午後十八時半。
鈴羽は指定された住所へ向かい、温泉付きの別荘地にやってきた。
このあたりは町でも有名な富裕層エリアで、地価はとんでもなく高いらしい。
別荘の多くは、都会の富豪たちが年に数回、休暇や療養を目的に訪れるために購入したものだという。
夜の別荘地は、静寂に包まれていた。
人気のない豪邸が並ぶ光景は、かえって鈴羽の緊張を煽った。
目的の一軒の前に立ち、彼女はおそるおそるインターホンを押す。
しばらくして、玄関の扉がゆっくりと開いた。
姿を現したのは、若く整った顔立ちの女性だった。
「どなた?」
冷たい口調。
「こんばんは。面接で伺いました。伊藤さんのご紹介で……」
伊藤というのは、大空の叔母であり、今回のバイトを紹介してくれた人物である。
女性は終始無表情のまま鈴羽を一瞥し、「入りなさい」とだけ言った。
鈴羽はおとなしく女性の後について、屋内へと足を踏み入れる。
扉をくぐった先には、堂々と中央に鎮座するグランドピアノ。
両脇には螺旋状の大階段がそびえていた。
色彩豊かなインテリアは、まるでヨーロッパの教会のよう。
見ているだけで目が回りそうだ。
「私はこの家の執事、フィエルよ」
「よろしくお願いします、フィエルさま」
鈴羽は丁寧に頭を下げた。
「馴れ馴れしくしないで結構。この仕事は要求が厳しいから、あなたに務まるかどうかは疑問だけどね。紹介者から条件は聞いてる?」
「はい。時給一万円で、1日四時間勤務と……」
「ええ、その通り。
ただし――うちの坊ちゃまは、とても気難しい方。少しでも気に入らなければすぐにクビ。
とりあえず、一週間の試用期間。合格したら継続、ダメならそこまで。
でも試用中でもちゃんと給料は出るから安心して」
「承知しました。ありがとうございます」
「で、この別荘は五階建て、地下も二層あるわ。あなたの活動範囲は一階から三階まで。地下と四階・五階には絶対に入らないこと」
「承知しました」
「掃除は専門の清掃業者が、食事は専属のシェフが担当しているから、あなたがやる必要はない」
そう言い切ったフィエルに、鈴羽は少し戸惑いながら尋ねた。
「では……私の仕事内容は?」
「坊ちゃまを喜ばせることよ」
フィエルは一言一言、はっきりと告げた。
「……え?」
鈴羽は驚きで思わず固まる。
坊ちゃまを……喜ばせる?
ってまさか…………
鈴羽の表情に動揺が浮かぶと、フィエルがすぐに訂正を入れた。
「誤解しないで。そういう意味じゃないわ。うちの坊ちゃまは財閥の本家筋の御曹司。あなたみたいな庶民の女なんて、興味の対象にもならないの。
私が言う“喜ばせる”ってのは、彼の気分を損ねないこと。
言われたことに逆らわず、機嫌よく過ごしてもらうの。
例えば、水を注いだり、ワインを持って膝をついたり……あるいは一緒に窓際でぼーっとするくらい。
とにかく、坊ちゃまは情緒が不安定で、機嫌にムラがあるの。彼が言うことには素直に従っておけばいい。
でも、理不尽な命令や暴力的なことは一切ないから、その点は安心して。
ああ、ひとつだけ――
坊ちゃま潔癖症なのよ。汚いものが大嫌いなの」
最後の言葉は、明らかに侮辱を込めた響きだった。
だが――鈴羽は耐えた。
今は、なによりお金が必要だったから。
「分かりました。頑張ります。よろしくお願いします、フィエルさん」
もう一度、しっかりと頭を下げた。
「それじゃ、坊ちゃまのところに挨拶に行って。今は二階の書斎にいるはずよ。階段を上がってすぐ、一番手前の部屋」
「かしこまりました」
「あ、そうだわ。坊ちゃま、この前スキーで骨折しててね、歩くのがまだ不自由なの。支えるときはしっかり。もし彼が転んでケガでもしたら――その場でクビになると思っておいて」
