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第35話 キス、したことある?


「わ、わたし……」


鈴羽は顔を赤らめながら、しどろもどろになったが、

目の前の少年は、無邪気な微笑みを浮かべながら言う。


「無理しないで。気まずいなら、自分で行けるから。ちょっと時間かかっちゃうけどね」


目の前に立つのは、あまりにも整った顔立ちの少年。

銀色の髪に、吸い込まれそうな紫の瞳。

まるで絵本の中から抜け出してきたような、美しい存在。


――だが、鈴羽はまだ知らなかった。

この「少年」に見える男は、実際には二十七歳。

九条刹夜よりも二つ年上で、その実態は狡猾で危険な存在。


その中性的な見た目と穏やかな口調に、これまで多くの人間が欺かれてきた。

そして鈴羽は今、そのことに全く気づいていない。


「い、いえ。お手伝いします。私の仕事ですから」


見知らぬ男性をトイレまで支えるなんて、恥ずかしくて気まずい。

でも雇われた以上、それは仕事の一環だと割り切るしかない。


彼女の手を取った少年は、すっと体重を預けるように彼女の腕をとり、廊下を進んだ。


「足元、気をつけてくださいね」

「ありがとう、鈴羽ちゃん」


書斎の向かい、トイレの前まで来たとき――

少年がふいに足を止めた。


「どうかされましたか?」


鈴羽が不安げに顔を上げて尋ねると、


「……まずい、漏れたかも」

「!?」


鈴羽は絶句する。


――が、次の瞬間。


「冗談だよ」


くすくすと笑う彼。


「……」


トイレの前で鈴羽も中に入ろうとしたそのとき、彼が手で制した。


「ここまででいいよ。あとは一人でできるから」


鈴羽はほっと胸を撫で下ろす。

ドアの前で待つくらいなら……。


……だが。

五分、十分――

待っても中から出てくる気配がない。物音ひとつ聞こえない。


「坊っちゃま……? 大丈夫ですか? 何かお手伝いしましょうか……?」


返事はない。


心配になり、鈴羽は耳をドアに近づける。

すると――微かに、「うっ……」というようなうめき声が聞こえた。


「坊ちゃま……!?」


不安が一気にこみ上げ、鈴羽はドアノブに手をかけた。


「失礼しますっ!」


バンッ――!


ドアを押し開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に、息を呑む。


床には血が広がり、壁にもたれかかるようにして座る彼。

右手には鋭いナイフ。

腕や太ももにはいくつもの傷が走っている。


「なっ……坊っちゃまっ!? 何をしてるんですか!」


我に返った鈴羽は、慌ててナイフを奪い取った。

だが彼は、どこか陶酔したように微笑んだ。


「ねえ、鈴羽ちゃん……こういうの、刺激的でいいと思わない?

血の匂いってさ……空気に溶けると、甘くて、野性的で……美しい」


「……っ、あなた……イカれてますよ……! 今すぐ救急車を!」


鈴羽はすぐに階段を駆け下り、叫ぶようにフィエルを探した。


「フィエルさんっ!! たいへんです!坊ちゃまが、自傷して……血が……すごくて……!今すぐ救急車を……!」


息を切らしながら、鈴羽は必死に訴えかけた。


だが、フィエルは特に驚くでもなく、ため息交じりに淡々と鈴羽を二階へと案内した。


――戻ったときには、もう彼の姿はなかった。さっきまで床に広がっていたはずの血は、すでに乾きかけている。


「これは血じゃないわ。血糊よ」

「……は、はい?」

「坊ちゃまは……こういういたずらが好きなの。あなたが初めてじゃないわ、気にしないで」


淡々と語るフィエルに、鈴羽はただ唖然と立ち尽くした。


「さて……そろそろ坊っちゃまの夜の栄養剤の時間よ。キッチンに用意されてるから、三階のシアタールームまで持っていって。今夜はそこで映画を観てるはず。


 時間になったら、そのまま帰っていいわ。

 もし坊っちゃまが途中で寝てしまったら、その時点で退勤してかまいません。


 ――ただし、坊ちゃまの機嫌を損ねないように。それだけは絶対に忘れないで」


それだけ言い残すと、フィエルは背を向け、無言でその場を去った。

終始冷ややかな態度のままだった。


鈴羽はしばらく呆然としていた。


あの傷も血も全部イタズラだったなんて……

フィエルも慣れっこの様子だったし。


……でも、なぜそんなことを?


