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第12話 不器用


あの年、彼はまだ十一歳になったばかりだった。

兄・九条 南風くじょう なぎとともに、父の命でタイに取引へ行かされた。


だが、予想外の事態が起きた。

――兄とはぐれ、命を狙われたのだ。


後になって知った。

あれは兄が仕組んだ罠だったのだと。


兄は、あの混乱に乗じて彼を消そうとしたのだった。


理解できなかった。

異母兄弟ならともかく、彼らは同じ母から生まれた実の兄弟なのに。

どうして、あそこまで手酷くできるのか。


あのとき、彼は九死に一生を得た。

タイのプロの殺し屋三人――しかも手には銃。


追い詰められた彼は、ジャングルを必死で逃げた。

足元の毒蛇も毒虫も気にしていられない。とにかく、命を守るために。


だが、ついに断崖絶壁に辿り着いた。もう逃げ道はなかった。


すぐ後ろには、殺し屋たちの足音が迫る――

目を閉じて、意を決した。

そして、三十メートル下の崖へ飛び降りた。


あのときの恐怖は、幼い彼にとって、生涯忘れられない記憶となった。


刹淵組の密室に備えられた簡易ベッドで眠っていた刹夜は、そこで目を覚ました。


――夢だった。

崖から落ちた瞬間、飛び起きるように目が覚めた。


無意識に隣に手を伸ばす。

いつもなら、鈴羽のぬくもりがあるはずの場所。


だが、そこには誰もいなかった。

……ああ、彼女は病院だ。


胸がざわついた。呼吸が乱れ、心臓が早鐘のように打つ。

あれから何年経っても、あの悪夢は彼を解放してはくれない。


五年前、刹夜は兄を殺した――

世間は「実の兄を殺す冷酷な男」と彼を蔑んだ。


だが、誰が知るだろう。

十一歳のあの夜、三十メートルの崖と、銃を持つ殺し屋の恐怖に震えた少年のことを。


夜が明け、刹夜はいつも通りの会議に出席した。


そして――

鈴羽が目を覚ましたのは、その翌日の昼過ぎだった。


「奥様が目覚めました!」


病院の連絡を受け、黒岩平吾はすぐに報告を入れた。


「若頭様、病院から連絡です。奥様が目覚めたとのこと」

「……わかった」


刹夜は、いつもと変わらぬ冷ややかな表情のまま頷いた。

最後の指示を終えると、その足で病院へと向かった。


鈴羽は、自分がどれほど眠っていたのかもわからなかった。

頭が重く、まだ少し痛む。

あの日の記憶は、ところどころしか思い出せない。


ただ、小豆蛍を助けようとVIPルームに飛び込んだこと。


そのあとは、血と痛み。

そして――ほとんどが真っ白だった。


たぶん、恐怖が強すぎて記憶が曖昧になっているのだろう。


「奥様、まだ傷が深いので、無理はなさらないでください。

お薬と点滴をきちんと受けてください。頭部にも外傷がありますので、感情を高ぶらせないように。

当面は流動食のみで、睡眠もしっかりとってください。

痛みが強ければ、鎮痛剤や安定剤も検討しますので、遠慮なく仰ってください」


「……わかりました、ありがとうございます」


声はか細く、しかしはっきりと返ってきた。


そのとき、病室の扉が開いた。


「若頭様」

看護師たちが深く頭を下げる。


「……全員、出ていけ」

「かしこまりました」


医療スタッフが退出すると、刹夜は無言でベッドに近づいた。

冷たい目で、鈴羽を見下ろす。


「……お前、俺に何か言うことないのか?」


低く、冷ややかな声。

鈴羽は彼の視線を避け、目を逸らした。


「……いえ、特には」

「ない? …あの子供は誰だ? お前が命を懸けてまで助ける価値あんのか!?」


刹夜は感情を抑えきれず、声を荒げた。


「蛍ちゃん……! あの子無事? どこにいるの!?」


鈴羽の関心は、ただその少女にあった。

――それが、刹夜をますます苛立たせた。


「……今すぐ、そのガキ殺してやろうかと思ったぞ」

そう言いかけて、彼はぐっと飲み込んだ。

黒岩平吾に「奥様を刺激しないように」と散々釘を刺されたのを思い出したのだ。


「お前……ちっ、マジで絞め殺したい」

「蛍ちゃんは……大丈夫なの?」


鈴羽は繰り返した。

怒りを噛み殺しながら、彼は言った。


「無事だ。安全な場所にいる」


それを聞いた瞬間、鈴羽の表情がようやく少し和らいだ。


「……黒岩が間に合わなきゃ、お前は死んでた。お前、あの個室にいた連中が誰か分かってんのか?