「……肝に銘じます」
話を聞いた限りで、鈴羽は大体の状況を把握した。
――この家の“坊ちゃま”は、大財閥の御曹司。
性格はかなり癖が強く、潔癖症で、人を人とも思っていない節がある。
屋敷内には立ち入り禁止のエリアがあり、命令には絶対服従が求められる。
そして、最近スキーで足を骨折しており、日常動作には常に介助が必要とのこと。
何よりも、坊ちゃまを“喜ばせる”ことが求められる。
それが一番の難題だ。
人が何に喜びを感じるかは千差万別。
ましてや、癖の強い御曹司の機嫌をどう取れと言うのか……。
それでも、試用期間でも給料が出るのはありがたい。
この逃亡生活のなかで、こんなチャンスはもう二度とないかもしれない。
もしこの仕事がうまくいけば、かなりの収入になる。
フィエルとのやりとりを終え、指定された通り二階へ向かい、書斎の前まで来た鈴羽。
緊張から、手のひらにうっすら汗が滲む。
小さく深呼吸して、扉をコンコンとノックした。
中からの応答はない。
「失礼します。新しく配属された介護士です。入ってもよろしいでしょうか?」
しばらくの沈黙のあと――
奥から、透き通るような声が返ってきた。
「どうぞ」
優しい声だった。
鈴羽はそろそろとドアを開け、中の様子をうかがう間もなく――
「ガッ!!」
巨大な黒い影が彼女に襲いかかった。
「きゃあっ……!」
思わず悲鳴を上げ、鈴羽は床に倒れ込む。
息を呑みながら見上げると、そこにいたのは――大きな猟犬だった。
鋭い目と牙に、思わず身がすくむ。
噛まれるかと思ったが、犬はそれ以上何もしない。
むしろ、鈴羽の匂いをくんくんと嗅ぎ、落ち着いた様子でしっぽまで振っている。
「……へえ?」
奥のほうから、あの優しい声がまた聞こえてきた。
「気に入られたみたいだね」
その声の主に目を向けた瞬間――
鈴羽は、思わず息を呑んだ。
――銀髪。
シャンデリアの光に照らされ、きらきらと輝くそれは、まるで天使の羽のようだった。
彼がゆっくりと近づいてくるにつれ、顔がはっきり見えてきた。
――紫色の瞳。
銀髪に紫の瞳――まるで漫画の中から出てきたような美少年だった。
九条刹夜も整った顔立ちだが、彼はもっと現実味がある。
だが、目の前の少年の美しさは人間離れしている。
「君、名前は?」
優しく問いかけられ、鈴羽ははっと我に返る。
「……す、鈴羽と申します。よろしくお願いいたします」
「鈴羽、か」
少年の瞳がかすかにきらめく。
その視線に射抜かれるようで、鈴羽は思わず目をそらせなかった。
中性的で、どこか妖しい――そんな雰囲気をまとっていた。
しばらく黙ったまま鈴羽を見つめていた彼は、やがて静かに口を開く。
「鈴の音を 空へ運ぶや 白き羽……鈴羽、素敵な名前だね」
「……っ」
まるで詩を詠むような、優雅な響き。
彼の口から呼ばれただけで、名前に花が咲いたように感じられた。
「鈴羽」――ずっと地味な名前だと思っていた。
姉の“千紗”は華やかで、誰の目にも可愛らしいと映る名前だった。
それに比べ、自分の名前はどこか地味で印象に残らないと思っていた。
でも――今は、少しだけ誇らしく思えた。
魔法にでもかかったように、鈴羽はその少年から目が離せなかった。
「鈴羽」
再び名前を呼ばれた瞬間、頬が熱くなるのを感じる。
「は、はいっ……」
「ちょっとね、洗面所に行きたいんだ。足がまだ不自由で……付き添ってもらってもいい?」
「えっ……」
――いきなりハードル高すぎ!
洗面所に同行……それってまさか、脱がすところまで!?
ついそんなことまで考えてしまい、鈴羽の顔はさらに真っ赤に染まっていった――。