羽はじりじりと後ずさり、ついには壁際まで追い詰められていた。
――逃げ道は、もうない。
銀髪の男が無言で近づき、壁と自分の体の間に彼女を閉じ込める。
怖い。
鈴羽は思わず目を閉じた。
体が強張り、一歩も動けない。
反抗したくなかったわけじゃない。
けれど、できなかった。
今日は仕事初日。
ここで雇い主の機嫌を損ねれば、この高給の仕事は終わってしまう。
パン屋のバイト代だけでは、家賃と食費をまかなうのが精いっぱい。
余分なお金なんてどこにもない。
蛍の学費を払うには、この仕事を続けるしかなかった。
――このお金、どうしても必要。
……でも、この男と親密なことをするつもりなんてかけらもない。
勇気を振り絞って断ろうと、口を開きかけたそのとき――
「坊っちゃま、私……」
言いかけた瞬間、彼女の頭上から冷たい水がぶっかけられた。
びしゃっ。
音を立てて、水が髪や服に容赦なく染み込む。
「――っ!」
驚いて目を開けると、男がコップを手に、冷笑を浮かべていた。
「まさか、本気で僕がキスすると思ったの?」
……え?
「濡れた犬みたいな女に、僕が手を出すとでも?」
鈴羽の表情は凍りついた。
あまりにも急な変化に、ついていけない。
さっきまで、優しい顔で隣に座って映画を観ていたのに。
その同じ口から、こんな侮辱が飛び出すなんて。
しかも、さっき灰皿で打たれた額はまだ痛むのに、今度はびしょ濡れ。
最悪だ――
一瞬、痛みとショックで涙が溢れそうになる。
必死に生きてるだけなのに。
ただまっとうに働いて、お金を稼ぎたいだけなのに。
どうして、こんなにも理不尽にいじめられるんだろう。
鈴羽の目に浮かんだ涙を見て、男はふいに背を向けた。
「帰っていい。今日はもう寝るから、早上がりだ。
それと――今日がキツかったなら、明日から来なくていい。
僕の金は、そんなに甘く稼げるもんじゃないから」
出会ってまだ一日も経っていないのに、この仕打ち。
まるで二重人格みたいな極端な態度。
変な人。
この人に会うまでは、九条刹夜が一番扱いづらい人間だと思っていた。
この男に比べたら、刹夜がほんの少し可愛く思えてしまう。
あの狂気じみた美貌すら、逆に懐かしくさえ感じた。
別荘を出たとき、時刻はすでに二十二時を過ぎていた。
本来の退勤時間より、三十分早い。
帰り際、フィエルが無表情で声をかけてくる。
「明日も来るつもり?」
鈴羽は少し躊躇ったが、こくりと頷いた。
お金が必要だから。
どんなにひどくても、この仕事を簡単に手放すわけにはいかない。
フィエルは無言で一枚の封筒を差し出す。
「今日の分の給料よ。余分に入ってるのはチップ。怪我もしたしね」
「ありがとうございます」
「私に礼は要らないわ。坊ちゃまのお金だから。
……それともう一つ。
明日も来るつもりなら、覚悟しときなさい。何度も言うけど、坊ちゃまは本当に気まぐれなの。誰も長続きしないから、給料が高いの。余分な分は――我慢料ってやつよ」
我慢料――
妙にしっくりくる言葉だった。
鈴羽は小さく頷いた。
「明日もちゃんと来ます。よろしくお願いします」
「馴れ馴れしくしないで。
――まぁ、一か月続けてみなさいな。今まで七人辞めてる。
全員一ヶ月もたなかった。……頑張ってね」
フィエルの声には、皮肉と諦念が混ざっていた。
この小動物みたいな少女が、あの坊ちゃまに耐えられるとは――到底思えない。
鈴羽自身も、自信があるわけではなかった。
でも、それでも……やってみたかった。
住まいに戻ったのは、すでに二十二時四十分を過ぎていた。
けれど、小豆蛍はまだ眠らず、鈴羽の帰りを笑顔で出迎えてくれた。
「お姉ちゃん、おかえり! はいっ、ジュース!」
「……え? これ、どこでもらったの?」
「大家さんと一緒に教会に行ったの。そしたらそこのシスターがくれたの。タダなんだよ!」
「教会に行ったんだ〜」
鈴羽はしゃがみ込み、蛍の小さな手を包み込むように握る。
彼女の顔はきれいに洗われていて、色あせた水色のワンピースを着ていた。
それが、蛍にとって一番のお出かけ着。
――鈴羽自身は、もっとひどい。
急いで逃げてきたせいで、服を持ち出す余裕すらなかった。
今あるのは、くたびれた私服一着とパン屋の制服だけ。
でも……まだ少しお金は残ってる。
今度、時間ができたら二人で服を買いに行こう。
「ねえ、お姉ちゃん。大家さんが教えてくれたの。教会の修道院で字の勉強ができるんだって! しかも、タダ!」
「えっ、本当に!?」
「うん! ジュースもパンももらえるんだよ!
