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第36話 痕跡発見

羽はじりじりと後ずさり、ついには壁際まで追い詰められていた。


――逃げ道は、もうない。

銀髪の男が無言で近づき、壁と自分の体の間に彼女を閉じ込める。


怖い。

鈴羽は思わず目を閉じた。

体が強張り、一歩も動けない。


反抗したくなかったわけじゃない。

けれど、できなかった。


今日は仕事初日。

ここで雇い主の機嫌を損ねれば、この高給の仕事は終わってしまう。


パン屋のバイト代だけでは、家賃と食費をまかなうのが精いっぱい。

余分なお金なんてどこにもない。

蛍の学費を払うには、この仕事を続けるしかなかった。


――このお金、どうしても必要。

……でも、この男と親密なことをするつもりなんてかけらもない。


勇気を振り絞って断ろうと、口を開きかけたそのとき――


「坊っちゃま、私……」


言いかけた瞬間、彼女の頭上から冷たい水がぶっかけられた。


びしゃっ。


音を立てて、水が髪や服に容赦なく染み込む。


「――っ!」


驚いて目を開けると、男がコップを手に、冷笑を浮かべていた。


「まさか、本気で僕がキスすると思ったの?」


……え?


「濡れた犬みたいな女に、僕が手を出すとでも?」


鈴羽の表情は凍りついた。

あまりにも急な変化に、ついていけない。


さっきまで、優しい顔で隣に座って映画を観ていたのに。

その同じ口から、こんな侮辱が飛び出すなんて。


しかも、さっき灰皿で打たれた額はまだ痛むのに、今度はびしょ濡れ。

最悪だ――


一瞬、痛みとショックで涙が溢れそうになる。


必死に生きてるだけなのに。

ただまっとうに働いて、お金を稼ぎたいだけなのに。

どうして、こんなにも理不尽にいじめられるんだろう。


鈴羽の目に浮かんだ涙を見て、男はふいに背を向けた。


「帰っていい。今日はもう寝るから、早上がりだ。

それと――今日がキツかったなら、明日から来なくていい。

僕の金は、そんなに甘く稼げるもんじゃないから」


出会ってまだ一日も経っていないのに、この仕打ち。

まるで二重人格みたいな極端な態度。


変な人。


この人に会うまでは、九条刹夜が一番扱いづらい人間だと思っていた。

この男に比べたら、刹夜がほんの少し可愛く思えてしまう。

あの狂気じみた美貌すら、逆に懐かしくさえ感じた。



別荘を出たとき、時刻はすでに二十二時を過ぎていた。

本来の退勤時間より、三十分早い。


帰り際、フィエルが無表情で声をかけてくる。

「明日も来るつもり?」


鈴羽は少し躊躇ったが、こくりと頷いた。

お金が必要だから。

どんなにひどくても、この仕事を簡単に手放すわけにはいかない。


フィエルは無言で一枚の封筒を差し出す。


「今日の分の給料よ。余分に入ってるのはチップ。怪我もしたしね」


「ありがとうございます」


「私に礼は要らないわ。坊ちゃまのお金だから。


……それともう一つ。

明日も来るつもりなら、覚悟しときなさい。何度も言うけど、坊ちゃまは本当に気まぐれなの。誰も長続きしないから、給料が高いの。余分な分は――我慢料ってやつよ」


我慢料――

妙にしっくりくる言葉だった。


鈴羽は小さく頷いた。


「明日もちゃんと来ます。よろしくお願いします」


「馴れ馴れしくしないで。

――まぁ、一か月続けてみなさいな。今まで七人辞めてる。

全員一ヶ月もたなかった。……頑張ってね」


フィエルの声には、皮肉と諦念が混ざっていた。

この小動物みたいな少女が、あの坊ちゃまに耐えられるとは――到底思えない。


鈴羽自身も、自信があるわけではなかった。

でも、それでも……やってみたかった。


住まいに戻ったのは、すでに二十二時四十分を過ぎていた。

けれど、小豆蛍はまだ眠らず、鈴羽の帰りを笑顔で出迎えてくれた。


「お姉ちゃん、おかえり! はいっ、ジュース!」

「……え? これ、どこでもらったの?」

