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第34話 銀髪少年


午後十八時半。

鈴羽は指定された住所へ向かい、温泉付きの別荘地にやってきた。


このあたりは町でも有名な富裕層エリアで、地価はとんでもなく高いらしい。

別荘の多くは、都会の富豪たちが年に数回、休暇や療養を目的に訪れるために購入したものだという。


夜の別荘地は、静寂に包まれていた。


人気のない豪邸が並ぶ光景は、かえって鈴羽の緊張を煽った。

目的の一軒の前に立ち、彼女はおそるおそるインターホンを押す。


しばらくして、玄関の扉がゆっくりと開いた。

姿を現したのは、若く整った顔立ちの女性だった。


「どなた?」


冷たい口調。


「こんばんは。面接で伺いました。伊藤さんのご紹介で……」


伊藤というのは、大空の叔母であり、今回のバイトを紹介してくれた人物である。


女性は終始無表情のまま鈴羽を一瞥し、「入りなさい」とだけ言った。

鈴羽はおとなしく女性の後について、屋内へと足を踏み入れる。


扉をくぐった先には、堂々と中央に鎮座するグランドピアノ。

両脇には螺旋状の大階段がそびえていた。


色彩豊かなインテリアは、まるでヨーロッパの教会のよう。

見ているだけで目が回りそうだ。


「私はこの家の執事、フィエルよ」

「よろしくお願いします、フィエルさま」


鈴羽は丁寧に頭を下げた。


「馴れ馴れしくしないで結構。この仕事は要求が厳しいから、あなたに務まるかどうかは疑問だけどね。紹介者から条件は聞いてる?」


「はい。時給一万円で、1日四時間勤務と……」


「ええ、その通り。

 ただし――うちの坊ちゃまは、とても気難しい方。少しでも気に入らなければすぐにクビ。


 とりあえず、一週間の試用期間。合格したら継続、ダメならそこまで。


 でも試用中でもちゃんと給料は出るから安心して」


「承知しました。ありがとうございます」


「で、この別荘は五階建て、地下も二層あるわ。あなたの活動範囲は一階から三階まで。地下と四階・五階には絶対に入らないこと」


「承知しました」


「掃除は専門の清掃業者が、食事は専属のシェフが担当しているから、あなたがやる必要はない」


そう言い切ったフィエルに、鈴羽は少し戸惑いながら尋ねた。


「では……私の仕事内容は?」

「坊ちゃまを喜ばせることよ」


フィエルは一言一言、はっきりと告げた。


「……え?」


鈴羽は驚きで思わず固まる。


坊ちゃまを……喜ばせる?

ってまさか…………


鈴羽の表情に動揺が浮かぶと、フィエルがすぐに訂正を入れた。


「誤解しないで。そういう意味じゃないわ。うちの坊ちゃまは財閥の本家筋の御曹司。あなたみたいな庶民の女なんて、興味の対象にもならないの。


 私が言う“喜ばせる”ってのは、彼の気分を損ねないこと。

 言われたことに逆らわず、機嫌よく過ごしてもらうの。

 例えば、水を注いだり、ワインを持って膝をついたり……あるいは一緒に窓際でぼーっとするくらい。


 とにかく、坊ちゃまは情緒が不安定で、機嫌にムラがあるの。彼が言うことには素直に従っておけばいい。


 でも、理不尽な命令や暴力的なことは一切ないから、その点は安心して。


 ああ、ひとつだけ――

 坊ちゃま潔癖症なのよ。汚いものが大嫌いなの」


最後の言葉は、明らかに侮辱を込めた響きだった。


だが――鈴羽は耐えた。

今は、なによりお金が必要だったから。


「分かりました。頑張ります。よろしくお願いします、フィエルさん」


もう一度、しっかりと頭を下げた。


「それじゃ、坊ちゃまのところに挨拶に行って。今は二階の書斎にいるはずよ。階段を上がってすぐ、一番手前の部屋」


「かしこまりました」


「あ、そうだわ。坊ちゃま、この前スキーで骨折しててね、歩くのがまだ不自由なの。支えるときはしっかり。もし彼が転んでケガでもしたら――その場でクビになると思っておいて」


