「わ、わたし……」
鈴羽は顔を赤らめながら、しどろもどろになったが、
目の前の少年は、無邪気な微笑みを浮かべながら言う。
「無理しないで。気まずいなら、自分で行けるから。ちょっと時間かかっちゃうけどね」
目の前に立つのは、あまりにも整った顔立ちの少年。
銀色の髪に、吸い込まれそうな紫の瞳。
まるで絵本の中から抜け出してきたような、美しい存在。
――だが、鈴羽はまだ知らなかった。
この「少年」に見える男は、実際には二十七歳。
九条刹夜よりも二つ年上で、その実態は狡猾で危険な存在。
その中性的な見た目と穏やかな口調に、これまで多くの人間が欺かれてきた。
そして鈴羽は今、そのことに全く気づいていない。
「い、いえ。お手伝いします。私の仕事ですから」
見知らぬ男性をトイレまで支えるなんて、恥ずかしくて気まずい。
でも雇われた以上、それは仕事の一環だと割り切るしかない。
彼女の手を取った少年は、すっと体重を預けるように彼女の腕をとり、廊下を進んだ。
「足元、気をつけてくださいね」
「ありがとう、鈴羽ちゃん」
書斎の向かい、トイレの前まで来たとき――
少年がふいに足を止めた。
「どうかされましたか?」
鈴羽が不安げに顔を上げて尋ねると、
「……まずい、漏れたかも」
「!?」
鈴羽は絶句する。
――が、次の瞬間。
「冗談だよ」
くすくすと笑う彼。
「……」
トイレの前で鈴羽も中に入ろうとしたそのとき、彼が手で制した。
「ここまででいいよ。あとは一人でできるから」
鈴羽はほっと胸を撫で下ろす。
ドアの前で待つくらいなら……。
……だが。
五分、十分――
待っても中から出てくる気配がない。物音ひとつ聞こえない。
「坊っちゃま……? 大丈夫ですか? 何かお手伝いしましょうか……?」
返事はない。
心配になり、鈴羽は耳をドアに近づける。
すると――微かに、「うっ……」というようなうめき声が聞こえた。
「坊ちゃま……!?」
不安が一気にこみ上げ、鈴羽はドアノブに手をかけた。
「失礼しますっ!」
バンッ――!
ドアを押し開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に、息を呑む。
床には血が広がり、壁にもたれかかるようにして座る彼。
右手には鋭いナイフ。
腕や太ももにはいくつもの傷が走っている。
「なっ……坊っちゃまっ!? 何をしてるんですか!」
我に返った鈴羽は、慌ててナイフを奪い取った。
だが彼は、どこか陶酔したように微笑んだ。
「ねえ、鈴羽ちゃん……こういうの、刺激的でいいと思わない?
血の匂いってさ……空気に溶けると、甘くて、野性的で……美しい」
「……っ、あなた……イカれてますよ……! 今すぐ救急車を!」
鈴羽はすぐに階段を駆け下り、叫ぶようにフィエルを探した。
「フィエルさんっ!! たいへんです!坊ちゃまが、自傷して……血が……すごくて……!今すぐ救急車を……!」
息を切らしながら、鈴羽は必死に訴えかけた。
だが、フィエルは特に驚くでもなく、ため息交じりに淡々と鈴羽を二階へと案内した。
――戻ったときには、もう彼の姿はなかった。さっきまで床に広がっていたはずの血は、すでに乾きかけている。
「これは血じゃないわ。血糊よ」
「……は、はい?」
「坊ちゃまは……こういういたずらが好きなの。あなたが初めてじゃないわ、気にしないで」
淡々と語るフィエルに、鈴羽はただ唖然と立ち尽くした。
「さて……そろそろ坊っちゃまの夜の栄養剤の時間よ。キッチンに用意されてるから、三階のシアタールームまで持っていって。今夜はそこで映画を観てるはず。
時間になったら、そのまま帰っていいわ。
もし坊っちゃまが途中で寝てしまったら、その時点で退勤してかまいません。
――ただし、坊ちゃまの機嫌を損ねないように。それだけは絶対に忘れないで」
それだけ言い残すと、フィエルは背を向け、無言でその場を去った。
終始冷ややかな態度のままだった。
鈴羽はしばらく呆然としていた。
あの傷も血も全部イタズラだったなんて……
フィエルも慣れっこの様子だったし。
……でも、なぜそんなことを?
