あの年、彼はまだ十一歳になったばかりだった。
兄・
だが、予想外の事態が起きた。
――兄とはぐれ、命を狙われたのだ。
後になって知った。
あれは兄が仕組んだ罠だったのだと。
兄は、あの混乱に乗じて彼を消そうとしたのだった。
理解できなかった。
異母兄弟ならともかく、彼らは同じ母から生まれた実の兄弟なのに。
どうして、あそこまで手酷くできるのか。
あのとき、彼は九死に一生を得た。
タイのプロの殺し屋三人――しかも手には銃。
追い詰められた彼は、ジャングルを必死で逃げた。
足元の毒蛇も毒虫も気にしていられない。とにかく、命を守るために。
だが、ついに断崖絶壁に辿り着いた。もう逃げ道はなかった。
すぐ後ろには、殺し屋たちの足音が迫る――
目を閉じて、意を決した。
そして、三十メートル下の崖へ飛び降りた。
あのときの恐怖は、幼い彼にとって、生涯忘れられない記憶となった。
刹淵組の密室に備えられた簡易ベッドで眠っていた刹夜は、そこで目を覚ました。
――夢だった。
崖から落ちた瞬間、飛び起きるように目が覚めた。
無意識に隣に手を伸ばす。
いつもなら、鈴羽のぬくもりがあるはずの場所。
だが、そこには誰もいなかった。
……ああ、彼女は病院だ。
胸がざわついた。呼吸が乱れ、心臓が早鐘のように打つ。
あれから何年経っても、あの悪夢は彼を解放してはくれない。
五年前、刹夜は兄を殺した――
世間は「実の兄を殺す冷酷な男」と彼を蔑んだ。
だが、誰が知るだろう。
十一歳のあの夜、三十メートルの崖と、銃を持つ殺し屋の恐怖に震えた少年のことを。
夜が明け、刹夜はいつも通りの会議に出席した。
そして――
鈴羽が目を覚ましたのは、その翌日の昼過ぎだった。
「奥様が目覚めました!」
病院の連絡を受け、黒岩平吾はすぐに報告を入れた。
「若頭様、病院から連絡です。奥様が目覚めたとのこと」
「……わかった」
刹夜は、いつもと変わらぬ冷ややかな表情のまま頷いた。
最後の指示を終えると、その足で病院へと向かった。
鈴羽は、自分がどれほど眠っていたのかもわからなかった。
頭が重く、まだ少し痛む。
あの日の記憶は、ところどころしか思い出せない。
ただ、小豆蛍を助けようとVIPルームに飛び込んだこと。
そのあとは、血と痛み。
そして――ほとんどが真っ白だった。
たぶん、恐怖が強すぎて記憶が曖昧になっているのだろう。
「奥様、まだ傷が深いので、無理はなさらないでください。
お薬と点滴をきちんと受けてください。頭部にも外傷がありますので、感情を高ぶらせないように。
当面は流動食のみで、睡眠もしっかりとってください。
痛みが強ければ、鎮痛剤や安定剤も検討しますので、遠慮なく仰ってください」
「……わかりました、ありがとうございます」
声はか細く、しかしはっきりと返ってきた。
そのとき、病室の扉が開いた。
「若頭様」
看護師たちが深く頭を下げる。
「……全員、出ていけ」
「かしこまりました」
医療スタッフが退出すると、刹夜は無言でベッドに近づいた。
冷たい目で、鈴羽を見下ろす。
「……お前、俺に何か言うことないのか?」
低く、冷ややかな声。
鈴羽は彼の視線を避け、目を逸らした。
「……いえ、特には」
「ない? …あの子供は誰だ? お前が命を懸けてまで助ける価値あんのか!?」
刹夜は感情を抑えきれず、声を荒げた。
「蛍ちゃん……! あの子無事? どこにいるの!?」
鈴羽の関心は、ただその少女にあった。
――それが、刹夜をますます苛立たせた。
「……今すぐ、そのガキ殺してやろうかと思ったぞ」
そう言いかけて、彼はぐっと飲み込んだ。
黒岩平吾に「奥様を刺激しないように」と散々釘を刺されたのを思い出したのだ。
「お前……ちっ、マジで絞め殺したい」
「蛍ちゃんは……大丈夫なの?」
鈴羽は繰り返した。
怒りを噛み殺しながら、彼は言った。
「無事だ。安全な場所にいる」
それを聞いた瞬間、鈴羽の表情がようやく少し和らいだ。
「……黒岩が間に合わなきゃ、お前は死んでた。お前、あの個室にいた連中が誰か分かってんのか?