「大家さんと一緒に教会に行ったの。そしたらそこのシスターがくれたの。タダなんだよ!」

「教会に行ったんだ〜」


鈴羽はしゃがみ込み、蛍の小さな手を包み込むように握る。

彼女の顔はきれいに洗われていて、色あせた水色のワンピースを着ていた。

それが、蛍にとって一番のお出かけ着。


――鈴羽自身は、もっとひどい。

急いで逃げてきたせいで、服を持ち出す余裕すらなかった。

今あるのは、くたびれた私服一着とパン屋の制服だけ。


でも……まだ少しお金は残ってる。

今度、時間ができたら二人で服を買いに行こう。


「ねえ、お姉ちゃん。大家さんが教えてくれたの。教会の修道院で字の勉強ができるんだって! しかも、タダ!」


「えっ、本当に!?」


「うん! ジュースもパンももらえるんだよ!

キリスト教の信者になるんだけど、お祈りすればいいだけだって。シスターたちも優しかったよ。ごはん代も学費も浮くし、助かるでしょ!」


「……ごめんね、蛍ちゃん」


あまりにもけなげな言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。


「お姉ちゃん、そんなこと言わないで。

もしお姉ちゃんが来てくれなかったら……あの夜、蛍、たぶん死んでたよ」


蛍はまっすぐな目で言った。


「お姉ちゃんは勇気出して、蛍をあそこから助け出してくれた。あのクズ親父からも全部、守ってくれた!

蛍にとって、お姉ちゃんは――神様が遣わせてくれた天使なんだよ。

だから謝らないで。蛍はね、お姉ちゃんと一緒にいられるのが一番の幸せなの!」


――子どもらしい飾り気のない言葉。

そのひとつひとつが、鈴羽の胸に真っ直ぐ届いた。


「ありがとう、蛍ちゃん……」


鈴羽はそっと、小さな体をぎゅっと抱きしめた。


「私、もっと頑張って働くよ。二人でちゃんと生きていこうね」


たとえ苦しくても。

たとえ明日が見えなくても――

もう、一人じゃない。


守りたい大切な子がいるから、諦めたくなかった。

たとえ今は貧しくても、ようやく自由になれたんだ。


もう二度と、九条刹夜のもとで鳥かごに閉じ込められることはない――

そう思うだけで、ほんの少しだけ心が軽くなった。


よしっ、寝よっか!


***


一方その頃――

鈴羽が姿を消してから、九条刹夜はまともに眠れていなかった。


酒に逃げても、眠気は訪れず。

仕方なく、医者に睡眠薬を処方してもらった。


今日、刹夜は屋敷にも病院にも顔を出していない。

ようやく彼女がいなくなった現実を受け入れたようだ。


何度病院に行っても、もう彼女に会うことはできない。

そう思うと、刹夜の気持ちはますます沈んでいく。


夜。

薬を飲み、ベッドに入ろうとしたそのとき――


「若様!」


ドアの外から、黒岩平吾の切迫した声が響いた。


「……なんだよ」


刹夜は眉をひそめる。


「関西の方から情報が入りました。……奥様らしき人物が目撃されたとのことです!」


平吾は、今も鈴羽を“奥様”と呼ぶ癖が抜けない。

ちなみに、月島千紗のことは組の者たちが“月島さん”と呼んでいる。


もちろん、そのことを千紗本人は知らない――。


「なんだと?」


刹夜の顔つきが変わった。

すぐさま上着をつかみ、立ち上がる。


「どこでだ」


「ある人身売買グループの拠点です。東南アジア系の闇組織が絡んでいて、最近だけでも十二人の女性が拉致され、中東方面へ送られているとか」


「中東?」


「はい。最近あちらでは詐欺グループやナイトクラブの新設が進んでおり、顔立ちの整った女性は夜の仕事へ。

そうでない場合は、現地の詐欺コールセンターで働かされるそうで、女一人の取引価格が五万ドルを超えるとのことです」


「車を出せ」


もう一秒も待てない。

今すぐ彼女のもとへ駆け付けたい。


――関西まで、高速を飛ばせば数時間。


九条刹夜は部下を引き連れ、闇夜を裂くように車を走らせた。


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