キリスト教の信者になるんだけど、お祈りすればいいだけだって。シスターたちも優しかったよ。ごはん代も学費も浮くし、助かるでしょ!」
「……ごめんね、蛍ちゃん」
あまりにもけなげな言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
「お姉ちゃん、そんなこと言わないで。
もしお姉ちゃんが来てくれなかったら……あの夜、蛍、たぶん死んでたよ」
蛍はまっすぐな目で言った。
「お姉ちゃんは勇気出して、蛍をあそこから助け出してくれた。あのクズ親父からも全部、守ってくれた!
蛍にとって、お姉ちゃんは――神様が遣わせてくれた天使なんだよ。
だから謝らないで。蛍はね、お姉ちゃんと一緒にいられるのが一番の幸せなの!」
――子どもらしい飾り気のない言葉。
そのひとつひとつが、鈴羽の胸に真っ直ぐ届いた。
「ありがとう、蛍ちゃん……」
鈴羽はそっと、小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「私、もっと頑張って働くよ。二人でちゃんと生きていこうね」
たとえ苦しくても。
たとえ明日が見えなくても――
もう、一人じゃない。
守りたい大切な子がいるから、諦めたくなかった。
たとえ今は貧しくても、ようやく自由になれたんだ。
もう二度と、九条刹夜のもとで鳥かごに閉じ込められることはない――
そう思うだけで、ほんの少しだけ心が軽くなった。
よしっ、寝よっか!
***
一方その頃――
鈴羽が姿を消してから、九条刹夜はまともに眠れていなかった。
酒に逃げても、眠気は訪れず。
仕方なく、医者に睡眠薬を処方してもらった。
今日、刹夜は屋敷にも病院にも顔を出していない。
ようやく彼女がいなくなった現実を受け入れたようだ。
何度病院に行っても、もう彼女に会うことはできない。
そう思うと、刹夜の気持ちはますます沈んでいく。
夜。
薬を飲み、ベッドに入ろうとしたそのとき――
「若様!」
ドアの外から、黒岩平吾の切迫した声が響いた。
「……なんだよ」
刹夜は眉をひそめる。
「関西の方から情報が入りました。……奥様らしき人物が目撃されたとのことです!」
平吾は、今も鈴羽を“奥様”と呼ぶ癖が抜けない。
ちなみに、月島千紗のことは組の者たちが“月島さん”と呼んでいる。
もちろん、そのことを千紗本人は知らない――。
「なんだと?」
刹夜の顔つきが変わった。
すぐさま上着をつかみ、立ち上がる。
「どこでだ」
「ある人身売買グループの拠点です。東南アジア系の闇組織が絡んでいて、最近だけでも十二人の女性が拉致され、中東方面へ送られているとか」
「中東?」
「はい。最近あちらでは詐欺グループやナイトクラブの新設が進んでおり、顔立ちの整った女性は夜の仕事へ。
そうでない場合は、現地の詐欺コールセンターで働かされるそうで、女一人の取引価格が五万ドルを超えるとのことです」
「車を出せ」
もう一秒も待てない。
今すぐ彼女のもとへ駆け付けたい。
――関西まで、高速を飛ばせば数時間。
九条刹夜は部下を引き連れ、闇夜を裂くように車を走らせた。