なあ、鈴羽。 お前、そんなに肝が据わってたっけ? それとも救世主気取りか? 歓楽街で子供を助ける? ……ふざけんな」
苛立ちが募り、つい口汚く罵ってしまう。
けれど、鈴羽は微動だにせず、天井を見つめていた。
「……私は救世主じゃないし、すべての人を救えるわけでもない。
けど――あのとき、あの子だけは死なせたくなかった。それだけ」
「それで自分が死んでもいいってか?家族はどうする。親は?」
さらに、刹夜は彼女の複雑な生い立ちを思い出し、
「お前のばあちゃんはどうなる?」と続けた。
祖母の話を出され、鈴羽は一瞬言葉を詰まらせた。
「……退院したら、祖母に会いに行ってもいいですか?」
目に涙を浮かべて尋ねた。
だが、刹夜は冷たく言い放った。
「――夢見てんじゃねぇよ。
問題起こしおいて要求すんな。調子乗るな」
その一言に、鈴羽は黙り込んだ。
その瞳には、沈んだ影が色濃く差していた。
このとき、病室の扉がノックされた。
「入れ」
刹夜は不機嫌そうに言った。
「若頭様、奥様のお食事の時間です。医師の指示で、少量ずつ数回に分けた流動食です。私が介助しますので――」
「よこせ」
刹夜の声は冷たく、容赦がなかった。
看護師はびくりと肩を震わせ、手にしていたおかゆの入った容器を慌てて差し出し、そのまま退散していった。
「……いつまで寝たふりしてる。起きろ。飯の時間だ」
「お腹空いていません」
鈴羽は顔を背けた。
「……俺が無理やり食わせてもいいんだぞ」
「……自分で食べられます。テーブルに置いてください」
鈴羽は体を起こそうとする。
「動くな。そのままにしてろ。
…まったく、手間ばかりかけさせやがって」
そう言いながら、刹夜はスプーンを持ち、鈴羽の口元に差し出した。
「……食え」
「……」
「何睨んでる。さっさと食え」
「……本当に自分で食べられます。そんなこと、あなたがやることじゃ――」
「うるせぇ。喋るな、口が減る」
そのまま彼は、片手で鈴羽の顎を掴み、スプーンを無理やり口元へ運んだ。
……慣れない手つきだった。
鈴羽が油断していたせいか、半分ほどが口の端からこぼれた。
「……どんくさい女だな」
刹夜が吐き捨てる。
鈴羽は呆気にとられた。
(……は? 自分で食べるって言ったのに、無理やり喰わせておいて、こぼれたら私が悪いって……どんな理屈よ!?)
けれど、心の中でツッコミながらも、ふと我に返る。
――相手はヤクザ。しかも組の若頭。
そんな相手に道理を説いたところで、通じるはずがない。
そう考えると、少し気が楽になった。
「……刹夜さん、私、本当に自分で食べられるの。あなたは人のお世話ができるタイプじゃないし、無理しないでください」
「……」
鈴羽は彼が押しに弱いことを知っているので、やんわりと頼んだ。
案の定、効果は抜群だった。
「……分かってんじゃねぇか」
ぼやきながらも、鈴羽の言葉に機嫌を直したのか、スプーンを手渡してきた。
「……ほら。自分で食え。もう知らん」
鈴羽はようやく食器を受け取り、ほっと息をついた。
ベッドを少し起こし、簡易テーブルに器を置いて、ゆっくりと口に運ぶ。
味は……まぁ、命をつなぐだけのものだった。
「……何を考えてやがる、目が泳いでるぞ? 何か俺を騙そうとか思ってるんじゃねぇだろうな?」
「……蛍ちゃんに会わせてくれませんか?」
鈴羽はぽつりとつぶやく。
「……ほう、要求してくるとは、いい度胸だな」
刹夜の表情が厳しくなる。
「ただ会いたいだけです。…彼女はまだ子供。あんな場所にいるべきじゃありません」
「……他人の運命に首を突っ込んでも、お前には何の得にもならない。
お前は神でも仏でもねぇんだ。運命には運命の流れがある」
「分かっています。……でも、その流れの中で私と彼女が出会った。それもまた運命の一部、ではないんでしょうか?
もしかしたら、私が彼女の最後のチャンスかもしれないって、そう思ってましたの」
彼女の理路整然とした言葉に、刹夜は少し驚いた。
いつもは頭悪いと思っていたが、この瞬間、彼女の頭の回転の良さを初めて感じていた――