「……肝に銘じます」


話を聞いた限りで、鈴羽は大体の状況を把握した。


――この家の“坊ちゃま”は、大財閥の御曹司。

性格はかなり癖が強く、潔癖症で、人を人とも思っていない節がある。


屋敷内には立ち入り禁止のエリアがあり、命令には絶対服従が求められる。

そして、最近スキーで足を骨折しており、日常動作には常に介助が必要とのこと。


何よりも、坊ちゃまを“喜ばせる”ことが求められる。

それが一番の難題だ。


人が何に喜びを感じるかは千差万別。

ましてや、癖の強い御曹司の機嫌をどう取れと言うのか……。


それでも、試用期間でも給料が出るのはありがたい。


この逃亡生活のなかで、こんなチャンスはもう二度とないかもしれない。

もしこの仕事がうまくいけば、かなりの収入になる。


フィエルとのやりとりを終え、指定された通り二階へ向かい、書斎の前まで来た鈴羽。


緊張から、手のひらにうっすら汗が滲む。

小さく深呼吸して、扉をコンコンとノックした。


中からの応答はない。


「失礼します。新しく配属された介護士です。入ってもよろしいでしょうか?」


しばらくの沈黙のあと――

奥から、透き通るような声が返ってきた。


「どうぞ」


優しい声だった。


鈴羽はそろそろとドアを開け、中の様子をうかがう間もなく――


「ガッ!!」


巨大な黒い影が彼女に襲いかかった。


「きゃあっ……!」


思わず悲鳴を上げ、鈴羽は床に倒れ込む。


息を呑みながら見上げると、そこにいたのは――大きな猟犬だった。

鋭い目と牙に、思わず身がすくむ。


噛まれるかと思ったが、犬はそれ以上何もしない。

むしろ、鈴羽の匂いをくんくんと嗅ぎ、落ち着いた様子でしっぽまで振っている。


「……へえ?」


奥のほうから、あの優しい声がまた聞こえてきた。


「気に入られたみたいだね」


その声の主に目を向けた瞬間――

鈴羽は、思わず息を呑んだ。


――銀髪。


シャンデリアの光に照らされ、きらきらと輝くそれは、まるで天使の羽のようだった。


彼がゆっくりと近づいてくるにつれ、顔がはっきり見えてきた。


――紫色の瞳。


銀髪に紫の瞳――まるで漫画の中から出てきたような美少年だった。


九条刹夜も整った顔立ちだが、彼はもっと現実味がある。

だが、目の前の少年の美しさは人間離れしている。


「君、名前は?」


優しく問いかけられ、鈴羽ははっと我に返る。


「……す、鈴羽と申します。よろしくお願いいたします」

「鈴羽、か」


少年の瞳がかすかにきらめく。


その視線に射抜かれるようで、鈴羽は思わず目をそらせなかった。

中性的で、どこか妖しい――そんな雰囲気をまとっていた。


しばらく黙ったまま鈴羽を見つめていた彼は、やがて静かに口を開く。


「鈴の音を 空へ運ぶや 白き羽……鈴羽、素敵な名前だね」


「……っ」


まるで詩を詠むような、優雅な響き。

彼の口から呼ばれただけで、名前に花が咲いたように感じられた。


「鈴羽」――ずっと地味な名前だと思っていた。

姉の“千紗”は華やかで、誰の目にも可愛らしいと映る名前だった。


それに比べ、自分の名前はどこか地味で印象に残らないと思っていた。

でも――今は、少しだけ誇らしく思えた。


魔法にでもかかったように、鈴羽はその少年から目が離せなかった。


「鈴羽」


再び名前を呼ばれた瞬間、頬が熱くなるのを感じる。


「は、はいっ……」


「ちょっとね、洗面所に行きたいんだ。足がまだ不自由で……付き添ってもらってもいい?」


「えっ……」


――いきなりハードル高すぎ!


洗面所に同行……それってまさか、脱がすところまで!?

ついそんなことまで考えてしまい、鈴羽の顔はさらに真っ赤に染まっていった――。


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