鈴羽は今までこんなに奇妙な人と出会った経験がなく、ただただ困惑するばかりだった。
混乱を抱えたまま、鈴羽はキッチンで参鶏湯っぽいスープを受け取り、三階のシアタールームへ向かう。
そこには、確かに彼がいた。
黒のシルクガウンを羽織り、素材の高級感が際立っていた。
けれど、その色合いやデザインはどこか重苦しい。
もともと薄暗いシアタールームの雰囲気も相まって、鈴羽は少し怖くなってしまう。
鈴羽は扉の前で立ち止まり、軽くノックする。
「坊っちゃま、スープをお持ちしました。お召し上がりください」
男は横目で一瞥しただけで、すぐにスクリーンへと視線を戻した。
まるで初対面のように冷たい。
先ほどのやり取りがなかったかのように。
「いらない。捨ててこい」
「ですが……お身体のために……」
高麗人参がまるごと入った栄養スープ。
捨てるなんて、もったいない。
「捨てろって言ってんだよ」
彼の男の声は冷たく、目も向けないまま。
「坊っちゃま……せっかくですからせめて一口だけでも……」
そう言って、一歩踏み出した――その瞬間。
カーンッ――!
手元にあったクリスタルの灰皿が、容赦なく投げつけられた。
鈴羽は避けきれず、額に直撃する。
「――っ!」
鈍い衝撃とともに、鈴羽の額には大きなタンコブができた。
幸い、灰皿は割れなかった。
それでも――
鈴羽は、両手に抱えたスープの碗をしっかりと支えたままだった。
これを落として壊してしまったら、きっと弁償などできない。
たとえ怪我をしてても、彼女は痛みに耐えながら、意地でも参鶏湯を差し出す。
「坊っちゃま、どうぞ」
真っ直ぐに、銀髪の男を見つめる。
その頑なな態度に、男は思わず目を細めた。
「……痛くないのか?」
「痛いです」
彼女は素直に答える。
「じゃあなぜそこまでして」
「だって……スープを飲んで寝てくだされば、私は帰っていいって、執事さんが言ってましたから」
ただそれだけ。
男はしばし絶句した。
もう、何人目だったか覚えていない。
この街に来てから、数えきれないほどの介護者を追い出してきた。
ケガをさせても、金で解決すれば済む話だった。
どうせ、顔や財産に群がる浅ましい連中ばかり。
だが――
目の前の彼女はちょっと様子が違った。
痛くても逃げず、手を離さず、ただただ真面目にスープを差し出す。
それも全部ただ早く退勤したい一心で?
変なやつだ。
「鈴羽……だっけ?」
「はい」
「こっちおいで、一緒に映画観よう。観終わったらスープ飲むよ」
「承知しました」
鈴羽は素直に頷き、スープをテーブルに置くと、彼の隣に腰を下ろした。
てっきりホラーかサスペンスだと思っていたのに――
スクリーンに映っていたのは、意外にも名作アニメ映画だった。
鈴羽も大好きな作品だ。
内容は何度も観て知っているのに、不思議と心が温かくなる。
ヒロインが羨ましくて、自分もあんなふうに守られたら――と、何度も夢想したことがある。
夢中になってスクリーンを見つめる鈴羽は、自分が見られていることに気づかなかった。
銀髪の男の視線は、じっと彼女の横顔を見つめていた。
「……なあ、鈴羽」
「はい?」
「男とキス、したことある?」
唐突な問いかけ。
男の顔がすっと近づく。
鈴羽はびくりと身体をこわばらせ、反射的に立ち上がった。
数歩、後ずさり――
「ぼ、坊ちゃま……おやめくださいっ……!」