なあ、鈴羽。 お前、そんなに肝が据わってたっけ? それとも救世主気取りか? 歓楽街で子供を助ける? ……ふざけんな」


苛立ちが募り、つい口汚く罵ってしまう。

けれど、鈴羽は微動だにせず、天井を見つめていた。


「……私は救世主じゃないし、すべての人を救えるわけでもない。

けど――あのとき、あの子だけは死なせたくなかった。それだけ」


「それで自分が死んでもいいってか?家族はどうする。親は?」


さらに、刹夜は彼女の複雑な生い立ちを思い出し、

「お前のばあちゃんはどうなる?」と続けた。


祖母の話を出され、鈴羽は一瞬言葉を詰まらせた。

「……退院したら、祖母に会いに行ってもいいですか?」


目に涙を浮かべて尋ねた。

だが、刹夜は冷たく言い放った。


「――夢見てんじゃねぇよ。

問題起こしおいて要求すんな。調子乗るな」


その一言に、鈴羽は黙り込んだ。

その瞳には、沈んだ影が色濃く差していた。


このとき、病室の扉がノックされた。


「入れ」


刹夜は不機嫌そうに言った。


「若頭様、奥様のお食事の時間です。医師の指示で、少量ずつ数回に分けた流動食です。私が介助しますので――」


「よこせ」


刹夜の声は冷たく、容赦がなかった。

看護師はびくりと肩を震わせ、手にしていたおかゆの入った容器を慌てて差し出し、そのまま退散していった。


「……いつまで寝たふりしてる。起きろ。飯の時間だ」

「お腹空いていません」


鈴羽は顔を背けた。


「……俺が無理やり食わせてもいいんだぞ」


「……自分で食べられます。テーブルに置いてください」


鈴羽は体を起こそうとする。


「動くな。そのままにしてろ。

…まったく、手間ばかりかけさせやがって」


そう言いながら、刹夜はスプーンを持ち、鈴羽の口元に差し出した。


「……食え」

「……」

「何睨んでる。さっさと食え」

「……本当に自分で食べられます。そんなこと、あなたがやることじゃ――」

「うるせぇ。喋るな、口が減る」


そのまま彼は、片手で鈴羽の顎を掴み、スプーンを無理やり口元へ運んだ。

……慣れない手つきだった。

鈴羽が油断していたせいか、半分ほどが口の端からこぼれた。


「……どんくさい女だな」


刹夜が吐き捨てる。

鈴羽は呆気にとられた。


(……は? 自分で食べるって言ったのに、無理やり喰わせておいて、こぼれたら私が悪いって……どんな理屈よ!?)


けれど、心の中でツッコミながらも、ふと我に返る。

――相手はヤクザ。しかも組の若頭。

そんな相手に道理を説いたところで、通じるはずがない。


そう考えると、少し気が楽になった。


「……刹夜さん、私、本当に自分で食べられるの。あなたは人のお世話ができるタイプじゃないし、無理しないでください」

「……」


鈴羽は彼が押しに弱いことを知っているので、やんわりと頼んだ。

案の定、効果は抜群だった。


「……分かってんじゃねぇか」


ぼやきながらも、鈴羽の言葉に機嫌を直したのか、スプーンを手渡してきた。


「……ほら。自分で食え。もう知らん」


鈴羽はようやく食器を受け取り、ほっと息をついた。

ベッドを少し起こし、簡易テーブルに器を置いて、ゆっくりと口に運ぶ。

味は……まぁ、命をつなぐだけのものだった。


「……何を考えてやがる、目が泳いでるぞ? 何か俺を騙そうとか思ってるんじゃねぇだろうな?」

「……蛍ちゃんに会わせてくれませんか?」


鈴羽はぽつりとつぶやく。


「……ほう、要求してくるとは、いい度胸だな」


刹夜の表情が厳しくなる。


「ただ会いたいだけです。…彼女はまだ子供。あんな場所にいるべきじゃありません」


「……他人の運命に首を突っ込んでも、お前には何の得にもならない。

お前は神でも仏でもねぇんだ。運命には運命の流れがある」


「分かっています。……でも、その流れの中で私と彼女が出会った。それもまた運命の一部、ではないんでしょうか?

もしかしたら、私が彼女の最後のチャンスかもしれないって、そう思ってましたの」


彼女の理路整然とした言葉に、刹夜は少し驚いた。


いつもは頭悪いと思っていたが、この瞬間、彼女の頭の回転の良さを初めて感じていた――


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