の存在が、永遠に“未完のまま”だったからだ。



『冬の彼方に、君がいた。』



 多くの注目と評価を得ることとなる。


 それは、この世界のどこにも存在しない、けれど、確かに彼の恋人が求め続けた「冬」だった。


 この世界の人々にとって、冬は「ないはずの景色」だった。

 でも、彼は知っている。


 彼女が見ていたもの。

 彼女が探していたもの。

 彼女が旅立っていった世界。


 それは、ただの季節ではなく、

「人が忘れかけた、もう一つの世界」。


 彼は、その世界の片隅に、

 そっと自分を描き込んだ。



 ——彼女の隣に、歩く自分の姿を。



 その絵に描かれていたのは、一人の少年と、少女が歩く「冬」だった。



 最後に、彼は冬を好きになれただろうか?


 それとも、やはり嫌いなままだったのだろうか?



 ――きっと、


 あの冬の景色の中で、


 彼は今もなお、彼女の手を取って歩いている。


 ……きっと、それは誰にも否定できない「真実」だ。






 おしまい。

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