鈴羽は今までこんなに奇妙な人と出会った経験がなく、ただただ困惑するばかりだった。


混乱を抱えたまま、鈴羽はキッチンで参鶏湯っぽいスープを受け取り、三階のシアタールームへ向かう。


そこには、確かに彼がいた。


黒のシルクガウンを羽織り、素材の高級感が際立っていた。


けれど、その色合いやデザインはどこか重苦しい。

もともと薄暗いシアタールームの雰囲気も相まって、鈴羽は少し怖くなってしまう。


鈴羽は扉の前で立ち止まり、軽くノックする。


「坊っちゃま、スープをお持ちしました。お召し上がりください」


男は横目で一瞥しただけで、すぐにスクリーンへと視線を戻した。

まるで初対面のように冷たい。

先ほどのやり取りがなかったかのように。


「いらない。捨ててこい」

「ですが……お身体のために……」


高麗人参がまるごと入った栄養スープ。

捨てるなんて、もったいない。


「捨てろって言ってんだよ」


彼の男の声は冷たく、目も向けないまま。


「坊っちゃま……せっかくですからせめて一口だけでも……」


そう言って、一歩踏み出した――その瞬間。


カーンッ――!


手元にあったクリスタルの灰皿が、容赦なく投げつけられた。


鈴羽は避けきれず、額に直撃する。


「――っ!」


鈍い衝撃とともに、鈴羽の額には大きなタンコブができた。

幸い、灰皿は割れなかった。


それでも――

鈴羽は、両手に抱えたスープの碗をしっかりと支えたままだった。

これを落として壊してしまったら、きっと弁償などできない。


たとえ怪我をしてても、彼女は痛みに耐えながら、意地でも参鶏湯を差し出す。


「坊っちゃま、どうぞ」


真っ直ぐに、銀髪の男を見つめる。

その頑なな態度に、男は思わず目を細めた。


「……痛くないのか?」

「痛いです」


彼女は素直に答える。


「じゃあなぜそこまでして」

「だって……スープを飲んで寝てくだされば、私は帰っていいって、執事さんが言ってましたから」


ただそれだけ。


男はしばし絶句した。


もう、何人目だったか覚えていない。

この街に来てから、数えきれないほどの介護者を追い出してきた。

ケガをさせても、金で解決すれば済む話だった。


どうせ、顔や財産に群がる浅ましい連中ばかり。


だが――

目の前の彼女はちょっと様子が違った。

痛くても逃げず、手を離さず、ただただ真面目にスープを差し出す。


それも全部ただ早く退勤したい一心で?

変なやつだ。


「鈴羽……だっけ?」

「はい」

「こっちおいで、一緒に映画観よう。観終わったらスープ飲むよ」

「承知しました」


鈴羽は素直に頷き、スープをテーブルに置くと、彼の隣に腰を下ろした。


てっきりホラーかサスペンスだと思っていたのに――

スクリーンに映っていたのは、意外にも名作アニメ映画だった。

鈴羽も大好きな作品だ。


内容は何度も観て知っているのに、不思議と心が温かくなる。

ヒロインが羨ましくて、自分もあんなふうに守られたら――と、何度も夢想したことがある。


夢中になってスクリーンを見つめる鈴羽は、自分が見られていることに気づかなかった。

銀髪の男の視線は、じっと彼女の横顔を見つめていた。


「……なあ、鈴羽」

「はい?」

「男とキス、したことある?」


唐突な問いかけ。

男の顔がすっと近づく。

鈴羽はびくりと身体をこわばらせ、反射的に立ち上がった。

数歩、後ずさり――


「ぼ、坊ちゃま……おやめくださいっ……!」


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